ひたすらに砂漠を歩き続けていた少年は、ふと足を止めた。
延々と広がるように見えた不毛の地が、唐突に終わりを告げたのである。
前方に、村らしき小さな集落が見えた。
村や町の存在は、砂漠の終着点を示す。
少年の顔は、我知らず綻んだ。
ようやく砂まみれの徒歩から解放されるのだ。
少年は、心を埋め尽くそうとしていた『養父母の死』という哀しみを払拭するように、立ち止まっていた足を大きく前へ突き出した。
そのまま駆け出そうとした時、
「――待つがよい」
嗄れた声が、少年を引き止めたのである。
少年は驚きと共に再び足を止め、キョロキョロと辺りを見回した。
自分以外の人の気配など、微塵も感じなかった。
それに、つい先刻までは、確かにこの砂漠には自分一人しか存在していなかったはずだ。
「待たれ、若いの」
不思議がる少年に、声は呼び掛け続ける。
だが、少年には、声の持ち主が何処にいるのか捜し当てることが出来なかった。
「ここじゃよ、ここ」
少年の困惑に気付いたのか、次の声は幾分優しげに響いた。
すぐ傍で聞こえる声。
頭上から降り注いでいるようだ。
声に誘われるように、少年は顔を上げた。
「――あっ……!」
ほんの僅かな時間、驚愕に目を瞠る。
少年の隣にある砂岩の上に、何者かが座っていたのだ。
少年は、初め『それ』を人間だとは見極められなかった。
岩と同じような色褪せた外套を纏った小さな塊――だが、よくよく目を凝らして見ると、砂岩と同化しているかに見える物体は、皺だらけの老人だったのである。
声の主は、間違いなく老人だろう。
深い皺を刻んだ顔の中で怜悧な光を宿す双眸と、両手に大事そうに抱える一メートル強の細長い包みが印象的だった。
「僕に……何か用ですか?」
少年は多少の気味悪さを感じながら、怖ず怖ずと老人に声を掛けた。
いくら村が近いとはいえ、砂岩の上に座り込んでいるなど狂気の沙汰だ。
炎天下の砂漠では自殺行為。干からびて死んでしまう。
だが少年の見る限り、老人は至って元気そうだった。
常人ではなく魔物か何かの類いかもしれない、と本能が警告を発した。
少年の声に含まれる緊張と警戒を、老人は悟っているのかいないのか、
「美しい声じゃの……」
少年の質問とは全く見当違いな返答を述べたのである。
その声音に、懐かしむような、愛しむような響きを感じて、少年は怪訝そうに小首を傾げた。
記憶の中に、この老人の姿はない。
「若いの、何処へ行く気じゃ?」
老人は少年の戸惑いを無視して、問い掛けてくる。
「ロレーヌのイタール国です」
「そんな国は、この先にはないぞ。十八年前に滅んだ国じゃ……いや、滅ばされた国じゃ」
老人の眼差しが、探るように少年を射た。
「……言い方を間違えました。僕は、カシミア国イタール領へ行きたいのです」
少年は素早く訂正した。
間を空けずに、老人の口から妙に疲れ切った溜め息が吐き出される。
「十九年前にキールが……そして、十八年前にはイタールがカシミアによって滅ぼされた。滅んだ地に、何の用じゃ?」
老人の嗄れた声は、重々しく苦渋に満ちている。
双眼に垣間見えた暗い光は、憎悪の炎だろうか……?
「僕が生まれたのはイタールだ、と両親に聞かされましたので……」
生命を捨ててまで自分を守ってくれた養父母のことを想うと、胸が痛んだ。
「――それより、どうして僕を引き止めたのですか?」
脳裏から優しい養父母の姿を締め出すように、少年は急に話題を転換させた。
老人が自分に用がないのなら、早々に失礼して村に辿り着きたかった。
不用意に老人に付き合って、厄介事に巻き込まれてはたまったものではない。
「なに……大したことではないのじゃ。わしは、もう二十年近くも、ここに一人でいるのでな、久し振りに話し相手が欲しかっただけじゃよ」
老人の皺だらけの顔が奇妙に歪んだ。
少年は、老人の言葉に恟然とした。
「二十年って……そんなに長い間、この岩の上に座っていたのですか!?」
知らずの内に、声が高くなってしまう。
二十年もの間、この場所に飲まず食わずで座り込んでいるのだとしたら、やはり、この老人は普通の人間ではないのだ。
「まあ、そうゆうことになるかな? これでも、わしは魔術師なのじゃよ。その魔法力も、もうすぐ尽きてしまうがな……。だから、力尽きてしまう前に最期の話し相手が欲しかったのじゃ」
老人の表情は、とても真摯なものだった。
「……いいですよ。僕でよければ話し相手になります」
少年には、老人を冷たく突き放すことなど出来なかった。
老人の瞳が切々と訴えてくるのだ――話を聞いて欲しい、と。
「嬉しいことじゃな。では、おぬしには、とっておきの話を聞かせてやろう。……この老いぼれが誰かに聞いて欲しかった話しじゃ。今まで誰にも語ったことのない、大切な……あの方の――」
不意に老人の言葉が途切れた。
視線は少年に当てられているが、その眼差しは何処か遠くを――何か別のものを見つめていた。哀しくも、慈愛に満ちた眼差しで。
「誰も知らない……後世に伝えることすら禁じられた、愛しいあの方の……」
老人の瞳が、記憶の底に眠った思い出を呼び覚ますかのように、ゆっくりと閉じられる。
「あの方――とは、誰なのですか?」
少年が問うと、老人の瞼が跳ね上がった。
迷いのない澄んだ双眸が、少年を捉える。
「若いおぬしも、名前ぐらいは耳にしたことがあるじゃろう。アーナス様――ギルバード・アーナス・エルロラ様のことじゃよ」
「――――!」
少年は、老人の言葉に言い表し様のない衝撃を受けた。
ギルバード・アーナス・エルロラ。
このロレーヌで、いや、大陸中の誰もが知らぬはずのない偉大な名。
キール・ギルバード王朝最後の王女――ギルバード・アーナス。
ロレーヌ戦争に於いて、果敢にカシミアと戦った勇ましい烈光の女神。
その神々しい姿と、戦場における実績は、彼女が若干十九歳でこの世を去った後も人々の話題から絶えることがなかった。
故に、戦争の勝利者であるカシミア王ラパスにより、その名を口にすることすら禁じられた人物。
伝説の英雄。
その人物を、この老人は知っているというのだ。
驚くな――という方が無理な話しである。
少年は驚愕の面持ちで老人を見つめ返した。
少年の視線を受けて、老人が緩やかに頷く。
「アーナス様は、一二六七年、キールの王女としてこの世に誕生する。その際、天空から稲妻が迸り、王妃リネミリア様の枕許に一振りの宝剣を突き刺したのじゃ。剣の刃は、水晶の如く透明で美しい輝きを放ち、最強部には銘が刻まれておった。『我、エルロラ、汝を祝福す』とな。王女は誕生と同時に、大陸の創世主にして全知全能の神――エルロラの加護を受けたというわけじゃ。王女はエルロラ神の名を戴き『ギルバード・アーナス・エルロラ』と命名され、神剣は『ローラ』と名付けられる……。そして、あの方の輝かしくも儚い人生は始まった――」
「1.王都炎上」へ続く← NEXT→ BACK