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ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です
Fri
2009.06.05[08:50]
 ――天は久遠の時を歩み続ける
   
    出逢い――そして、別れ
    誰もが必ず経験するもの

    全てはそこから始まる

    別れのない出逢いなどあるはずがない
    たとえ、それが《神》だとしても――





 地天居城――善地城


 ――リーン、リーン……。
 城の中を一人の女が歩いていた。
 歩を進める度に、両の足首に填められている金色の足輪がぶつかり合い、美しい玲瓏を響かせる。
 ――リーン、リーン……。
 女は、夜の闇のような黒髪を靡かせ、広い通路を流れるような足取りで進んでいた。
 毅然と前を見据える黄金色の双眸は崇美で高雅。
 瞳と同じ金色で統一された宝飾品は、彼女の透けるような肌の白さを際立たせている。
「――蘭麗(らんれい)様!」
 不意に名前を呼ばれて、女は足を止めた。
 蘭麗――天王を守護する七天が一人、地天の名前だ。
 女はこの城の主――《地の一族》の女王なのである。
 蘭麗は身を反転させ、駆け寄ってくる側近を無言で迎えた。
「どちらへお行きになるのですか、蘭麗様? まだ傷は完全に癒えていませんのに」
 側近頭の薙(なぎ)が心配そうな視線を蘭麗に注いでくる。
 つい先日、蘭麗は狡猾な襲撃に遭い、酷い怪我を負ったばかりなのだ。裡に秘めた神力のおかげで目覚ましい回復を見せてはいるものの、まだ完治には至っていないはずだ。
「表の庭だよ。心配することはない。いつまでも寝台に縛りつけられていては、身も心も腐ってしまう。痛みも殆どないし、身体の自由は利くのだから、気晴らしに散歩するくらいは構わないだろう?」
 蘭麗は苦笑混じりに応じる。
 負傷してからというもの、連日寝室に軟禁状態だったのだ。側近や侍女たちが自分を案じる気持ちも解るが、正直退屈だった。傷が徐々に癒え、痛みが緩和されてくると尚更だ。
 いつもでも寝台に横たわっているのは性に合わない。
 そこで、軟禁生活に辟易したした蘭麗は、侍女たちの目を掻い潜って寝所を抜け出して来たのである。
「……仕方ありませんね。ただし、城の庭からは絶対にお出にならないで下さい。あまり長い時間は駄目ですよ」
「解ってるよ。ありがとう、薙」
「華蓮(かれん)様は一緒ではないのですか?」
 ふと、薙が思い出しように訊ねてくる。
「華蓮は眠っているよ。寝かせるのに苦労した。あのお転婆娘は、母親の私の言うことなど全く聞かないのだ」
 蘭麗は再び苦笑いを浮かべた。だが、言葉の内容とは裏腹に、彼女の声音には愛しさと優しさが確かに織り込まれていた。
 華蓮というのは、蘭麗の幼い娘のことだ。
 その存在は、父親には報せてはいない。
 子供を身籠もった時に、父親に告白するのを躊躇ってしまったのだ。以来、華蓮の父親を頑なに避け続けて来たので、彼は娘のことを全く知らない。
 蘭麗に娘がいることは、この城の中だけの秘密なのだ。
「蘭麗様が元気になられたことが嬉しくて、はしゃいでいるのでしょう。王が瀕死の状態の時、『お母様、お母様!』と大泣きして寝台の傍から離れようとしなかったのですから……」
 薙が穏やかに微笑む。
 華蓮は城中の皆から愛情を注がれて、健やかに育っているのだ。
「ですが、蘭麗様――」
 ふっと、薙が表情を曇らせ、口籠もる。
 蘭麗が目顔で先を促すと、彼女は気遣わしげな表情で先を続けた。
「本当に、あの方にお報せしなくてよろしいのですか? 華蓮様のあの姿を城外の者に見られたら――ただ一目で誰の御子か解ってしまいますよ」
「ああ……いいのだよ。あれに余計な心配をさせることはない」
「それでは不公平ですわ。あの方は狡いです。何も知らずに――」
「報せなかったのは、私だよ」
「でも、蘭麗様は心の臓が弱いのに無理に出産されて……身を削ったのですよ。そのことが大きな負担となり、更に病が悪化してしまったというのに、あの方は――」
「私の病のことも誰も知らないことだよ。華蓮を生んだことについては、微塵も後悔してはいない。私は、己の身がどうなろうと――あいつの子供をこの腕に抱きたかったのだよ」
 蘭麗は薙を真っ直ぐに見据え、きっぱりと断言した。
 言葉に嘘はない。
 自分は愛する男の子を産みたかったのだ。
 ……ただ、それだけのことだ。
 未だに釈然としない面持ちを自分に向けている薙を見て、蘭麗は静かに言葉を繋いだ。
「それに、華蓮はいずれこの城の主となる――と、以前水鏡が言っていた。あれの予言は、いつでも見事に命中するからな。あいつが華蓮の存在を知ったところで、華蓮と共に生きていくことは不可能だ」
 それだけを述べると、蘭麗は優雅に身を翻した。
 当初の目的を達成させるべく廊下を進み始める。
「蘭麗様……」
 薙の悄然とした囁きが、蘭麗の背中に届く。
 蘭麗は振り向かずに、口角を微かにつり上げて笑んだ。
 淋しげな微笑に呼応するかのように、幾重にも巻かれた足首の金環が揺れる。
 リン……と、物悲しい金属音が広い回廊に谺した。



 
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Fri
2009.06.05[08:52]
 蘭麗は庭園へ出ると、ある一角を目指して迷わずに足を進めた。
 目的は、鮮やかな紅色の群生――曼珠沙華の花園だ。
 蘭麗は園の中央で歩みを止めると、咲き乱れる曼珠沙華の中に身を埋めた。
 ここは蘭麗にとって数少ない心休まる場所なのだ。
 花を通して地に触れると心地好い。大地の庇護を受けている地天だからこそ、地に身を委ねている時が一番落ち着いた。
 蘭麗は花の薫りを堪能するように大きく息を吸い込んだ。
 サーッと風が吹く。
 紅色の花びらが一斉に宙に舞った。
 ――綺麗だ。
 乱舞する花びらに思わず見入ってしまう。
 不意に、蘭麗の視界を何かがよぎった。
 瞳に鮮烈に映し出されたのは、紅の中に浮き上がる白。
 それは真っ白な花びら――いや、純白に輝く羽根だった。
「――迦羅紗(がらしゃ)?」
 蘭麗はハッと目を瞠り、背後を顧みた。
 いつの間に出現したのか、花園の中に白い翼を広げている男の姿があった。
 艶やかな白き翼にめを奪われる。
 空天・迦羅紗だ。
 天界で唯一翼を与えられた《空の一族》――生まれながらにして大空を翔ることを許された貴き天人だ。
 迦羅紗はゆっくりと蘭麗に歩み寄ってきた。
「昨日、天王様から紫姫魅の件を聞いた。重傷だと聞いたから様子を見に来たのに……思ったよりも元気そうだな?」
 迦羅紗がまじまじと蘭麗を見つめてくる。
 蘭麗は静かに彼を見上げた。二人きりで顔を合わせるのは、随分久し振りのような気がする。
「……私の様子を見るために、わざわざ善地城まで来たのか? 戦が始まるというのに暢気だな」
 紫姫魅の叛乱が天王の口から告げられたのに、一族の長たる空天が共の者も従えずに一人で出歩くなんて信じられない。蘭麗が闇討ちされたことを知っているのならば尚更だ。一人のところを紫姫魅に付け狙われる危険性があるというのに……。
「ああ。おまえが――呼んでいるような気がしてな」
「私は呼んでなどいないぞ」
 素っ気なく応じて、蘭麗はフイッと迦羅紗から視線を逸らした。
 迦羅紗が盛大な溜息を吐き出し、肩を聳やかす。
「素直じゃないな。……ところで、ソレ――そのチャラチャラしたの、何て言ったっけ?」
 迦羅紗の視線が蘭麗の顔から足元へと流れる。
 釣られるように、蘭麗も己の足に視線を移した。迦羅紗が指しているのは、蘭麗の足元を彩る幾重にも巻かれた黄金の足環のことだろう。
「特別な名などない。ただの金環だ」
「名はないのか。おまえらしいけど……。ソレの音が耳から離れないんだ。綺麗な音色だが、どことなく淋しそうで……。昔からずっと身につけてるけど、邪魔にならないか?」
「金属は好きなんだ。金属も鉱物も――みな、この大地から生まれる。地天である私とは相性がいいのだよ。おそらく、金環は死ぬまでこのままだろうな」
「物凄く鬱陶しそうだけどな」
「……もしも私の方が先に死んだら、おまえが金環を取ればいい、迦羅紗」
 蘭麗はフッと真摯な眼差しで迦羅紗を見据え、幾分挑戦的な声音で言を紡いだ。
 迦羅紗の若葉色の瞳がじっと蘭麗に注がれる。
「オレが?」
「鬱陶しいのだろう? だったら、おまえが外せばいいのだ」
「死んでからでは意味がないだろ? ――変な女だな」
 迦羅紗が苦笑混じりに告げ、再び肩を竦める。
 彼は広げていた翼を閉じると、蘭麗の隣に腰を下ろした。
 微風が二人の頬を優しく伝う。
 深紅の曼珠沙華が幻想的に舞った。

「蘭麗――」
 短い静寂の後、迦羅紗が蘭麗の頬に手を伸ばす。彼は蘭麗の顎を指で捕らえ、掬うように持ち上げた。
「……何だ?」
 蘭麗は迦羅紗の行為に怪訝な眼差しで応じた。
「白いな。いつも白いけれど、今日は特別に白い。まるで透けているようだ。このまま消えてしまいそうだな。おまえ――死期が近いんじゃないのか?」
 迦羅紗の双眸が鋭い光を湛え、スッと細められる。
 迦羅紗の唐突な言葉に、蘭麗は微かに身を震わせた。
 確かに、自分にはあと僅かしか時間が残されていない。
 ただ、何故迦羅紗がそれを感じ取ることが出来たのか、不思議でならなかった。
 迦羅紗に自分の心情をさらけ出したことは一度もなかったはずだ。病のこととて微塵も口には出していない。
 なのに、どうして《死》の闇が迫っていることを彼に察せられてしまったのだろうか……?
 考えると――胸が痛む。
 今まで蘭麗は迦羅紗に対して冷たく接してきた。
 これからの未来もそうするだろう。
 醜い嫉妬だ。
 蘭麗自身がよく理解している。
 生まれながらにして翼を与えられた者への妬心――そして、羨望。
 複雑な感情が心の裡で交錯するから迦羅紗に優しくなど出来ない。
 ――それに、私はもうすぐ死ぬのだ。
 覆しようのない未来を解っていながら、迦羅紗の愛情を受け入れたり、彼に甘えたりすることは絶対にしたくはなかった。
「馬鹿なことを言うな!」
 蘭麗は険しい表情で迦羅紗を睨めつけると、彼の手を邪険に払い除けた。
 迦羅紗の羽根を己が我欲で引き千切ってしまわぬように――




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Sat
2009.06.06[09:47]
 蘭麗が無慈悲に払った手を迦羅紗の若葉色の双眸が見つめる。
 冷淡な応対をされることに慣れているのか、迦羅紗の端整な顔からは何の感情も窺えなかった。
「……悪かった。だが、今日のおまえは――何処か変だ」
「おまえの杞憂だ。他人の心配より自分の心配をしろ!」
「オレが、おまえの身を案じてはいけないのか?」
「そうは言ってない。――まったく、闘いの前だというのに緊張感がないのだな。紫姫魅に狙われているかもしれぬのに……。そんな腑抜けた気構えだから、戦のたびに必ず怪我をするのだ、迦羅紗は」
「それは――オレの心配をしてくれているのか?」
 迦羅紗が唇に弧を描かせ、悪戯っぽい眼差しを注いでくる。
「ち、違うっ……! 私はただ、おまえの迂闊なところが嫌いなだけだ。――いや、そんなことはどうでもよい。今日は……帰ってくれないか? 身体の傷がまだ少し痛む。長く外にいると侍女たちに叱られるのだよ」
 蘭麗は迦羅紗から視線をずらし、はぐらかすように話題をすり替えた。
「……了解。これ以上は嫌われたくないからな。思ったより元気そうでよかった」
 迦羅紗が穏やかに微笑む。生命力に満ち溢れた若草色の瞳が、喜色を表すように細い三日月を作った。
 花園を通過する風が、彼の見事な白金髪を靡かせる。
 迦羅紗はしばし蘭麗を眺めた後、徐に立ち上がり、翼を広げた。
 蘭麗の眼前で穢れのない真っ白な羽根が優美に揺らめく。
「迦羅紗――」
 蘭麗は咄嗟に今にも飛び立ちそうな迦羅紗を引き止めていた。
「ん? 何だ?」
 迦羅紗がゆるりと蘭麗を振り返る。
「私に……おまえの羽根をくれないか?」
「――羽根? こんなもの何に使うんだ?」
「単純に私が持っていたいのだよ。――駄目か?」
 蘭麗は黄金色の双眸でしっかりと迦羅紗を捕らえた。
 迦羅紗の顔に驚きの色が浮かび上がる。蘭麗の唐突な申し出に呆気にとられているらしい。
「駄目じゃないけど……珍しいな。おまえがオレに頼み事をするなんて。どういう風の吹き回しだ?」
 迦羅紗が数度目をしばたたかせる。
 蘭麗が黙していると、迦羅紗は短く嘆息し、己の翼から羽根を一枚引き抜いた。蘭麗の手の中にそれをそっと握らせる。
「――死ぬなよ、蘭麗」
「迦羅紗こそ……」
 蘭麗の素っ気ない言葉に、迦羅紗は綺麗な微笑みを返してきた。
 サーッと風が吹く。
 同時に、迦羅紗の翼が華麗に羽ばたいた。
 曼珠沙華と共に白い羽根が乱舞する。
 紅い花びらが地に舞い戻ってくる頃には、迦羅紗の姿は何処にも見当たらなくなっていた。
 蘭麗は迦羅紗が去った空を仰ぎ見たまま、花園から立ち上がる。
 リーン、リーン……。
 足首の金環がぶつかり合い、澄んだ玲瓏が辺りに響く。
 ――私はおまえを裏切るのだろうか、迦羅紗?
 雲一つない蒼穹を眺め、蘭麗は眩しさに目を眇めた。
 蘭麗が決して手に入れることの出来ぬ純白の翼――大空に舞い上がる迦羅紗の姿が鮮やかに網膜に焼きついている。
 ――私はおまえが嫌いなわけではない。寧ろ……。
 胸中で呟きかけて、蘭麗はフッと自嘲の笑みを零した。
 今更告げても仕方がない。馬鹿馬鹿しくなるだけだ。
 苦しい想いや切ない気持ちを抱くのは、もうたくさんだった。
「どんなに足掻いても、迦羅紗と一緒になることは出来ぬ。私は《地》でおまえは《空》なのだから……。もう充分だ。おまえは私に華蓮を授けてくれた。あの子は、きっとおまえを愛するだろう。この身が滅んでも――私は華蓮の裡で生き続けるのだから……」
 蘭麗は愛娘の姿を想起した。
《地の一族》でありながら、その背に迦羅紗と同じ白き翼を持つ愛しい我が子。
 いつか、彼女は父親と同じように空へ飛び立つだろう。
 叶わなかった蘭麗の想いの分まで、蒼天を翔るに違いない。
 それだけが今の蘭麗にとっては救いだった。
「報われぬ想いに囚われすぎて、痺れを切らせた私……。氷天、おまえなら解ってくれるだろうか?」
 蘭麗はそっと瞳を閉ざした。
 脳裏に銀髪の艶やかな青年の姿が浮かび上がる。
「私のこの葛藤を……。禁じられた想いを胸に秘めている彩雅。双子の妹を誰よりも愛するおまえなら――」
 そっと独りごち、蘭麗はゆっくりと瞼を押し上げた。
 再び抜けるような青空が視界を埋め尽くす。
 ――愛している。
 蘭麗は迦羅紗から貰い受けた羽根を目の前に翳した。
 ――愛している、迦羅紗。
 生涯、口外することはないけれど……。
 報われぬ想いに呪縛され、身を切り刻まれる者とそれを断ち切ろうとする者。
 愛するが故に貪り合い――傷つけ合う。
 ――私は一足先に断ち切らせてもらうぞ、彩雅……。
 迦羅紗の羽根に軽く口づけると、蘭麗は激しい勢いで身を翻した。
 前を見据える黄金色の双眸は、彼女の鋼の意志を顕すように苛烈な輝きを放っていた――


     *


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Sat
2009.06.06[09:53]
 炎天居城――煌緋城


 天界の南西にその城は聳えていた。
 直径二キロ、高さ六百メートルの巨大な建造物である。
 外観は紅水晶と赤褐色の瑪瑙で装飾されており、煌びやかかつ荘厳だ。
 城自体が一つの小さな都市であり、中には《炎の一族》が五千人余り生活を営んでいる。
 一族を束ねるのは、七天が一人――炎天・綺璃(あやり)であった。


 天王から紫姫魅討伐の命が下ってから数日後――氷天・彩雅(さいが)は、煌緋城の南端に位置する廊下で所在なげに佇んでいた。
 端整な顔には、困ったような笑みが浮かんでいる。
 彩雅の隣には、一人の少年が控えていた。額の中央に水晶を填め込んでいる少年の名は――雪。彩雅の側近である。
 彩雅が困っているのは、決して雪のせいではない。廊下の先にいる紅髪の青年のせいだ。
 彩雅は、親友である炎天・綺璃に逢うために煌緋城を訪れていた。
 炎天に相応しい深紅の髪と瞳を持つ青年こそが、当の綺璃なのである。
 綺璃は、先ほどからある部屋の前で扉越しに誰かと言葉を交わしている――というよりも言い争っている……。
 綺璃が相手にしているのが誰なのか、彩雅には疾うに解っていた。
 綺璃の正妃である鞍馬(くらま)だ。
 彩雅と雪が困惑気味に見守る中、夫婦の口論は続く。
「いい加減にしろよ、鞍馬! 炎天の妻ともあろう者が、氷天が来ているのに挨拶もしないなんて……! 一体、どういう了見だっ!?」
 綺璃が怒鳴り声で扉の向こう側にいる鞍馬に呼びかける。
「わたくしは、自分の意志であなたの妻になった覚えはありませんわっ!」
 即座に、硬質的な女性の声が返ってくる。
 妻の声を聞くなり、綺璃の眉が怒りを表すように跳ね上がった。
「何を言ってるんだ、おまえはっ!?」
「……本当のことでしょう? あなたは――わたくしを愛してはいないのですから!」
「おい、ふざけるのも大概にしろよ! 俺は、彩雅が来てるから挨拶しろ、って言ってんだぞ!」
「くどいですわっ! 彩雅様には申し訳ありませんが――お逢い致しません! わたくしは今、あなたの顔を見るのが心底嫌なのです、綺璃!」
 鞍馬の声は相変わらず冷たい。頑なに綺璃を拒絶し続けている。
 綺璃がきつく眉根を寄せる。
「――ったく、勝手にしろっ!」
 怒りに任せて扉を蹴りつけようとする友人を見て、彩雅は慌てて綺璃に駆け寄った。
「綺璃――もういいから」
 綺璃の肩にそっと手を置き、宥めるように囁く。
 すると、綺璃は上げかけていた足をピタッと止め、ゆっくりと本来あるべき位置へ戻した。


「……悪いな、彩雅。最近、どうにも機嫌が悪くて――」
 綺璃は溜息混じりに言葉を吐き出す。
 妻の鞍馬は、ここのところずっと虫の居所が悪いのだ。
 祭りや宴――公式の場にすら出席しようとしない。綺璃と顔を合わせたくないらしく、食事の時間などもずらしてあからさまに夫を避け続けている。挙げ句の果てには、寝台に潜り込んだ途端、殴る蹴るはもちろん物を投げつけられて追い返される始末だ。
 鞍馬の癇癪は今に始まったことではないが、それでも新婚当初はここまで酷くはなかったはずだ。
 綺璃には鞍馬に邪険に扱われる原因が皆目解らなかった。何とか機嫌をとろうと試みるのだが、どれもこれもが全く功を奏さない。
「私は気にしてないから、鞍馬天をあまり叱らないでやってくれ」
 彩雅は、不機嫌に唇をへの字に結んでいる綺璃に向けて優しく微笑みかけた。
「彼女は私たちに比べたらまだ子供なのだし、何より先の乱の敗将――阿摩天の愛娘だ。彼女にとって、私たちは父親の仇なのだよ。中々心を開いてくれないのは当然のことだろう。そこのところを綺璃がもう少し理解してあげなければ、可哀想だ。鞍馬天には、おまえしか頼れる者がいないのだから」
「……解ってる」
 綺璃の唇からまた重苦しい溜息が洩れる。
 鞍馬は、二百年前に天王に背いた阿摩天の一人娘なのだ。
 本来ならば、父親と共に彼女も処罰されるはずだった。だが、綺璃には、まだ幼さの残る少女を見捨てることが出来なかったのだ。鞍馬を護りたい一心で天王に直訴し、一族の反対を押し切ってまで彼女を正妃に迎え入れたのである。
 後悔などしていない。
 ただ、鞍馬が自分の愛情を信じず――受け入れずにいることが、腹立たしくもあり、辛くもあるのだ。


「俺は……あいつに本気で惚れてるんだけどな」
 綺璃がボソッと呟くと、隣で彩雅が声を立てずに笑った。
「――何がおかしいんだ?」
 綺璃が怪訝な眼差しを注ぐと、彩雅はまた微笑を湛える。
「いや、おまえも結構可愛いところがあるんだな、と思って――」
「なっ、何っ!? 可愛い、だとっ!? 俺は七天が一人――炎天だぞ! それを『可愛い』だなんてっ! 俺に言わせれば、おまえの方が余ほど『可愛い』けどな、彩雅! そんな女みたいな顔をしやがって!」
 彩雅の言葉を聞いて、綺璃が盛大に喚く。彩雅の麗容をビシッと指差すが、その頬は微かに朱に染められていた。『可愛い』と言われたことに対して照れているのだ。
 彩雅は、そんな綺璃の態度にも『可愛いな』と感想を抱いたが、今度は口には出さなかった。
 ――《女みたい》とは……では、私と同じ顔をしている水鏡は女ではないのか?
 ふと、そんな疑問が芽生えたが、これも自分だけの胸に秘めておく。口外すれば、綺璃は更にムキになって突っかかってくるに違いない。
「それは、貶してるのかい? それとも、褒めるのかな?」
 彩雅は蒼い双眸に悪戯な光を閃かせ、友人の顔を覗き込んだ。
「……貶してるんだ! 本当におまえは俺を苛める時だけ愉しそうだな、彩雅。俺の思考回路なんて、とっくに知り尽くしてるくせに……!」
 彩雅と綺璃は古くからの仲だ。
 お互いの考えていることなど容易く解る。相手が次に何をし、何を喋るか――想像するのは難しくない。
 それなのに彩雅は、いつも綺璃のことをからかうのだ。綺璃の困った顔を見るのが、彩雅にはとっては非常に愉快な出来事であるらしい。
「綺璃はからかい甲斐がありす――――」
 不意に、彩雅の言葉が途切れる。
 直後、
 ガターンッッッ!!
 激しい物音が響き渡った――




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Sat
2009.06.06[19:31]
◆鬼哭の大地 【長編・完結】

  鬼哭

▼作品傾向:異世界ファンタジー・剣・魔法・伝説・流血注意▼


 大陸の南端に位置するロレーヌ地方――キール・イタール・カシミアの三国が『平和協定』を結び、永きに渡って平穏に治めてきた。
 だが、大陸歴一二八五年、カシミア王ラパスがキールに侵攻を開始することにより、『平和協定』が反故にされる。
 ラパスの凶行を食い止めるために、闘いの女神として祭り上げられたのは、弱冠18歳のキールの王女アーナスだった――



【INDEX】 

  ◇序章    
  ◇1.王都炎上        
  ◇2.偶像崇拝          10 11
  ◇3.黒衣の花嫁           10 11 12 13
  ◇4.二神邂逅           10 11 12 13
  ◇5.生誕――再び春    
  ◇6.月姫の花葬           10
  ◇7.夏の鎮魂歌           10 11 12
  ◇終章   


同シリーズ
◇紅蓮の大地【完結】


 
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Sat
2009.06.06[19:35]
『ロレーヌ、ロレーヌ
 美しき故国よ
 私を赦したまえ


 全知全能なる神エルロラよ
 私に力を――


 私を知らずに育ちゆく子孫よ
 汝に神剣ローラを授ける


 ロレーヌ、ロレーヌ
 赦したまえ、非力な私を……


 私は、
 永遠の眠りに就く――』




       大陸暦一二八六年
        ギルバード・アーナス・エルロラ



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Sat
2009.06.06[19:47]
 冷たい風が吹いている。
 風に誘われるようにして、無数の黄砂が宙を飛び交う。
 目の前をよぎる砂塵が、少年の輝く白金髪をフードから引っ張り出し、風に乗せた。
「……酷いな」
 風に翻弄される髪をフードの中に押し込み、マスクを鼻の上まで引き上げ直しながら、少年は率直な感想を洩らした。
 唯一フードから覗く翡翠色の双眸は、憂いに満ちている。
 辺り一面の荒涼とした風景を目の当りにしたからだ。

 見渡す限りの砂漠。

 草木の姿など何処にも見当たらず、今にも崩れ落ちそうな砂岩の群れだけが虚しく立ち並んでいる――そんな大地だった。
 ――この地は荒んでいる。
 少年は、頼りなげな砂の感触を足下に覚えながら歩を進めた。
 もう半日以上も、こうして荒廃した大地を歩き続けている。
 砂漠に足を踏み入れる直前、食料と水の補給の為に立ち寄った村では、この砂漠が以前は『緑豊かな沃土』だったと教えられた。
 二十年前ほど前に勃発した大戦の際、近隣の町や村は戦火に焼かれ、大地も炎にまみれた。
 大火は十日以上も鎮火せず、その間に町や村、人々を呑み込み、緑を食い尽くした。
 残ったのは、荒れ果てた枯れ野のみ……。
 戦乱が終結しても痩せこけた大地を復興する動きは起きず、放置された地はこの二十年足らずで急速に砂漠化したのだという。
 少年がこの世に生を享けたのは、戦争が終結する間際のことだった、と、彼は育ての親から聞かされていた。
 だから、少年はその戦争を直接知りはしない。
 大人たちの口から間接的に、曖昧な事実を入手したに過ぎないのだ。

 約二十年前に起こった大戦争。
 ロレーヌ地方で巻き起こった戦は、大陸中に驚愕と戦慄をもたらした。
 ロレーヌが、キール、イタール、カシミアの三国に分裂し、『平和協定』を締結してからおよそ千二百年後――その『平和協定』が史上初めて、公に破棄されたのである。
 カシミアがロレーヌ全土を支配しようと目論み、他の二国を裏切ったのだ。
 一年半に渡る『ロレーヌ戦争』は、カシミアの勝利によって終焉を迎える……。
 ロレーヌ三国はカシミアによって統一され、カシミア王ラパスによる冷徹で悪辣な政が、今もなお続いていた。

『血と殺戮のロレーヌ戦争』と大人たちが口を揃えて語る戦争について、少年が得た知識というのは、その程度のことである。
 一ヵ月前、少年は大陸一般で『成人』と呼ばれる一八の誕生日を迎えた。
 その日、少年は育ての親から実の両親のことと、少年の故郷がロレーヌであることを告げられた。
 養父母は、両親の遺品を少年に託すと『ロレーヌへ行きなさい。そこに、おまえの《運命》が待っている』と言い残し、この世を去った。
 少年の誕生日に、養父母は得体の知れぬ暗殺者達に襲われたのだ。彼らは生命を懸けて少年を護り、逃がしてくれた……。
 出生の秘密。
 謎の襲撃者。
 養父母の遺言。
 信じられぬような出来事を記憶に抱えて、少年はやってきた。
 己れの《運命》が待つというロレーヌに――
 だが、訪れた故国は、無残にも頽廃の道を辿っていた……。
 この滅びへと進みゆく地に、何が待っているのか、少年には見当もつなかった。



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Sat
2009.06.06[19:55]
 ひたすらに砂漠を歩き続けていた少年は、ふと足を止めた。
 延々と広がるように見えた不毛の地が、唐突に終わりを告げたのである。
 前方に、村らしき小さな集落が見えた。
 村や町の存在は、砂漠の終着点を示す。
 少年の顔は、我知らず綻んだ。
 ようやく砂まみれの徒歩から解放されるのだ。
 少年は、心を埋め尽くそうとしていた『養父母の死』という哀しみを払拭するように、立ち止まっていた足を大きく前へ突き出した。
 そのまま駆け出そうとした時、
「――待つがよい」
 嗄れた声が、少年を引き止めたのである。
 少年は驚きと共に再び足を止め、キョロキョロと辺りを見回した。
 自分以外の人の気配など、微塵も感じなかった。
 それに、つい先刻までは、確かにこの砂漠には自分一人しか存在していなかったはずだ。
「待たれ、若いの」
 不思議がる少年に、声は呼び掛け続ける。
 だが、少年には、声の持ち主が何処にいるのか捜し当てることが出来なかった。
「ここじゃよ、ここ」
 少年の困惑に気付いたのか、次の声は幾分優しげに響いた。
 すぐ傍で聞こえる声。
 頭上から降り注いでいるようだ。
 声に誘われるように、少年は顔を上げた。
「――あっ……!」
 ほんの僅かな時間、驚愕に目を瞠る。
 少年の隣にある砂岩の上に、何者かが座っていたのだ。
 少年は、初め『それ』を人間だとは見極められなかった。
 岩と同じような色褪せた外套を纏った小さな塊――だが、よくよく目を凝らして見ると、砂岩と同化しているかに見える物体は、皺だらけの老人だったのである。
 声の主は、間違いなく老人だろう。
 深い皺を刻んだ顔の中で怜悧な光を宿す双眸と、両手に大事そうに抱える一メートル強の細長い包みが印象的だった。
「僕に……何か用ですか?」
 少年は多少の気味悪さを感じながら、怖ず怖ずと老人に声を掛けた。
 いくら村が近いとはいえ、砂岩の上に座り込んでいるなど狂気の沙汰だ。
 炎天下の砂漠では自殺行為。干からびて死んでしまう。
 だが少年の見る限り、老人は至って元気そうだった。
 常人ではなく魔物か何かの類いかもしれない、と本能が警告を発した。
 少年の声に含まれる緊張と警戒を、老人は悟っているのかいないのか、
「美しい声じゃの……」
 少年の質問とは全く見当違いな返答を述べたのである。
 その声音に、懐かしむような、愛しむような響きを感じて、少年は怪訝そうに小首を傾げた。
 記憶の中に、この老人の姿はない。
「若いの、何処へ行く気じゃ?」
 老人は少年の戸惑いを無視して、問い掛けてくる。
「ロレーヌのイタール国です」
「そんな国は、この先にはないぞ。十八年前に滅んだ国じゃ……いや、滅ばされた国じゃ」
 老人の眼差しが、探るように少年を射た。
「……言い方を間違えました。僕は、カシミア国イタール領へ行きたいのです」
 少年は素早く訂正した。
 間を空けずに、老人の口から妙に疲れ切った溜め息が吐き出される。
「十九年前にキールが……そして、十八年前にはイタールがカシミアによって滅ぼされた。滅んだ地に、何の用じゃ?」
 老人の嗄れた声は、重々しく苦渋に満ちている。
 双眼に垣間見えた暗い光は、憎悪の炎だろうか……?
「僕が生まれたのはイタールだ、と両親に聞かされましたので……」
 生命を捨ててまで自分を守ってくれた養父母のことを想うと、胸が痛んだ。
「――それより、どうして僕を引き止めたのですか?」
 脳裏から優しい養父母の姿を締め出すように、少年は急に話題を転換させた。
 老人が自分に用がないのなら、早々に失礼して村に辿り着きたかった。
 不用意に老人に付き合って、厄介事に巻き込まれてはたまったものではない。
「なに……大したことではないのじゃ。わしは、もう二十年近くも、ここに一人でいるのでな、久し振りに話し相手が欲しかっただけじゃよ」
 老人の皺だらけの顔が奇妙に歪んだ。
 少年は、老人の言葉に恟然とした。
「二十年って……そんなに長い間、この岩の上に座っていたのですか!?」
 知らずの内に、声が高くなってしまう。
 二十年もの間、この場所に飲まず食わずで座り込んでいるのだとしたら、やはり、この老人は普通の人間ではないのだ。
「まあ、そうゆうことになるかな? これでも、わしは魔術師なのじゃよ。その魔法力も、もうすぐ尽きてしまうがな……。だから、力尽きてしまう前に最期の話し相手が欲しかったのじゃ」
 老人の表情は、とても真摯なものだった。
「……いいですよ。僕でよければ話し相手になります」
 少年には、老人を冷たく突き放すことなど出来なかった。
 老人の瞳が切々と訴えてくるのだ――話を聞いて欲しい、と。
「嬉しいことじゃな。では、おぬしには、とっておきの話を聞かせてやろう。……この老いぼれが誰かに聞いて欲しかった話しじゃ。今まで誰にも語ったことのない、大切な……あの方の――」
 不意に老人の言葉が途切れた。
 視線は少年に当てられているが、その眼差しは何処か遠くを――何か別のものを見つめていた。哀しくも、慈愛に満ちた眼差しで。
「誰も知らない……後世に伝えることすら禁じられた、愛しいあの方の……」
 老人の瞳が、記憶の底に眠った思い出を呼び覚ますかのように、ゆっくりと閉じられる。
「あの方――とは、誰なのですか?」
 少年が問うと、老人の瞼が跳ね上がった。
 迷いのない澄んだ双眸が、少年を捉える。
「若いおぬしも、名前ぐらいは耳にしたことがあるじゃろう。アーナス様――ギルバード・アーナス・エルロラ様のことじゃよ」
「――――!」
 少年は、老人の言葉に言い表し様のない衝撃を受けた。
 ギルバード・アーナス・エルロラ。
 このロレーヌで、いや、大陸中の誰もが知らぬはずのない偉大な名。
 キール・ギルバード王朝最後の王女――ギルバード・アーナス。
 ロレーヌ戦争に於いて、果敢にカシミアと戦った勇ましい烈光の女神。
 その神々しい姿と、戦場における実績は、彼女が若干十九歳でこの世を去った後も人々の話題から絶えることがなかった。
 故に、戦争の勝利者であるカシミア王ラパスにより、その名を口にすることすら禁じられた人物。
 伝説の英雄。
 その人物を、この老人は知っているというのだ。
 驚くな――という方が無理な話しである。
 少年は驚愕の面持ちで老人を見つめ返した。
 少年の視線を受けて、老人が緩やかに頷く。
「アーナス様は、一二六七年、キールの王女としてこの世に誕生する。その際、天空から稲妻が迸り、王妃リネミリア様の枕許に一振りの宝剣を突き刺したのじゃ。剣の刃は、水晶の如く透明で美しい輝きを放ち、最強部には銘が刻まれておった。『我、エルロラ、汝を祝福す』とな。王女は誕生と同時に、大陸の創世主にして全知全能の神――エルロラの加護を受けたというわけじゃ。王女はエルロラ神の名を戴き『ギルバード・アーナス・エルロラ』と命名され、神剣は『ローラ』と名付けられる……。そして、あの方の輝かしくも儚い人生は始まった――」


     「1.王都炎上」へ続く


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Sun
2009.06.07[08:38]

「きゃあぁぁぁぁっっっ!!」
 扉の向こう側で甲高い悲鳴があがる。
 鞍馬だ。
 彩雅と綺璃はスッと表情を引き締め、鋭い視線を扉へ浴びせた。
「鞍馬、どうしたっ!?」
 綺璃が懸念たっぷりの声音で叫ぶ。
「いやっ! 離してっっ!!」
 だが、それに対する鞍馬からの応えはない。恐怖に塗れた悲鳴が続くだけだ。
「鞍馬っっ!?」
 ガタッ、ガタンッ、と激しい物音が鳴り響く。
「――綺璃っ!」
 ようやく鞍馬が綺璃の名を呼んだ。
「助けて、綺璃っっ!!」
 先ほどの口論のことなど念頭からすっかり抜け落ちたらしく、鞍馬が縋るように綺璃の名を呼び続ける。
 それほどの大事が鞍馬の身に起こっているのだ。
「鞍馬っっ!」
 ドンッ! と、綺璃が拳で扉を叩く。
 扉の向こう側では争うような激しい物音が続き――そして、それは急に途絶えた。
 しんとした奇妙な静寂が訪れる。
「鞍馬っっ!?」
 綺璃がたまりかねたように勢いよく扉を蹴った。
 しかし、施錠された扉は意想外に堅固でビクともしない。
 綺璃が忌々しげに舌打ちを鳴らす。同時に、軽く波打つ紅い髪がゆらゆらと揺れた。
 彩雅の目には、それがまるで本物の炎のように映し出される。
 ――綺麗だ。
 こんな時に非常識だが、いつ見ても綺璃の髪は紅蓮の炎の如く鮮やかで美しかった。
 綺璃が扉の取っ手を握り締める。
 刹那、ボンッと小さな爆発が起こり、扉が吹き飛んだ。
 容易く破壊された扉の後を追うように綺璃が室内へ駆け込む。
「鞍馬っっ!?」
 綺璃の視線が愛する妻の姿を求めて室内を泳ぐ。
 残念ながら、鞍馬の姿は何処にも見当たらなかった。
 小競り合いの跡を示すように、卓や椅子が床に散乱している。
「……ちくしょう!」
 綺璃が苛立たしげに床に転がっていた花瓶を蹴飛ばす。そのまま彼は荒々しい足取りで窓辺に移動した。
 窓は大きく開け放たれ、垂れ絹がひらひらと風に揺られている。
 何者かが外部から侵入し、鞍馬を攫っていったのだ。
 綺璃は窓から外を見下ろし、何かを発見したのか険しく眦をつり上げた。
 直後、彩雅には何も告げずに、綺璃は開けっ放しの窓から飛び降りたのである。
「あっ! オイ、綺璃――!?」
 訳が解らずに、彩雅は綺璃の後に続こうとした。
 予期せずして、背後からその腕を掴まれる。
 彩雅は驚き、足を止めて振り返った。
 側近の雪が真摯な眼差しで彩雅のことを見上げていた。
「雪、何故止める? 綺璃を追わなければ――」
 彩雅が怪訝そうに雪を見返すと、彼は冷徹な表情で首を横に振るのだ。
「いけません、王」
「綺璃が心配だ!」
「王、少し冷静になって下さい。あなたらしくもありませんよ。窓の外を――」
 雪が自分の主に窓外を見るように促す。
 彩雅は、飛び降りる直前の綺璃の厳しい顔つきを思い出し、素直に雪の言葉に従った。
 綺璃のあの反応は、外の世界に何かを見出したからだろう。
 彩雅は窓から身を乗り出すようにして、外の世界に臨んだ。
 直ぐさま、視界に異物が飛び込んでくる。
 おそらく綺璃が目にしたものと同じ光景だろう。 
 煌緋城のすぐ傍に黒い霧のようなものが浮遊しているのだ。
 それを確認した途端、彩雅は秀美な顔を曇らせた。
 結界だ。
 しかも、見覚えがある。誰のものなのか――
「まさか、あれは……」
 横目で雪に視線を流し、彩雅は唸るように呟いた。
 強力な念を織り込まれて造られた結界内は、創造主に有利な空間を生み出す。
 漆黒の結界は不吉だが、何処か気高く艶めいてさえ見えた。
 彩雅の脳裏を常闇のように美しい双眸を持つ男の姿がよぎる。
 眼前に広がる黒き霧は、《彼》の瞳にあまりにも酷似しすぎていた。
「おそらく――紫姫魅天でしょう」
 彩雅の推測を代弁するように雪が渋面で告げる。
「やはり、紫姫魅か――」
 彩雅は苦々しく呟いた。心の片隅では、それを認めたくはないという作用が働いていた。
 だが、あれは紛れもなく紫姫魅が張った結界であり――鞍馬を攫ったのは彼その人なのだろう。綺璃も一目で犯人が紫姫魅だと察したから、すぐに後を追ってのだ。
 そこまで思考を巡らせて、彩雅はハッと我に返った。
「――綺璃っ!!」
 無意識に身体が窓を乗り越えようとする。
「王っ!」
 物凄い勢いで飛び出そうとした彩雅を、雪が力任せに引き戻す。
「邪魔をするな、雪!」
 彩雅は微かな怒気を孕んだ眼差しで雪を見遣った。
 綺璃を助けに行くことを阻まれる理由などないはずだ。親友の危機を放っておけるほど彩雅は薄情ではない。
「いいえ、どうあっても引きません。あなたは炎天様の友人である前に、我らが王なのですよっ!」
 雪が懇願するように彩雅を見つめる。
「そんなことは解ってる!」
「解っているのならば、一族のために思い留まって下さい! 我らは――あなたを失うわけにはいかないのです!」
「私に――綺璃を見捨てろ、と言うのか?」
「そうです」
 雪が力強く断言する。彩雅に向けられた双眸には鋭利な輝きが灯っていた。本気で述べているのだ。
「雪、何ということを……! ――嫌だ。私は綺璃を助けに行く」
 彩雅は意を翻さず、強情にも言い張った。
 雪の言わんとすることは重々承知している。
 天王の側近である紫姫魅は、強大な神力を保有する神だ。七天である綺璃や彩雅が相手でも結果は引き分け――運が悪ければこちらが敗れてしまう畏れもある。
 もしかしたら、綺璃は紫姫魅に殺められるかもしれない。
 雪は、彼を助けようとした彩雅までもが紫姫魅の毒牙にかかることを危惧しているのだ。
 貴き王の身を案じているからこそ、雪は彩雅に酷な選択を迫っている。
 一族にとって、王は不可欠な存在なのだ。
 そんなことは王である彩雅自身が誰よりも知悉している。
 だが、一族も大事だが――綺璃も大切だ。
 彩雅には綺璃を切り捨てることなど出来はしない。王としての立場から考えれば、一族が最優先だろう。だが、幼い頃よりずっと共に歩んできた綺璃に対する友愛の念は、そんなに簡単に割り切れるものではないことも確かなのだ。
「私にとって綺璃は……とても大切に存在なのだよ」
「だからといって、二人で死ぬつもりですか? 王、この場はお鎮まりを――僕なら後でどんな罰でも喜んでお受けしますから!」
 雪の切羽詰まった瞳が彩雅を射る。
 彩雅はそれを断ち切るようにかぶりを振った。
「それは聞けぬ。雪、行かせてくれ」
「王っ!? ――彩雅様、ご無礼お許しを……」
 最後の決断に雪が目を見開く。どうしても綺璃を助けると言い張る彩雅の鳩尾に、彼はただ一度だけ拳を叩き込んだ。
 彩雅は不意打ちを喰らって、小さく呻いた。激痛が身を苛む。雪の攻撃をまともに受けた彩雅は呆気なく体勢を崩し、そのまま雪にもたれかかった。
「……ゆ……き……」
 小さな囁きを残して、彩雅の首ががっくりと折れる。
 雪の目論見通り意識を手放してくれたようだ。
 雪は、重みの増した彩雅の身体をしっかりと支えた。
「お許しを、王。これがあなたと我が一族のためなのです」
 雪は哀しげな眼差しを紫姫魅の結界へと向けた。
 ――炎天様、どうかご無事で……。
 鄭重に彩雅を抱き上げると、雪は鞍馬のものと思しき寝台まで移動し、その上に主をそっと横たわらせた。
「王――彩雅様、ご安心を。あなたを悲しませたりはしません」
 雪は敬愛の眼差しを彩雅に注いだ後、額に填められている水晶に手を添え、瞼を閉ざした――


     *


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Sun
2009.06.07[08:43]
     *


 時を同じくして、炎天・綺璃は黒い霧の中で一人の男と対峙していた。
 眼前の人物を『男』と呼ぶのは、些か奇妙な感じがする。彼の見目はあまりにも美しすぎるのだ。他に類を見ないほどの美貌の持ち主だ。
 光の加減によっては深い緑にも見える、流れるような黒髪。癖のない黒髪に縁取られた頭部には、黄金細工の冠が載せられていた。冠を戴けるということは、高位の天神であることを示している。
 女性のように妖冶な麗容には、皮肉めいた微笑が浮かんでいた。闇の分身のような漆黒の双眸は、彼の冷徹さを表すように冷たい光を宿している。
 彼こそが天王に叛旗を翻した張本人――紫姫魅天である。
「久し振りだな、綺璃」
 紫姫魅が冷ややかな微笑をそのままに、静かに言葉を紡ぐ。
 容姿に見合った美しい声が、綺璃の耳をくすぐった。
「……鞍馬に何をした?」
 綺璃は炎の如き深紅の目で紫姫魅を睨めつけた。紫姫魅に対する怒りが胸中に渦巻いている。
「何もしてはいない。私の城で鄭重に預かっている。――おまえ次第だ」
 紫姫魅が緩やかな足取りで歩み寄ってくる。
「それは――どういうことだ?」
「おまえ次第だと言っているのだ」
 訝しさに眉根を寄せた綺璃に対して、紫姫魅が唇に弧を描かせる。綺璃の反応を愉しんでいるのだろう。
「何を企んでいる?」
 綺璃は間近に迫った紫姫魅の顔を正面から見据えた。
「取引だ。鞍馬天と――七天の生命のな」
 紫姫魅の酷薄な眼差しが、臆することなく綺璃の視線を受け止める。
 その氷の刃のような冷ややかさと鋭さに、綺璃は一瞬ゾッとした。背筋に嫌な緊張が走る。
 紫姫魅は『鞍馬を助けたければ、七天の誰かの首を持ってこい』と仄めかしている――いや、脅迫しているのだ。
「馬鹿な……! 俺に仲間を殺せと言うのかっ!?」
「心底、鞍馬天が大切ならばな。彩雅などは、おまえのためならその生命くらい容易く差し出してくれるのではないか?」
 紫姫魅が揶揄するように告げる。
 その言葉に、綺璃は眉を跳ね上げた。自然と怒りの炎が強さを増す。
「彩雅はそんな男ではない!」
「それは、おまえがそう思いたいだけであろう。あの美しき氷の王は、おまえと水鏡のためなら喜んで私の足許に跪くだろう。その白い首を晒し、自ら刃を当てることも厭わないだろうな」
 紫姫魅の唇からは、何かの呪の如く嘲りの言霊が紡がれる。
「そうさせたのは紛れもなく――おまえだ、綺璃」
「……黙れ」
「《友》とは、随分と便利な言葉だな。心を掻き乱す訳の解らぬものは、全てそこへ押し込んでしまえばよい。結果、彩雅を深淵の闇へと突き落とし――」
「黙れっ! 貴様の戯れ言など聞きたくはないっ!」
 綺璃は瞳に怒気を漲らせ、紫姫魅の声を荒々しく遮った。己の裡から放出される激怒に呼応し、紅い髪がゆらゆらと揺らめく。
 綺璃は紫姫魅を見据えたまま、腰に携えている剣へと手を伸ばしかけた。
「私を殺しても、鞍馬はおまえの元へは帰ってこないぞ」
 紫姫魅の一言に、ピタリと手が止まった。
「貴様っ……!」
「さあ、綺璃、どちらを選ぶ? 鞍馬の死か――それとも七天の誰かの死か?」
 紫姫魅が玲瓏たる声で、妖魔のように甘く囁く。
 綺璃は歯噛みし、しばし思考を巡らせた。
 どちらか一方を選ぶことなど到底不可能だ。
 不甲斐なさと口惜しさに、両の拳をきつく握り締める。
 まんまと紫姫魅の術中に嵌ってしまったのだ。
 悔しいことに、紫姫魅は綺璃という人物をよく把握しているらしい。
 綺璃は、妻である鞍馬を愛している。
 そして、仲間である七天のことももちろん大切に想っている。
 綺璃の彼らに対する愛情を紫姫魅は利用したのだ。
「……俺には出来ない。そのどちらとも――」
 綺璃は唇の戒めを解くと、低く唸るような声音で回答を述べた。
 瞬時、紫姫魅の双眼が鋭く輝く。
「そうか――では、おまえが死ね」
 残忍な笑みが美貌に花開く。
 紫姫魅が流麗な動作で鞘から剣を引き抜く。
 煌めく白刃を綺璃は他人事のように見つめていた。剣を取り、防御する気は元よりなかった。
 紫姫魅が綺璃の胸目がけて冷酷に剣を繰り出す。
 己の髪よりも紅き飛沫が視界を彩った――



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