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ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です
Tue
2009.07.14[23:31]
 薔薇子にとっても予想外だったのだろう。
 驚くほど素早く、額から彼女の指が消え失せた。
「おや、まあ――人の留守中に妙な真似はしないで下さいね、薔薇子さん」
 ドアを開けて入ってきたのは、この部屋の主人――保健医・西野智弘だ。
 スラリとした長身に白衣を纏っている。肩甲骨まである栗色の髪を後ろで一つに束ね、フレームのない眼鏡をかけている。
 優しそうな雰囲気の青年だ。
 西野は、薔薇子に向かってニッコリ微笑んでいる。しかしながら言葉の内容は彼女を責めるものだった。
 西野の姿を確認して、薔薇子はヒョイと肩を竦める。
「午後出勤じゃなかったの?」
「予定より早く用事が済みましたのでね。……留守番どうもありがとうございました。後は私が引き受けるので、職員室でゆっくりくつろいで下さい」
 西野に言われて、薔薇子は美人から離れる。
「あまり邪魔しないでよね」
 ポンと西野の肩を軽く叩いて、薔薇子は何事もなかったように保健室を出て行ってしまう。
 薔薇子と入れ違うようにして、西野がベッドの傍までやってきた。
「大丈夫ですか、美人くん?」
 上半身だけ起き上がっている美人の両肩に手を添え、西野はそっと美人をベッドへ横たえた。
 優しい瞳が美人を覗き込んでいる。
「西野先生……僕……」
 美人は不安げに西野を見上げる。
 さっきまでの薔薇子との会話を、西野に全て聞かれていたような気がしてならない。
 それが、気に入らない、というのではない。西野なら自分を助けてくれるのではないか、と思ったからだ。彼なら、混乱している頭を正常に戻してくれそうな気がした。
 薔薇子が教えてくれなかった事柄も、西野は知っているのだろう。先程の西野と薔薇子の会話から、彼が薔薇子の正体を知っていることが窺えた。
 それで、思わず西野に懇願の眼差しを向けてしまったのだ。
 西野は不可思議な人物だ。
 ヘマタイトの指輪も、実は彼がくれたものだった。
 いつもさり気なく自分を助けてくれる。
「僕は、どうすればいいんですか……?」
 美人の問いかけに、西野は一瞬だけ哀しそうな表情を見せた。
 だが、それをすぐに引っ込めて、柔らかく微笑む。
「美人くん、少し眠りましょう。その後なら、どんな質問にでも答えてあげますよ。今は疲れているでしょう。……身体を休めないと、悪化してしまいますよ」
 西野は毛布を美人の肩まで引っ張り上げながら、穏やかな口調で述べる。
 美人は従順に頷いた。
 確かに自分は疲れている。
 だだでさえ頭痛で悩んでいたのに、薔薇子に奇妙な話をされた上に不可思議な能力を行使されたのだ。おかげで、余計に痛みが酷くなっている。
 今は、西野の言葉に従って眠りに就こう。
 西野は信じられる。
 目が覚めたら、彼はきっと自分の不安を取り除いてくれるだろう……。
 美人は静かに瞳を閉ざした。
 余ほど疲れているのか、すぐに睡魔は襲ってきてくれた。
 頭が重くなる。
「薔薇子さんにも困ったものですねえ。……何を焦っているんでしょうか」
 闇が降りてくる寸前に、西野の溜め息混じりの呟きを聞いたような気がした。


     *


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Wed
2009.07.15[08:45]
    *


 淡く暖かい光が降り注いでいる。
 有馬美人は瞼に光を感じて覚醒した。
 ゆっくりと目を開ける。
 午後の光が、窓から射し込んでいた。
「……う……ん……」
 美人は、開いたばかりの瞳を眩しさに閉ざしながら寝返りを打った。
 微かな薬品の匂いが鼻を掠める。
 その独特の香りで、美人はここが保健室であるということを思い出した。
「いけない。今、何時――」
 慌てて上体を引き起こす。
 途端、頭部に激痛が走った。
「つっ……!」
 反射的に額を手で押さえる。
 ほぼ同時に、忙しない足音が響いた。
「急に起き上がってはいけませんよ」
 西野が慌てた様子で駆け寄ってきて、美人をそっとベッドに横たえる。
「……すみません」
 美人は青白い顔で西野を見上げた。
 西野の端整な顔がすぐ間近にある。
 フレームのない眼鏡の奥に、思いがけず清廉な双眸を発見した。じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうな神秘的な瞳だ。
「西野先生って、近くで見ると綺麗ですね」
 思わず、率直な感想を洩らしてしまう。
 西野はしばし唖然とした表情を浮かべていたが、やがて声を立てて笑い出した。
「いきなり何を言うかと思ったら……嫌ですねえ。――まっ、《美形》であることは認めますけどね」
 西野は悠然と微笑みながら美人の顔を覗き込む。
「でも、『近くで見たら』は余計じゃありませんか」
「いえ、深い意味はなかったんですけれど……。先生、本当は裸眼でも日常生活に差し支えないんじゃないですか? どうして、眼鏡をかけているんです?」
「眼鏡を取っちゃうとね、《視なくていいもの》まで視えてしまうからですよ」
 西野は少しだけ自嘲気味に笑った。
 眼鏡はカモフラージュ。一種のファイアウォールだ。
 通常の生活では関わりのない《奇妙な出来事》を避けて通るための道具。
 そうすることで、自分は《一般人》と同化して暮らすことを可能にしてきたのだ。
「先生も超能力を?」
 美人は特別驚きもせずに訊ねる。
 ある程度、予期していたことだ。西野からヘマタイトの指輪を譲り受けた時から、彼も常人とは異なる人物なのではないか、と幾度か考えたことがあった。
 ただの《保健室の先生》にしては、謎が多すぎるのだ。
 時々、気配を感じさせなかったり、神出鬼没だったり、人の言葉をよく先回りしたりする。
 それを指摘する度に西野は笑顔ではぐらかしていたが、今回はそうもいかないだろう。薔薇子の能力を見ても驚かなかったのだ。彼も《魔境伝説》を知っている。何より、眠りに就く前に彼は言ったはずだ。『どんな質問にでも答えてあげますよ』と。
「超能力――簡単に言ってしまえば、そうかもしれないですね。まあ、世間一般でいう《普通の人》と違うことだけは確かですよ。僕も薔薇子さんも似たり寄ったりの人種でしょうね」
 西野は淡々と述べる。
「先生も黒井先生と同じで《魔境伝説》を信じているんですか?」
 美人は思い切って核心に触れてみた。



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Wed
2009.07.15[08:49]
「美人くんには身内話しでショックだったかもしれませんが、薔薇子さんが言ったことは――全て真実です」
「そうですか……」
 美人は溜息を洩らす。
 薔薇子の言ったことが事実ならば、西野も『零治とは離れた方がいい』と言うのだろうか?
 それが、とても気懸かりだ。
 西野は美人が抱く不安を察したのか、柔らかく笑った。
「私は、薔薇子さんと違って『零治くんと離れろ』とは言いませんよ。……むしろ、美人くんは零治くんの傍に居る方がいいと思っていますからね」
「どうしてですか?」
「それはちょっと、今はまだ確信が持てないので、即答は避けたいのですが……」
 西野は気遣わしげに美人に視線を注ぐ。
 美人は黙って頷いた。西野が喋りたくないのなら、それでも構わない。いつか、確信が持てた時に必ず説明してくれるだろう。
 美人が頷くのを見て、西野は再び微笑んだ。
「美人くんは、本当に総子さんによく似ていますね」
 急に、懐かしむような口調で西野は呟く。
「――お祖母様にですか?」
 西野の言葉を不思議に思い、美人は小首を傾げた。
 祖母・総子と自分が似ているだなんて、初めて耳にする。家族の中でも、そんなことを口にする者はいなかった。――いや、敢えて口外しなかったのかもしれない。いつの日か必ず訪れるであろう《鏡月魔境》の報復を忘れようとして……。
「ええ。そっくりですよ。総子さんの若かりし頃に――と言っても、私も写真で見ただけですけどね」
「そうですか。何故、お祖母様のことを?」
「私が幼い頃、近所に榊総子さんというおばあさんが住んでいただけですよ。彼女は不思議な能力を持っていましてね。同じような力を持つ私を可愛がってくれたんです。私が美人くんにあげた指輪――あれは総子さんからいただいたものなんですよ。きっと総子さんは、いつか美人くんと私が出逢うことを知っていて、私にそれを託したんでしょうね」
 西野はどこか遠くを見つめながら語る。おそらく彼の脳裏には、十七年以上も前に総子と共有した時間が、はっきりと浮かび上がっているのだろう。
 美人は自分の左手に視線を落とした。
 ヘマタイトの指輪は、仕組まれたように美人の中指にピッタリ合っている。総子は、それを遙か昔に予想していたのだという。
 一体、何のために?
 この指輪に、どんな意味があるのだろうか?
 総子は自分に何を託したかったのだろうか?
 次々と疑問が浮かんでくる。
 だが、それらを口に出している暇はなかった。我に返った西野が、先を続けたのだ。
「気をつけなさい、美人くん。あなたは、その容姿ゆえに総子さんに間違われるでしょう。人間としての《榊総子》ではありませんよ。勿論《境王妃総子》としてです」
「…………」
 美人は西野の言葉を無言で受け止めた。
 この世と《鏡月魔境》を隔てていた結界が崩れ、扉が開く。
 当然、そこからはここぞとばかりに魔物が這い出てくるのだろう。
 そして、彼らが真っ先に八つ裂きにしようとするのは――彼らの女王でありながら、彼らを裏切り、世界を閉ざしてしまった境王妃。
 だが、実際の総子は既に他界している。そのことを魔物たちが知らなければ、総子に似ている美人が狙われる。西野はそう言いたいのだろう。
「私も可能な限り美人くんを護ります。封印が完全に解けるまでは、僅かですが時間があります。その間に対策を練りましょう。……既に何体か魔境の住人が結界をかいくぐってこちらの世界へ来ているようです。くれぐれも注意して下さい。――D組の真弓さん、どうやら魔物の仕業のようです」
 西野は表情を曇らせる。彼が遅れて学校にやってきたのは『木下真弓殺人事件』を個人的に調べてきたからである。
 そこで得たものは――魔物の影。
 真弓の身体は、薔薇子が言ったように五体バラバラだった。手・足・首は骨まで綺麗にスッパリと断絶されており、胴体は魔物に喰い荒らされたのか内臓が殆どない状態であった。
 常人ではない西野だからこそ解った。そこに、魔族の匂いが漂っている事実に。周辺に不快な障気が漂っていた。
「木下さんが……」
 美人は西野の言葉を聞いて愕然とした。
 木下真弓は、《鏡月魔境》から抜け出してきた魔物に殺された……。
 薔薇子の『あなたのせいよ』という言葉が脳内で甦る。彼女は嘘を言った訳ではないのだ。
 魔物は境王妃総子を捜しに来て、手始めに偶然出会した真弓を殺したのだろう。
 自分は総子ではないが、身内ということで自分さえも悪いような気分に陥った。
 あなたのせいよ――確信を持って断言されると、そんなふうに思えてくる。
「美人くんが気に病むことはありませんよ。あなたは総子さんとは別人です。美人くんは美人くんで、絶対に総子さんには成り得ないのですから。ただ、本当に気をつけて下さいね。魔族の一番の好物は、人間です。気を抜くと――喰べられちゃいますよ」
 西野は美人の肩を抱きながら耳元で囁く。その表情は真剣そのものだ。
 美人が首を縦に振るのを見届けてから、西野はニッコリ微笑む。
「じゃあ、この話はここまでにしておきましょうか。あまり長く話しても、美人くんの具合が悪くなるだけですからね」
 西野は、いつもと変わらない《保健室の先生》の穏やかな口調でそう述べて、美人の肩から腕を離した。
「あっ、言い忘れていましたけど、お昼休みに零治くんが様子を見に来てくれましたよ」
「――零治が?」
 美人はパッと顔を輝かせた。
 零治が自分の心配をしてくれていることが、何となく快かったのだ。
 美人の明るくなった表情を目にして、西野はクスッと笑う。
「ホントに仲がいいですね、美人くんと零治くんは――っと、噂をすれば何とやら、ですね」
 会話の途中で、急に西野が保健室のドアに視線を移す。
 ほぼ同時に、ドアが勢いよく開かれた。
 豪奢な金髪が視界に飛び込んでくる。
 美人は、改めて西野の勘の良さに感嘆した。



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Wed
2009.07.15[08:57]
「センセーッ! ビジン、起きた?」
 保健室に入ってくるなり、曽父江零治は大声を張り上げた。
「――零治!」
「零治くん、静かに!」
 美人と西野の声が重なった。どちらも非難を含んでいる。
 ここは保健室――病人の集まる場所で、大声を出すのは非常識だ。今はたまたま患者が美人しかいないので、特に問題はなかったのだが……。
 それでも、良識的な美人と部屋の主人である西野は、揃って咎めるような眼差しを向けた。
 そうされた方の零治は、一歩だけ後ずさる。
「な、何だよ? 二人で怒ることないだろ。そっちの方が大声だし」
 零治は唇を尖らせながら抗議する。後半は殆ど居直ったセリフだ。
 彼は部屋をキョロキョロと見回し、他に誰も居ないことを確認すると、長い足を動かしてベッドの脇までやってきた。
「もういいのか、ビジン? 大丈夫なら、帰ろうぜ」
 ドカッとベッドの端に腰かけて、美人の顔を覗き込む。口調はいつも通り簡素なものだが、眼差しは限りなく優しい。彼なりに美人のことを気遣ってくれているのだ。
「あっ、うん……」
 美人は反射的に頷いていた。
 どうも零治の言葉には反論できない――零治に弱いのだ、自分は……。
 西野にも『美人くんは零治くんに対して甘すぎます』と、数え切れないほど言われ続けている。
「帰ろうぜ――じゃないですよ、零治くん。今はまだ五時限目の途中です。また、勝手に授業抜け出して来ましたね? それに、昼休みに様子を見に来たばかりじゃないですか……。美人くんも、そんなに簡単に頷いちゃ駄目ですよ。まったく、美人くんは零治くんに甘いんですから」
 西野が呆れ顔で零治と美人を窘める。
 零治ときたら、片手にしっかりと鞄を二つ持っているのだ。
「だって、しょうがないだろ。ビジンはオレのこと好きなんだからさ」
 零治が腕を組みながら、得意満面に西野を見遣る。
 西野は苦笑し、美人は赤面した。
 ――そんなこと、威張って言うことじゃないのに……。
 言った本人よりも美人の方が恥ずかしくて、ひたすら俯くしかない。
 思ったことをズバッと口に出すのは、零治の長所であり短所でもある。
「それは、もう何百回も聞きましたよ。本当に仲がいいですね、幼なじみって」
 西野は苦笑を引っ込めて、クスクス笑い出す。
 美人と零治は、物心つかない内からずっと一緒なのだ。家が隣合わせの上に、母親同士の仲が良いのである。二人の最も古い記憶の中には、既にお互いが存在し合っていた。
「幼なじみなんて簡単な言葉で片づけるなよ。オレとビジンは愛し合ってるんだから」
 冗談とも本気ともとれるような口調で言いながら、零治は美人の肩を抱く。
 美人はあからさまに不満げな表情を浮かべ、西野は更に笑い続けた。
「ハイハイ。そんなことは一々口に出さなくても解ってますよ、零治くん。美人くんの方は嫌がってるみたいですけどね」
「一言多いんだよ、センセは……」
 西野に指摘されて、零治は唇を尖らせる。
 それから、『まあ、いっか』という感じで溜息を洩らし、西野に向かって甘えた声を出す。
「ところで、センセ。オレも頭痛が酷いみたいなんだけど……?」
「――仕方のない生徒ですね。二人分の診断書を出しておきますから、さっさと早退なさい」
 西野は真顔に戻ると、机の所まで移動する。そして、彼はその上に乗っている『保健室利用者一覧表』に《曽父江零治》と書き加えた。
「サンキュー、西野センセ! ビジンの次に愛してるよ」
 零治は美人から離れ、西野の耳元で悪戯っぽく囁く。
「それは光栄ですね」
 西野は軽く肩を竦めた。
「すみません、先生」
 美人がベッドから抜け出しながら、申し訳なさそうに言葉を口にする。元はと言えば、零治の我儘の原因は《自分》にあるのだ。西野はいつも零治の我儘を聞き入れてくれるので、美人は頭が上がらないほど彼に感謝していた。
「――よし! じゃ、帰るか」
 何が『よし』なのか解らないが、零治は妙に納得したような口調で美人を促す。
 美人は苦笑混じりに頷いた。
 マイペースというか自分勝手というか、とにかく零治は自分本位の考え方が多い。長年、彼に付き合っている美人としては、それに従わざるを得ない。
 だが、決してそれが嫌な訳ではなかった。
 零治が迷いのない強い力で自分を引っ張ってくれるから、今の自分が在るのだ。彼のおかげで自分を見失わずに済んだ経験が幾度もある。
「それじゃあ、ありがとうございました」
 美人は西野に頭を下げて謝礼を述べる。
「じゃあな、センセ。また明日」
 零治が西野に向かって軽く手を振り、それからポンと美人の肩を軽く押し出して歩くように促す。当然、彼はその後に続いた。
「気をつけて帰って下さいね」
 西野は、柔らかい微笑みを、その端整な顔に浮かべて二人の背中を見送る。
 先に美人が保健室の外に出た。
「――零治くん」
 不意に、美人に続いて部屋から出ようとした零治に西野が声をかける。
「何、センセ?」
「……やっぱり何でもないです」
 一拍の間を措き、西野は静かに首を横に振った。
 その顔には苦々しげな微笑が浮かび上がっている。
『人を呼び止めておいて、何だ?』と、零治は少しだけムッとした。だが、西野の表情に疲労の影を見出して、眉根を寄せる。
「何だよ、センセ……気になるから言ってよ」
 零治は、西野よりも少し高い背を僅かに屈めて彼に注目する。
 だが、西野はもう一度かぶりを振っただけだった。
「……いえ、ホントにいいんですよ。――気をつけて帰って下さいね、零治くん」
「…………」
 そう言われて、零治は頷くこともそれ以上追求することもできなかった。西野は、まだ何か言いたそうだ。それなのに口にすることを躊躇っている。
「零治、何してるの?」
 保健室から中々出てこない零治を訝しんで、美人がヒョイと戸口から顔を覗かせる。
 それを契機に、零治は西野の気懸かりな呼びかけを聞かなかったことに決めた。
「何でもないよ、ビジン。――じゃ、またな、センセ」
 零治はサバサバとした口調で西野に別れを告げ、美人と共に保健室を後にした。



 二人の姿が視界から消えると、西野は眼鏡を外し、倒れ込むようにしてイスに腰を下ろした。
「零治くん、美人くんを護って下さい。それは、零治くんにしかできないのですから……他の誰も代わってあげることができない、あなただけの使命です」
 西野は、先ほど面と向かって本人に言えなかった台詞を口ずさんだ。
 わざわざ他人の忠告されなくても、零治なら無意識にそれを実行するだろう。
「――風が生温い」
 外した眼鏡を机上に置きながら呟く。
 保健室の空気は丁度いい湿度と温度なのだが、西野にはそれが妙に温かく、不快なものに感じられた。
《扉》から運ばれてくる異質な風のせいだ。
《扉》の隙間を潜り抜けてくる、特異な世界の空気。
 もう封印は解かれつつあるのだ。
 この学園は、気づかぬうちに浸食されている。
 西野は、言い表しようのない不安と疲労感に瞼を閉ざした。
 ――もうじき闇が降りてくる……。


     *



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Thu
2009.07.16[00:48]
     *


 M市の郊外――聖華学園から徒歩十五分ほどのところに有馬家は建てられていた。
《家》というよりも《屋敷》と表現した方が的確かもしれない。
 正面から見ると、塀が二百メートル以上も続いている。塀の向こう側は、高く荘厳な木々に覆われ、家屋などチラとも見ることはできない。何しろ門を潜り抜けると見事な日本庭園が百メートルほども続き、その奥に母屋が存在しているのだ。外から見えなくて当然――有馬家は巨大な日本屋敷なのである。
 有馬家はM市屈指の旧家として有名だった。
 その資産は何百億円とも何兆円とも言われている。
 有馬美人は、屋敷の長い廊下をお盆にコーヒーを二つ乗せて歩いていた。
「――零治」
 自室の戸を開けながら友人の名前を呼ぶ。
「おっ、わりぃな、ビジン」
 部屋に入り、テーブルの上にコーヒを置くと、すかさず零治がカップを手に取り口づける。
 美人もカップを手にしながらベッドの上に腰かけた。
 外観は立派な和式の家といえども内部は何度も改装されており、所々洋式の部分もある。美人の部屋も洋風に改装されていた。
 時刻は、午後十一時三十分。
 零治が美人の家に転がり込んできて約一時間になる。
 零治の家は、有馬家の正面に存在していた。
 有馬家とは対照的なレンガ造りのモダンな建造物だが、曽父江家も《家》という表現が似つかわしくない。《ツァーリ・テンプル》という十階建ての高級マンションなのである。
 零治は、そのマンションの一室で一人暮らしをしていた。
 零治の父親は不動産会社を経営している。豪奢なマンションは全て曽父江家の所有物なのである。四人のいる男兄弟全員が別々の号室で暮らしているという、奇特な家族でもあった。
 同じマンション内にある実家には殆ど帰らない零治だが、どういう訳か向かいの有馬家には時折フラッと遊びに来る。美人もそれを『嫌だ』とは感じないので、零治の好きなようにさせていた。
 今夜も零治は気儘にやって来た。
 現在、彼はコーヒー片手に近くのコンビニで買ってきたマンガに目を落としている。
 美人は、そんな零治の横顔を静かに見つめていた。
 普段、学校で毎日のように逢っている。家に遊びに来たからといって、二人の間に特別な会話が成立するわけではない。ただ、一緒にいて何気ない時間をボーッと過ごしている。二人ともそうすることが好きだし、どういう訳か精神的充足感を得られるのである。だから、彼らはごく普通の《二人でいる時間》を大切にしていた。
 美人はカップに唇を当てたまま、零治の端整な顔を見つめ続ける。
 切れ長の瞳とスッと通った鼻梁が美しい。
 いつもの見慣れた横顔をじっと眺めていると、不意に視界で金の波が揺れた。
「――何だよ?」
 不思議そうな声が耳を通過する。
 ハッと我に返ると、零治が自慢の金髪を掻き上げながらこっちを見ていた。
「そんなに熱心に見つめられたら、マンガに集中できないだろ」
 零治はからかうような口調で告げる。
 美人は思わずドキッとしてしまった。
「えっ? いや……綺麗だなぁ、と思って」
 動揺を隠せずに頬を朱に染める。
 不覚にも、零治本人の前で素直に讃辞を述べてしまった。
 美人の狼狽振りを目にして、零治が意地悪げにニヤッと笑う。
「へえ……ビジン、昔からオレの髪、好きだもんな。――綺麗だろ?」
 言いながら、零治は金の髪を指で梳かしつつ美人に近寄る。
 零治は純日本人なのだが黄金色がよく似合う。自分でも重々それを理解しているから、彼はここ数年『ゴージャスな金髪に金輪のピアス』というスタイルを崩さず今に至っている。そうすることで、彼は豪奢な印象を常に他人に与え続けているのだ。
 零治の派手な容姿と傲慢な態度は、不思議と人を惹きつける効力があった。
 勿論、美人も例外ではない。
 だから、美人は零治にどんな我儘を言われ続けてきても、ずっと彼の傍を離れずにいるのだ。
 そして、それを零治はとてもよく把握している。
 自分が美人の傍を離れられずにいるのと同様に、美人も自分の傍を離れることができないのだ、と。
 そうして彼らは長年、まるで何かのゲームをしているかのように、じゃれ合いながら駆け引きじみたことをしてきた。これからも続くであろう甘美な遊戯だ。
 零治はベッドの上に身を移すと、そっと美人の頬に手を添えてニッコリ微笑む。
「――でも、ビジンの方がずっと綺麗だ」
 恥ずかし気もなく零治は口にする。
 言われた美人の方がよっぽど恥ずかしい。
 冗談だと解っていても、こんな至近距離で告げられると羞恥が芽生える。とてもじゃないけれど零治の顔など直視できない。
 反射的に美人は零治から顔を逸らす――
「――――?」
 そうしようと思った刹那、眼前に信じられないような光景が突如現われ、美人は大きく目を見開いた。
《それ》は、零治の肩の向こう側に何の前触れもなしに浮かび上がった。

 ……黒い、黒い、澱んだ海。

 鉛色の重々しい海原。
 水面が静かに波を起こしている。
 時折銀色の光を放つ、奇怪な海が存在していた。
 まるで、ドロドロとした水銀の海のようだ。
 見つめていると、吸い込まれそうな錯覚に陥る。
 何もかも飲み込んでしまいそうな昏い海だ。

 ――泥海。

 鉛色の海を目にした瞬間、美人は心の中で呟いていた。無意識の内に、だ。



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Thu
2009.07.16[00:52]
 見たことのない海。
 在りえるはずのない海。
 だが、美人は知っていた。
《それ》が《泥海》であることを。
 記憶にないはずの海を、美人の裡の《何か》が確かに識っていた。
 泥海――昏い海。
 全てを生み出し、全てを無に還す、偉大なる海。
 何処に存在しているのか知らないが、妙に懐かしく感じられた。それと同時に、得体の知れない恐怖も感じる……。
 ――パシャン……!
 唐突に小さな水音がした。
 ――パシャン……パシャン……!
 より大きな音となる。
 美人はその音に驚いて零治を見遣る。
 だが、零治は美人の視線の先を追って不思議そうに小首を傾げただけだった。特別、驚いた様子も動揺の気配も感じられない。
 どうやら、零治には音が聞こえるどころか、昏い海さえも視えていないようだ。
 ――パシャン! …………パシャン……!
 水音が次第に大きくなる。
 美人は、水音の正体を確かめようと目を凝らす。
 しかし、水銀の塊のような水面からは何も窺えなかった。
 更に音の発信源を見極めようと、意識を集中させる。常人とは異なる能力をもって、それを探り出そうというのだ。普段は、その特殊な能力を行使することは極力避けているが、今は妙に水音が気になり、使わずにはいられなかった。
「――ビジン? オイ、ビジン! 《力》は使うなっ!」
 零治は、目を見開いたまま動かなくなってしまった美人を目の当たりにして声を荒げた。
 長年の付き合いから、美人が特殊能力を使おうとしていることくらいすぐに見抜くことができる。
「ビジンッ!」
 零治は美人の顔を覗き込む。
 返事はない。
 美人はとっくに意識を集中させ、黒光りする不気味な海を食い入るように見つめていた。既に泥海しか視界に入れていない。零治の存在すらも忘れるほど、揺れる水面を凝視していた。
 ――パシャン……パシャン!
 美人の耳には、しっかりと得体の知れない水音が届いている。
 ――パシャン!
 水面が大きく揺れる。
 ――バシャンッ! 
 激しい水音とともに海面から黒く大きな影が飛び出し、水飛沫を弾かせながら綺麗な弧を描く。
 ――人魚? 
 咄嗟にそんな単語が頭の中をよぎった。
 上半身は、確かに自分と同じ人間。だが、下半身は青緑色の鱗で覆われ、足は無く、魚類の尾を持ち合わせていた。
 半人半魚。
 それを世間一般では《人魚》と言い表す。
 だから、美人は初めて目にするそれを《人魚》だと定義付けることができた。
 黒目のない大きな金色の眼球が、じっとりと美人を値踏みするように見つめていた。
 ――ミツケタ……。
 美人の脳に直接言葉が響く。一種の超音波だったのかもしれない。それを美人独自の能力が、そう解読したのだろう。
「……な……ぜ……」
 ――何故、僕を?
 美人はそう問いかけようとしたが、舌をうまく動かせず、失敗に終わった。
 人魚が艶冶な笑みを浮かべる。意味ありげに唇の両端を吊り上げて。
 ――ミツケタ。
 もう一度、人魚は美人に向けて思念を飛ばし、水中に身を隠した。
 ――パシャン……パシャン……。
 水音が徐々に遠のいていく。
 人魚の跳ねる水音が消えたかと思うと、今度は視界が金色の輝きを帯び始めた。
 鈍く光る海の遥か遠く――水平線から金色の光の波が押し寄せてきたのだ。
 ――ミツケタ……。
 誰かの思念が届けられる。
 ――ミツケタ……ミツケタ!
 先ほどの人魚とは異なる強い声。
 美人は眩暈を感じた。
 金色の光が全身を包み込む。
 美人は糸を切られた操り人形のようにプツリと力を失い、そのまま重力に従って脆く崩れ去った。



「――ビジンッ!」
 のけ反るように倒れかけた美人の身体を、零治は慌てて両手に受け止めた。
《泥海》の視えていなかった零治には何が何だかさっぱり解らなかった。それでも、美人を受け止めようと反射的に腕が彼を支えていた。
「オイ、ビジン? ――ビジン! ……ヨシヒト!」
 零治は美人の細い肢体を腕に抱きながら、その蒼白な顔を覗き込んだ。
 揺さぶっても、軽く頬を叩いても効果はない。
 零治の顔は真剣そのものだ。
 美人の呼び名が無意識に《ビジン》から《美人》へと変化していた。
 ひどく真摯な時にだけ、零治は美人のことを本名で呼ぶのである。
「美……人……?」
 目覚めない美人の頬に、零治はそっと手を添える。ヒヤリと冷たい。
 ――息をしてない?
 瞬く間に、不安が全身を駆け抜けた。
 頬に添えた手をずらして唇に触れようとした途端、零治は眉間にきつく皺を寄せた。
「――誰だっ!?」
 鋭く誰何する。
 だが、応えはなく、静寂だけが部屋に漂った。
 零治は首だけで後ろを振り返る――やはり、誰もいない。
 おかしい……。
 今、誰か――生身の人間ではない《何者か》が、美人の頬を愛撫し、不躾にも唇を奪っていった。
 霊感など持ち合わせていない零治に視えるはずはない。
 しかし、零治には《それ》が手に取るように解ってしまったのだ。
「ちくしょう……!」
 零治は罵言を吐き出し、意識のない美人をそっとベッドに横たえた。
 胸が微かに上下している。
 呼吸を行っていないように見えたのは、錯覚だったようだ。
「ふざけやがって……!」
 忌々しげに呟く。
 美人の薄紅色の唇を親指で丁寧に拭いながら、零治は苛立たしげに歯で下唇を噛み締めた――


     *


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Thu
2009.07.16[00:57]
     *


 午前零時を過ぎた平日の繁華街は、妙に閑散としていた。
 金曜や土曜、祭日の前夜ならこれとは逆に賑わっていたのだろうが、とにかく今宵は街を出歩く人間が少なかった。
 それが、赤城文彦にとって人生最大の不運へと繋がった。
「チクショー! タクシー、捕まんねーな」
 文彦は、繁華街の中心部から少し外れたJR駅前でタクシーを待っていた。しかし、目前の公道を走り抜けていくのは、どれも客を乗せたタクシーばかりである。《空車》の赤いランプに、出会うことはなかった。
 文彦は、駅近辺にある恋人宅で遊び耽っていた。時計の針が十二時を過ぎたのに気づき、慌てて恋人の家を後にした。『もう電車も地下鉄もないわよ』と心配する恋人に『駅前でタクシー拾うからいいよ!』と軽口を叩いて出てきたのだが、どうもうまくタクシーが捕まらない。
「繁華街まで行った方が早いな」
 このままで埒が開かない。文彦はタイミングよく青に変わった横断歩道を渡り、繁華街の方へ足を急がせた。飲み屋界隈なら、スナックやクラブが閉店する頃を見計らったタクシーが沢山待ち構えているだろう、と判断したからだ。

 確かに、文彦の判断は正しかった。
 ただ、彼は運が悪かっただけだ。
 偶然、たった一人で街の《歩行者天国》を歩いていただけ……。

 ――クスクス……クスクス。
 という、女の忍び笑いが文彦の耳に届いたのは、両手を模した噴水の前を通り過ぎようとした時だった。
「――――?」
 文彦は、驚いて足を止めてしまった。
 行き交う人が全くいなかったので、驚きは必然的に倍増される。
 心臓がドキッと跳ねるのを無理矢理押さえつけながら、笑い声のした方向に首を捻った。
 そして、ホッとする。
 噴水の縁に少女が一人腰かけていて、じっと文彦のことを見つめていたのだ。
 彼女は、文彦と同じ学校の制服を身につけている。文彦の通う学校――聖華学園の渋い深緑色の制服は、何処にいても目立つ。
「なんだ、脅かすなよ」
 安堵のあまり胸を撫で下ろす。
「一人? 私、暇なの。遊んでくれない?」
 少女は立ち上がると、腰まで届きそうな漆黒の髪をサラリと手で払った。
 間近で見るとかなりの美人だ。
 髪と同じく双眸も漆黒。肌は透けるように白く、唇は艶やかな紅色をしている。
 ――同じ学年だったかな?
 文彦は、少女の顔に見覚えはあるが、彼女の名前やクラスまでは詳細に思い出すことはできなかった。
 生徒数が多いので、余ほど目立つ人物でない限り『全校生徒に名前を覚えられている』なんてことは有り得ない。
「悪いけど、これから帰るんだ」
 文彦は端的に断った。恋人宅からの帰路だというのに、他の女となんか遊んでいられない。
 文彦は少女の脇を通り過ぎようとした。しかし、彼女は驚くほど素早く文彦の腕を捕らえる。
「ねえ、私、帰りたくないの」
 少女は文彦の手を自分の胸まで持ってきて、そっと押しつける。
 その柔らかい感触に文彦はたじろいだ。
「私の部屋に来ない?」
 少女は、魅惑的な微笑みを艶然と浮かべながら文彦を誘う。
 その微笑みだけで、文彦の理性は見事に打ち砕かれた。
 チラリと脳裏に恋人の無邪気な笑顔が浮かんだが、ものの一瞬で消え去った。
 少女の妖しい美しさに魅せられ、誘惑を断ることができなかったのである。
「フフッ……気持ち良くしてあげる」
 少女はゆっくりと唇を重ねてきた。
 舌が文彦の中に侵入してきて、彼の舌を絡めとる。
 ――誘ってきたのはそっちだ。オレは悪くない。
 文彦はそう割り切って考えることに決め、自ら少女の唇に吸いついた。
 少女の膝が文彦の太股を撫でるように上ってきて、そのまま股間を軽く刺激する。
 文彦は躰が脱力するのを辛うじて防ぎながら、少女の形の良い尻に手を回した。
 彼は気づかない。
 自分が罠にはまったことに。
 街行く人間が少なかったばかりに、たまたま彼が標的に選ばれたのだ。
 そんなことなど露知らず、文彦は無我夢中で少女の躰を撫で回していた。
 文彦と口づけを交わす少女の両眼が、徐々に赤みを帯びてくる。
 少女はかぶりつくように文彦の舌を吸った。
 ――グシュ!
 嫌な音がした。
 口の中にしょっぱい血の味が広がる。
 文彦は、茫然と目の前で微笑む少女を見つめた。
 ペロリと差し出された少女の舌に、別の舌が絡み取られている。
 疑う余地もなく、それはつい先ほどまで少女とディープキスをしていた自分の舌。
 刹那、文彦は口内に激痛を感じた。
「……う……う……あああああぁぁぁぁっ!!」
 言葉にならない悲鳴が迸る。
 文彦は、少女を凝視したままその場に尻もちをついた。
 少女は冷ややかな瞳で文彦を見下ろし、彼の舌を口に入れるとゴクンと呑み込んだのだ。
 ――殺される!
 文彦は恐怖に顔を引きつらせた。
 彼は、ようやく自分が魔性の贄に選ばれたことを悟った。
 だが、時既に遅し――
 少女の赤光を放つ強力な眼力が、文彦を呪縛した。
 少女の長い髪が宙を舞う。
 その一本一本が意思を持っているかのように蠢き、文彦を標的として迫っていた。
 ヒュン、ヒュンと髪の毛が飛ぶように襲ってくる。
 それは鋼鉄の刃のように硬く、文彦の躰を容赦なく嬲った。
 少女のクスクスという喜悦の笑いが耳に届く。

 およそ五分後、文彦は一生タクシーに乗ることの叶わぬ身となった―――



     「第二夜」へ続く



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Thu
2009.07.16[08:53]
第二夜



 早朝の冷ややかで森閑とした空気が、零治の身体を取り巻いていた。
「――ん? あ…れ……? げっ! 寝ちまったのか?」
 零治は朝の冷気で目を醒ますと、慌てて腕時計に視線を投げた。
 時刻は午前五時五二分。
 寝ずに美人の傍にいようと思っていたが、ついウトウトと二時間ほど眠ってしまったらしい。
 咄嗟にベッドを振り返る。
 美人が二時間前と変わらず微かな寝息を立てている。
 それを確認すると、零治は大きく息を吐き出した。もちろん安堵のためだ。
 美人に異変は感じられない。
 零治は寝不足の面持ちのまま、身体を反転させてベッドの脇に身を寄せた。
 美人の人形めいた白い寝顔が視界に入る。
「……ん……」
 伏せられた瞼がピクリと動き、長いまつ毛が微かに揺れる。
「――あっ……ああっ……痛っ!」
 美人は、寝返りを打とうとしたらしく身体を横に転がそうとした。
 だが、急に身体をのけ反らせて苦痛を訴えるのだ。
「ビジンッ!?」
 零治は反射的に美人の身体を両手に抱き寄せる。美人の白い顔に小さな汗の粒が幾つも浮かんでいた。
「ビジン? ――ビジン!」
 美人の身体を軽く揺さぶる。
 瞼が小刻みに震え、ゆっくりと開かれる。
 潤んだ瞳が数秒宙を彷徨い、最後に零治の顔に焦点を定めた。
「……零……治……?」
 瞳に映るものを『大切な親友』だと認識すると、美人は安堵したような吐息を洩らした。
「大丈夫か? うなされてたぞ」
 零治は、腕の中の美人に気遣わしげな声をかける。
 美人の細い腕が、零治のシャツの袖をギュッと握り締めた。
「夢を見てた……誰かの腕が僕を呪縛するんだ――誰かが僕を何処かへ連れていこうとする。抵抗しようとしても、身体が動かなくて……」
「夢だろ」
「解ってる――だけど、感触があった。冷たい手が、僕の首に触れる。髪に、頬に、唇に――僕の全てを確かめようとするように動くんだ。誰の手かは解らない。でも、僕を攫っていこうとしていたのだけは、確かだ」
 美人はその手の感触を思い出しているのか、美しい柳眉を軽く寄せている。
 ――あいつだ……!
 零治は、瞬間的に昨夜の不可思議な《影》のことを思い出していた。
 あの時は口元がチラリと見えただけだが、不思議と美人の夢に出てきた手と同じモノだという確信があった。
 だが、敢えてそれを美人に告げる気はない。告げれば、更に美人が思考の迷路にはまり込んでいくのは目に見えている。わざわざそんなことをするほど、零治も馬鹿ではない。
「気にしすぎだ。おまえは悪い夢を見たんだ」
 宥めるように、零治は美人の細い身体を抱き寄せる。
 すかさず美人の腕が首に絡まってきた。
「零治……」
 耳元で、美人の不安を含んだ声が呟く。
「僕は変じゃない? 最近、可笑しくない?」
「変じゃない。『気にするな』って言ってるだろ。ちょっと疲れてるだけだ」
「そうかな……?」
「大丈夫だって。オレが保証する。何で、そんなに脅えるんだよ? ――オレの言うことが信じられないのか」
 零治は、必要以上に脅え、不安を募らせる美人を更に強く抱き締める。
「……零治の言う通りかもしれないね。昨日から妙なこと続きで疲れてるんだ」
 美人も零治の肩に額を押しつける。
 傍目から見れば二人の友情は、度を越えているのだろう。だが、当の本人たちにしてみればこれが当然で、他人から非難されることの方が納得できないのである。
 互いに依存度が高過ぎるのだ、美人も零治も。
 それが幼い頃より《日常》となっているので、現在でも進行形で続行されている。
「あれ、もしかして寝てないの?」
 しばらく零治に凭れていた美人だが、ふと自分が気を失ってしまった後『零治は一睡もしなかったのではないか?』と懸念し、顔を上げた。
 見かけによらず心配性の零治のことだ、きっと自分を気遣ってずっと付き添っていたに相違ない。
「あっ、いや……寝たよ――二時間ぐらい」
 零治は咄嗟に『寝た』と断言しようと思ったが、美人の真摯な眼差しを見ると嘘がつけなくなって、思わず本当のことを洩らしてしまった。
「たったの二時間? まだ六時前だから、あと一時間くらい眠れるよ」
 美人は綺麗な弧を描く眉をひそめる。
 ベッドの脇にある目覚し時計に視線を配ると、まだ起きるには少し早い時間だった。
 美人は、零治から身を離すとベッドの隅へ移動する。雪のように白い手でパンパンと空いたスペースを叩くのだ。『ここに寝たらいいよ』と目が無言で語っていた。
 零治は、従順に美人が示した場所へ身を横たえる。
 たとえ一時間でも睡眠をとりたかった。寝不足のせいか軽い頭痛を感じる。
「零治、額が赤いよ?」
 零治に続いて毛布に潜り込もうとした美人は、友人の金髪から垣間見える額が仄かに赤味がかっていることに気づいた。
「あっ、おでこ?」
 零治は反射的に片手で前髪を掻き上げてた。
 そこには、直径三センチほどの痣のような物が浮き上がっていた。
「うん。これくらいの大きさ」 
 美人は人差し指と親指で輪を作って見せる。
「へえ……? ――あっ、さっきまで居眠りしてたからな、オレ。その間に、どっかにぶつけたのかもしれない」
「そうだね。零治はおっちょこちょいだから」
 美人はクスクス笑いながら言葉を紡ぐ。
「お・ま・え・なぁ! たまには『そんなことないよ』くらい言えないのか」
 素直に肯定する美人に対して、零治は拗ねたように唇を尖らせる。少しはフォローしてくれてもよさそうなのに、敢えて深みに落とす美人が恨めしかった。
「だって、事実でしょう」
 美人は面白そうに笑いながら、顔までスッポリ毛布に隠してしまう。
 零治は唇が引き吊るのを懸命に堪えた。
 確かに事実なのだから、反論の余地がない。
 一瞬屈辱に耐えた後、零治は勢いよく毛布の中に入った。
「人間湯たんぽっ!」
 嬉しげに叫んで、隣の美人を思い切り抱き締める――と言うよりも羽交い締めにした。秋といえども早朝は寒い。美人の体温を盗んでしまおうという魂胆だ。
「ちょっ、ちょっと、零治! 離してっ!」
 美人は、突如として抱き着いてきた零治を容赦無く蹴りつける。だが、零治の力の方が勝っているので、どうにもならなかった。
「おまえ、湯たんぽどころか氷だぜ。信じられん奴だな。寝てたのに、何でこんなに冷たいんだよ?」
 零治は、美人の身体が想像以上にひんやりとしていて微かに身震いをした。元々体温が低い美人だ。驚きはしないが、現実として冷たいものは冷たい。
「だったら、離れてよ!」
 非難たっぷりに美人は言葉を放つ。勝手に絡みついてきて、そのうえ文句をぶつけてくるなんて心外だ。
「い・や・だ!」
 零治は藻掻く美人を尚更きつく抱き締める。
「どうして?」
「え? ただの嫌がらせ」
 ケタケタ笑いながら零治は告げる。
 美人の困り顔を見るのは正直楽しい。大人しく行為を中止するほど、零治は純朴な人間ではなかった……。
 結局、《嫌がらせ》と《拒絶》の押し問答が延々と続き、二人は貴重な一時間を無駄にする破目になった――


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Thu
2009.07.16[20:40]
     *


 朝の涼やかな静けさが有馬家を覆っていた。
 有馬家の家族団欒の場所――三十畳もある巨大な居間では、美人の母である桐子と双子の姉・智美と咲耶が朝食をとっていた。
 桐子は、とても四十代前半には見えない、美しい外見をしている。美人の母親だから勿論顔立ちも整っているのだが、内面から滲み出る崇高で神厳とした雰囲気が、彼女を年齢不詳に見せていた。
 双子の姉妹は同じ顔を見合わせ、ご飯を頬張りながら談笑している。二人は髪型まで同じなので、パッと見ただけで見分けることは困難だ。
「お母さん、美人はどうしたのかしら?」
 豆腐の味噌汁が入ったお碗を手に取りながら、右側の少女が訊ねる。妹の咲耶だ。
「まだ起きてないみたいだけど?」
 桐子は首を傾げながら自信なさげに応じる。本来、美人は家族の中の誰よりも早起きだ。その長男の姿が見えないのは珍しいことだった。
「夜中に零治が来てたわよ。それに、さっきお風呂から水音がしてたから、シャワーでも浴びてるんじゃない」
 姉の智美が、キュウリの浅漬を齧りながら的確な答えを弾き出す。
 砕けたキュウリをゴクリと呑み込むと、彼女は箸を置いた。
「ごちそうさまでした。じゃ、私、学校に行くから――咲耶も早くしないと遅刻するよ」
 智美は、まだ半分以上も朝食が残っている咲夜に忠言しながら勢いよく席を立った。
 智美も咲耶も、自宅から通学に四十分程かかる美術大学に通っている。
 始業ベルが鳴るのは八時半だ。現在、時刻は七時五十分――ギリギリのラインだ。
「あっ、本当だわ。お母さん、ごめんなさい。私も行きますね」
 咲耶は、味噌汁だけを綺麗に飲み干して慌てたように居間を出ていく。桐子の『気をつけてね』という言葉も耳に入っていない様子で、智美を追いかけていった。
 桐子は苦笑を湛える。『俊敏な姉に、温和な妹』という典型的なシュチュエーションが、微笑ましくも可笑しかったのだ。
 クスクス笑っていると、今度はダンダンダンダンダンッという騒々しい足音が迫ってきた。
 ジーンズを履いた長い脚が、桐子の視界をよぎる。
 細い足は一旦部屋の前を通り過ぎてしまったが、すぐに引き返してきた。
「おはようございます」
 曽父江零治が金髪を揺らしながら部屋へ入ってくる。
「あら、零治くん。おはよう――美人は?」
「ビジンならフロに入ってますけど」
「予想通りね。ゴハン、食べていく?」
「えっ? いや、自分ち帰ります」
 零治は、乱れた髪を邪魔臭そうに掻き上げながら応じる。この場合、家と言っても実家ではない。マンション内にある自分の部屋のことだ。
「そう、残念ね」
 桐子は心底残念そうに呟いた。
 彼女は、自分の子供たち同様に零治を可愛がっている。親友・依子の息子だということも一理あるが、零治のサッパリとした性格が好みでもあるのだ。自分の生真面目な息子とは一味違った可愛さがあるから、ついつい構ってしまう。零治も頻繁に遊びに来てくれるので、有馬家の住人にとって彼は家族にも等しい存在になっていた。
「じゃ、帰ります。ビジンには『迎えに来い』って伝えて下さい」
 美人の母親に向かって『迎えに来い』と堂々と命令形で伝言をお願いするところが、零治らしい。
 そんなことなど気にせずに、微笑みながら零治を見送ろうとした桐子だが――
「――零治くん、待って!」
 急に零治を呼び止めた。
 立ち上がり、零治の傍らまで駆け寄る。
 桐子の焦っているような動作に、零治は軽く首を傾げる。桐子の瞳が一瞬鋭く光ったような気がするのだ。
「何ですか?」
「その額、どうしたの?」
 桐子は不安げに零治を見上げる。零治の額に赤い痣のようなものを発見したのだ。
「いや、よく解らないんですけど、寝てる間にぶつけたみたいです」
「そう……それならいいけど」
「これぐらい何でもないですよ。それじゃあ、ホントに帰ります。お邪魔しました!」
 零治は、尚も心配そうに自分の額を見つめる桐子に明るく挨拶して、今度こそその場を後にした。
 桐子は、足早に去っていく零治の後ろ姿をボンヤリと眺めていた。
 零治のあの額……。
 あの微かに浮かび上がっているものは?
《それ》について、考えたくない。
 彼女は、突如脳裏に閃いた危険な思考を持て余してしまった。
「…………」
 陰気な胸中を抱えたまま、桐子は食べかけの食事を片付けようと身を反転させる。
「お母さん」
 そこへ、息子の耳心地の良い声が飛んできた。
 美人がバスタオル片手にこちらへ向かって歩いてくる。
「おはよう」
「おはよう――零治、知らない?」
 美人は怪訝そうに軽く眉を寄せる。お風呂から上がり部屋へ戻ってみると、零治の姿が忽然と消え失せていたのだ。
「零治くんなら、さっき帰ったわよ。『迎えに来て』って言ってたわ。ゴハン食べるなら、早く支度してきてね」
「あっ、朝はいいよ。何か、寝足りないみたいで怠いから」
 美人は、喉の奥から込み上げてきた欠伸を手で押さえる。零治とふざけ合っていたせいで、余計な体力を消耗してしまった。
 濡れた髪をバスタオルで拭きながら自室へ戻ろうとして、美人はふと足を止めた。
「……僕、榊のお祖母様に似てる?」
 予期せぬことを質問されて、桐子は一瞬動きを止めてしまった。
「――そうね。似てるわ。写真で見た母の若い頃にそっくりよ。私も似てるって言われたけれど、美人の方が似ているかもね」
 桐子はそっと微笑んだ。
 事実を歪曲することはない。
 美人が知りたいのならば教えてあげよう。
 彼には知る権利がある――
「似てるんだ。そうか――ありがとう、お母さん」
 美人は自分の中だけで納得したように頷き、神妙な顔つきで踵を返して行ってしまう。
 桐子は愛する息子の背中から顔を逸らした。
 見ていると、涙が溢れてきそうだった。
 逆らえない運命の輪。
 緩やかだが胎動し始めている。
 零治の額の痣。
 美人の《榊総子》に対する興味心。
 それらは、全て繋がっている。
 あの忌まわしい《扉》へ――
 哀しい運命の糸に導かれ。
 ザザザザザーッと、冷たい風が頬をよぎる。
 室内の窓は全部閉ざされているというのに。
「風が――」
 桐子は双眼に鋭利な光を宿す。
 隣の和室へ足を向け、大きな障子を開いた。
 ザザザザザザーッ!
 先ほどよりも強い風が吹く。
 いつもなら美しい中庭が見えるはずなのだが、今は視界が銀色の粉で覆われていた。
「《鏡月魔境》の風ね」
 桐子は無意識に呟いていた。
 蠱惑的な幻の世界。
 彼女はそこを知っていた。
 十七年前に一度垣間見ている。
 美しくも禍々しい世界。
 ――ギギギーッ。
 微かな虫の鳴き声のようなものが、耳をくすぐった。
 桐子は瞼を閉ざす。
 暗闇の中に、イグアナに蝙蝠の羽根が生えたような奇怪な生物が浮かんできた。
 ――バサバサッ! バサバサッ!
 目を開くと、体長一メートル程のそれが室内を飛び回っている。
「帰りなさい。ここは、あなたがいる場所ではないわ」
 桐子は諭すように言葉を紡ぐ。
 だが、怪獣は桐子の存在を敵視し、闇雲に攻撃し始めるのだ。
 鋭く尖った爪やナイフのように研ぎ澄まされた羽根で、容赦なく桐子を傷つけようとする。
 攻撃は、確実に桐子に当たっている。だが、彼女の皮膚一枚切り裂くことはできなかった――彼女が特殊なベールを身に纏っているからだ。
 彼女も《封魔師》《魔女》《境王妃》と様々な異名を持つ不可思議な能力の駆使者――榊総子の血を引く者だ。彼女には、総子から受け継いだ神秘の力がしっかりと宿っているのだ。
 桐子は、暴れ回る怪獣に掌を向けた。
「――消えなさい」
 冷ややかに唇が言葉を紡ぐのと同時に、掌から白い光が放出していた。
 眩い光は、レーザー光線のように怪獣の体を貫く。
 断末魔の叫びをあげる暇もなく、怪獣は消滅した。粉々に――塵と化して。
 怪獣が消え失せると、目前の光景は見慣れた純日本風の中庭に変貌を遂げていた。
「十七年前は私を……そして、今度は美人を手に入れようとしているの、境王?」
 桐子は、この場にはいるはずのない者に問いかける。
 麗しく、気高く――そして、哀しく、寂しい、異世界の王。
 この世のものではない、もう一つの世界の覇王。
 人間である妻・総子を誰よりも何よりも愛した純粋な魔王。
 彼は生きている。
 だが、総子はとうの昔に他界しているのだ。
 どうして、その真実を受け入れようとしないのか?
「あなたと約束を交わした《総子》は、もう何処にもいないのよ?」
 囁くと、フワッと風が桐子の髪を撫でた。
 生温い――しかし、優しい風だ。
 風は、唄を運んできた。
 解読不能な魔境の言葉で。
 聞き取れたのは、《ソウコ》という名前のみ……。
 桐子はゆっくりと障子を閉めた。
「美人は貴方には渡さない。母が貴方と交わした約束は無効よ」
 堅い意志を確かめるように彼女は自分自身に言い聞かせ、居間へ戻った。
 若かりし頃の実母の顔を思い出しながら、天井を仰ぎ見る。
 唇から言葉が滑り落ちた。
「天も地も貴方の意のままに」
 それは、果たされなかった約束――


     *


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Fri
2009.07.17[23:56]
    *


 朝の聖華学園を陰鬱とした喧噪が包み込んでいた。
 昨夜、またしても学園に妖災が降りかかったからだ。
 各朝刊の誌面を『少年惨殺死!』『またもバラバラ死体発見』『呪われた聖華学園』などという見出しが飾った。
 一昨日の木下真弓に引き続き、繁華街で少年の凄惨な死体が発見されたのだ。それが、聖華学園三年に在学する赤城文彦だと判断され、学園は瞬く間にパニックに陥った。
 通常通り生徒たちを登校させたものの、不安を抱えた父母や生徒たちからの苦情が絶えない。
 学園の大きな門の前には、マスコミや報道陣が殺到している。
 この二つの猟奇事件は、ただの偶然にしては殺され方が酷似しすぎていた。二人とも五体バラバラで、臓器が飛び散り、獣が食い千切ったかのように荒らされていたのだ。どう考えても尋常な死ではない。
 警察でも事件を持て余していた。
 誰が、何の為に、聖華学園の生徒を狙っているのか見当もつかない。
 おまけに、これらの所業は絶対に人間では成しえることのできないものだ。骨までもが一息にへし折られ、砕け散っているのだ。
 とても人間業ではない。
 警察側は『狂暴化した野犬が襲ったのだろう』と自分たちでも納得できない見解を発表をした。皆は一応はその説に頷きを示したが、誰もが心の中ではそれを信じることなどできなかった。信じることができれば楽なのに……。
 それは、到底無理なことだった。
 学園中の人間が『次は自分かもしれない』と脅えていた。
 生徒たちが凶事についてヒソヒソと噂話しを巡らせている最中、会議室では『緊急職員会議』が開かれていた。
 会議の要点を大まかに説明すると、
『各種マスコミのインタビューには一切応じないこと』
『ホームルーム後、講堂で緊急全校集会を行い、亡くなった二人のために黙祷を捧げること』
『夜間外出禁止。また、日中でも絶対に一人では出歩かないこと』
『明日から一週間休校になり、生徒は自宅待機になること』
 この四点になる。
 会議が終わり会議室を出たところで、数学教師・黒井薔薇子は、保健医の西野智弘にばったり出会した。
 二人とも神妙な面持ちで視線を合わせる。
「――どう思います、薔薇子さん」
 先に口を開いたのは西野の方だった。
「多分、同じ妖魔の仕業ね。それも、かなり高等なヤツ。目撃者が出ないように巧くやってるわ」
「同感ですね。自分の体液や皮膚の片鱗も残していないですし」
 西野の発言に、薔薇子はくっきり描いた眉をひそめた。
「私が思うに、当たり散らしてるだけね。決まった標的はいないわ。食料として、殺した人間を食べてるだけよ――迷惑極まりないわね、まったく!」
 薔薇子は嫌悪の念を込めて吐き捨てる。
「……文彦くんのことは、薔薇子さんでもどうにもなりませんでしたか?」
「期待してくれるのは嬉しいけれど――残念ながら。妖魔の気配すら……」
 薔薇子は口惜しげにヒョイと肩を竦める。
「気配はあったけど――察知した瞬間、向こうから遮断されたわ!」
「まあ、そう焦らずに」
「焦るわよ。明日、《扉》が完全に開いてしまうのよ。そうなったら……もう私の手には負えないわ」
「それは私も同じですよ。私たちは《全てを識る者》――そして《全てを視る者》。ですが、私たちにできるのは事の渦中にある者を助けてあげることぐらいです」
「そうね」
 薔薇子は従順に頷く。
 この事件は、あくまでも《境王》と《総子》の問題なのだ。
 他の誰も立ち入ることのできない領域だ……。
「鏡月魔境――美しくも忌々しい世界。この学園は、魔境とこの世を繋ぐ《鍵》……既に浸食されつつある」
 西野は、フレームのない眼鏡の奥で怜悧な瞳をスッと細める。
 聖華学園を漂う空気は、《扉》から洩れた鏡月魔境の生温い風を孕んでいた。
 清涼な学園の空気とそれが混ざり合って、奇妙な靄を造っている。
 ごく普通の人間には感知することなどできないが、西野や薔薇子の瞳にははっきりと映し出されていた。
「封印が解けかかってるわ」
 薔薇子は豊かな巻毛を片手で払う。
「殆ど『解けている』と言っても、過言ではないですけどね。――ところで薔薇子さん、あなた、誰に頼まれました?」
 西野は急に話題を転換させる。
 薔薇子が、自分と同類の特殊能力を持ち合わせていることは解っている。
 だが、彼女が誰の為に《鏡月魔境》へ関わり出したのかは、明確に掴んではいなかった。その部分は、西野にとって興味をそそられるところでもあった。
 薔薇子は敢えて『何を?』とは聞かなかった。その代わり、
「西野先生は?」
 と、逆に反問する。
「榊総子さんに」
 西野は隠匿することなくニッコリ微笑みながら答える。
「私も似たようなものよ」
 はぐらかすように、艶やかな笑みを浮かべる薔薇子。
 どうやら薔薇子は自分の正体を明かす気は更々ないらしい。
 それなら、それで構わない。
 二人が《鏡月魔境》という共通点で結ばれているということに、変化はないのだから。
 西野は薔薇子との秘密めいた結託を気に入っていた。
 何より、薔薇子が派手な外見とは裏腹に、生真面目な性格と情熱的な真摯さを持っていることが面白い。《本当の自分》を見せない点に関しては、薔薇子は自分より長けているのかもしれない。
「具体的には?」
 薔薇子からの回答がないことを知っていても、西野は訊ねてしまった。
「秘密。ねえ、天も地も貴方の意のままに――って、酔狂よね」
 こんな考え。
 薔薇子は美しく整った顔を微妙に歪めた。
 不条理で不遜な言霊。
「天も地も貴方の意のままに、か……」
 西野が歌うように繰り返す。
 薔薇子の双眸が何処か遠くを見つめた。
「でも、境王にとっては甘美な誘惑ね――」


     *



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