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ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です
Thu
2009.07.23[22:59]
「ごめんなさい。わたしが余計なことを言ったから……。本当にごめんなさい。もう二度と訊かないから」
 莉緒は必死に言葉を繰り出し、なおも要の身体を揺さぶった。
 要が驚いたように目を見開く。
 彼は瞳から流れる涙に気づき、慌ててそれを手の甲で拭った。
「いや、村に住んでいれば、いずれ耳に入ることだから……。僕も二度は説明したくはないし、今、全部言っておくよ」
 気丈にも明瞭な口調で告げ、要は真っ直ぐに莉緒を見つめた。
「あの日、僕は叔母に言われて神栖家に行ったんだ。そこで息絶えた蘭さんと、彼女の胸に鎌を刺している玲を目撃した。僕が恐怖で動けずにいると、やがて玲が次の行動を起こした。玲は何をしたと思う?」
 要の問いに、莉緒はふるふると首を横に振った。訊かれても推測すらできない。
「玲は蘭さんの首を鎌で斬り落としたんだ。とても子供の力とは思えなかった。あいつは、ただの一振りで蘭さんの首を胴から切り離した。尋常じゃないよ」
「鎌で首を? 子供の力で、そんなことができるの?」
「実際に玲はやったんだ。だから、普通じゃない。あれは、悪魔のような所業だった」
 要の顔が苦虫を噛み潰したかのように歪められる。
「それから玲は、分断された首と胴体を庭に引きずって行き、遺体に灯油を振りまいて火を点けた。玲は炎に包まれた母親を、冷たい目でじっと見据えていた。表情一つ変えずに、蘭さんが燃えるのを見つめていたんだ」
「神栖くんは……本当に殺したの?」
 莉緒は喉の奥から声を振り絞った。自分でも驚くほど掠れた声だ。

『緋月村には化け物が棲んでる――それが俺だ』

 つい先刻、耳にしたばかりの神栖玲の言葉が脳裏に甦る。
 玲は自分が殺人鬼であることを暗に仄めかしていたのだろうか。
「信じたくないけど、屋敷には他に人がいなかった。玲以外の犯人なんて考えられないし、玲も否定しなかった。いや、正確には否定も肯定もしなかったんだ。あいつは蘭さんの死について、頑なに沈黙し続けた」
「じゃあ、彼がやったという明確な証拠も自白もないのね」
「僕が目撃した時には、蘭さんは既に息絶えていたと思う。でも僕は、彼女が殺害された瞬間を見てはいない。玲が蘭さんに鎌を突き刺したのを目撃したわけじゃないんだ。ただ、そこには玲しかいなかった」
 要が記憶を手繰り寄せるように視線を宙に彷徨わせ、苦々しく告げる。
「それ、さっきも言ってたわね。どうして、屋敷には誰もいなかったの?」
 莉緒は思いついた疑問を率直に口に出してみた。
 玲の犯した凶行を聞いたのに、妙に冷静な自分がいる。要の話を聞いてもなお、玲が実の母親を殺したなど信じられない。
「ちょうどその頃、村では人死にが続いていて、大人たちはそれが須要の神様の祟りだと信じ込んでいたんだ」
「もしかして殺人鬼アサのこと? アサの祟りが村に降りかかってると見なされたわけね」
「よく知ってるね」
「さっき図書室で知ったばかりよ」
「知ってるなら話は早い。未だに大人たちはアサの呪いを信じてるんだ。五年前も相次ぐ人死には全て祟りのせいにされた。それで、大人たちは祟り鎮めの儀式を行うために神社に集っていたんだ。僕は子供で、邪魔になるから神栖家に行ってなさい、と叔母に言われた。――で、行ってみたら、とんでもない事態が起こっていた」
「神栖くんのお母さんは家に残っていたのね」
「みたいだね……。そんな状況だったから、犯人は玲しか考えられない。神社から戻ってきた村長は、炎上する愛娘を見て愕然としていた。村長はすぐに、娘を殺したのが孫だと気づいた。他の村人たちも気づいただろうね。だけど、村長がその場で玲を糾弾することはなかった。それどころか、彼は蘭さんの死因を有耶無耶にした」
 要が殊更声をひそめる。
 彼の顔は苦渋に満ちていた。
「月が紅い夜だった。だから、村長は蘭さんの死もアサの祟りのせいにした。それ以降、蘭さんの死について口外することは禁じられた。村長が箝口令を出したんだ」
「権力で揉み消しちゃったのね」
 先ほど要が人目を気にしたのは、神栖蘭のことを喋っているところを誰にも目撃されたくなかったからなのだろう。
 神栖倫太郎の支配力は、村全体に浸透しているらしい。
 誰も倫太郎に逆らうことなどできなかったし、今もそれは変わっていないのだろう。倫太郎の一言で、神栖蘭の死因は究明されることなく、玲が表立って後ろ指を差されることもなくなったのだ。
「村長にとっては身内の醜聞だものね。でも、それだけ孫である神栖くんを護りたかったってことかしら?」
「違う。村長が護りたかったのは、蘭さんの名誉だけだ。彼が愛しているのは、今も昔も娘の蘭さんだけだ」
 何気なく口にした莉緒の言葉に、要が強く反論してくる。
 その激しさと声に潜む嫌悪に驚いて、莉緒はまじまじ要を見上げた。
「村長は玲のことなんて、これっぽっちも考えてない。彼の世界には、玲という孫なんて存在しないことになってるんだ」
 要の顔は険しくしかめられていた。
 声音には、神栖倫太郎に対する侮蔑が織り込まれている。
 同時に、それは玲に対する友情の発露でもあった。幼なじみのことを案じているからこそ、倫太郎の孫への接し方に憤懣と軽蔑の念を覚えるのだろう。
「村長は実の孫を嫌ってるの?」
「玲を怖がってるんだよ。僕と同じだ。それに村長は、玲の父親を嫌っていたからね。その男に最愛の娘を奪われたと勘違いしてたんじゃないかな。村長は玲の父親を憎んでいた。その延長で、同じ血を引く玲のことも忌避してるんだ」
 要が揶揄するように告げ、冷たい笑みを閃かせる。
 それから彼は思い出したように腕時計に視線を落とし、微かに眉根を寄せた。
「――と、そろそろ帰らなきゃ。蕪木さんも暗くならないうちに帰った方がいいよ」
 要が帰宅を促すように鞄を抱え直す。
 莉緒は素直に頷いた。
 辺りは日没を迎え、薄闇に包まれ始めている。夜の帷が完全に降りる前に家に辿り着きたいのは、莉緒も同じだ。
「あっ、今の話、僕が喋ったって内緒だよ」
 公民館の門を出たところで、要が急に立ち止まる。
 釘を刺すようなその一言に、莉緒は微笑で応じた。
「解ってるわ。他言無用ね。――けど、最後にもう一つだけ訊いてもいい?」
「何?」
「要くんは、本当に神栖くんが殺したと思ってるの?」
 莉緒が恐る恐る尋ねると、要は苦々しく首肯した。
「信じたくないけどね。本当は僕だけでも――いや、僕だけは玲のことを信じてあげるべきだったんだ。僕と玲は兄弟同然に育った幼なじみなんだから……。でも、信じてあげなければならないはずの僕だけが、目撃者だった。――皮肉だよね」
 要の顔に弱々しい笑みが浮かび上がる。
 彼はまた五年前の悲劇を思い出したのか、沈鬱な眼差しで莉緒を見つめた。
「玲があんなことをする人間じゃない、って頭では解ってるつもりなんだ。なのに、玲を見ると本能が彼を拒絶する。五年経った今でも、玲の姿を見ると身体が竦むんだ」
 悲しげに告げ、要は再び足を動かし始めた。
 しかし、交差点へと辿り着く直前に、彼はもう一度莉緒を振り返った。
「蕪木さん、村を出て行きなよ」
 唐突に要が告げる。
 莉緒は驚いて彼を凝視した。



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Fri
2009.07.24[22:59]
 神栖玲にも同じことを言われた。
 なぜ今、二人が口を揃えて『村を出ろ』と言うのか全く理解できない。
「神栖くんと同じこと言うのね」
「この村は狂ってるんだ」
「村が危険だというのなら、要くんも出た方がいいんじゃない? 神栖くんは、あなたが殺されると危惧していたわよ」
 莉緒が真顔で言葉を返すと、要は泣き笑いの表情を浮かべた。
「僕には村に残る義務がある。責任がある。僕は玲のために村に残らなければならない。それが、せめてもの罪滅ぼしだからね」
「意味が解らないわ」
「五年前、血塗れになりながら玲は僕に助けを求めたんだ。玲の目は、自分が殺したんじゃないと訴えていた。それなのに、僕は玲を拒絶した。玲が蘭さんを殺したという確証があったわけでもないのに、玲を突き放したんだ。僕は今でも、それを悔やんでいる」
 要の苦悩に満ちた顔を、莉緒は茫然と眺めていた。
 要が玲を拒んだ瞬間、二人の間には恐ろしく深い亀裂が生じたのだろう。

 幼なじみが助けを求めているのに、それを拒否せざるを得なかった要。

 信頼していた幼なじみに受け入れてもらえなかった玲。

 その時の衝撃は、一体どちらがより大きかったのだろう?

 どちらにせよ、両者が互いを避けなければならないほどの精神的ダメージを受けたことに変わりはない。
 五年前の忌まわしい夜、二人の心は完全に擦れ違ってしまった。
 要も玲もそのことを後悔しているのに、修復する術を知らないように見受けられる。五年という歳月が、彼らの間を更に大きく裂いてしまったのかもしれない。
「あの時、僕は何も知らない子供だった。けれど、今なら解る。僕は間違ってたんだ」
 要がまた泣き出しそうな顔で心情を吐露する。彼の顔に滲む強い悔恨の色が痛々しかった。
 玲は殺人鬼だから近づくな、と莉緒に忠告しておきながら、彼は心の奥底では幼なじみが殺人犯ではないと信じているのだ。
「過ちに気づいたのなら、素直にそれを打ち明けて、仲直りすればいいんじゃない?」
「やり直せるなら、五年前のあの日に戻りたいよ。僕だけは何があっても玲を信じるべきだったんだ。他の誰もが玲を悪し様に罵り、化け物扱いしても、僕だけは玲の味方でいなければならなかったのに……」
 自虐的な笑みが要の口元に浮かぶ。
 要の言葉を聞きながら、莉緒は脳裏に神栖玲の姿を描いていた。
 窓際に佇む玲の彫刻めいた美しい横顔。他者をはね除けるように冷たい輝きを放つ蒼い双眸。
 そこに見え隠れしていたのは、孤独の影だったのかもしれない。
 肉親である倫太郎に疎まれ、村人からも忌み嫌われている玲。
 この村に玲の居場所はない。
 唯一の心の拠り所であった要にも突き放され、彼は今、本当に独りなのだ。
 要はそれを知悉しているから、今更のように過去を悔やんでいるのだろう。
 玲を独りにしてしまった責任をひしひしと感じているのだ。
「過ぎ去った日々は取り戻せないけど、これから玲のためにできることはある。この村にいて危険なのは玲も同じなんだ。だから、僕は玲のために村に残る。村から玲を護るのが、僕なりの贖罪なんだ」
「緋月村って、そんなに危険な場所なの?」
 要も玲も詳細は語ってくれないが、頻りに緋月村が危険だと仄めかす。
 だが、莉緒には長閑な山村のどこに身の危険を感じさせるようなものが潜んでいるのか、全く解らない。
「時折、この村はおかしくなる。普段の呑気さが嘘のように荒れ狂う時があるんだ。でも、蕪木さんは知らない方がいいよ。知っても、いいことなんて一つもない。知らないなら、知らないまま村を出た方がいいんだ」
 要はやけに強い口調で告げ、唇を引き結んだ。
 莉緒に向けられた表情は険しい。村の秘密を暴露することを頑なに拒んでいた。裏を返すと、簡単に語ることはできないほどの大きな秘密が村には眠っているということだ。
「でも、危険なんでしょう?」
 莉緒が猜疑の眼差しを向けると、要は慌てて笑顔を取り繕った。
「危険というか、馬鹿げた村なんだ。こんな村、早く出て行った方がいい。僕も高校を卒業したら出て行くつもりだよ」
 無理に明るく振る舞っているような調子で告げ、要はもう一度微笑んだ。
「じゃあ、もう帰るよ。――また明日ね」
 一方的に別れを告げると、要は素早く身を翻した。
 莉緒に引き止める隙を与えまい、というように敏捷な足取りで去ってゆく。不自然なほど強い歩調だ。
 莉緒は、東へと続く道を足早に進む要の背中を釈然としない面持ちで眺めていた。
 要や玲の言葉は謎ばかりだ。莉緒の理解の範疇を越えている。村の秘事を隠すくせに『村から出て行け』と忠告する少年たちの真意が掴めない。
 ――葬列を見てから、変なことばかり。
 莉緒は溜息を落とした。
 白い葬列を目撃した辺りから、何かがおかしい。
 村全体が微妙に変わりつつあるような気がする。
 村人たちはその変化に気づいているだろうに、莉緒に対してはそれを隠し通そうとする。
「余所者だから――か」
 不意に疎外感を覚えて、莉緒は唇を歪めた。
 吸血鬼伝説や殺人鬼アサについても、村人たちは曖昧に言葉を濁した。それは全て、莉緒が外界からやってきた闖入者だということに起因するのだろう。
 余所者には軽々しく情報を洩らせない、という嫌な雰囲気を今日一日で随分と味わった。
「けど、余所者でも知る権利はあるわ」
 胸に生じた寂しさと戸惑いを打ち消すために、莉緒は大きくかぶりを振った。
 水面下で何が起こっているのか知らないが、村に変化が訪れていることだけは確かだ。
 葬儀参列者の奇妙な言動も、診療所で屯していた老人たちの怯えも、村に立ちこめ始めた不穏な気配を敏感に察知してのことなのだろう。
 莉緒一人を除け者にして、村は良くない方向へ進もうとしている。
「要くんが殺されるって、どういうこと? 神栖くんは本当にお母さんを殺したの?」
 吸血鬼伝説の真偽を調べに来たはずなのに、神栖玲と出逢ったことによって、気づけば図書室へ来る前よりも疑問が増えている。
 莉緒は要の姿が薄闇に溶け込んだのを見届けてから、身を反転させた。
 転瞬、ビクリと身体を震わせる。
 莉緒は物凄い勢いで東の方角を振り返った。
 濃い群青色に染められた空を仰ぐ。
 天空には満月に近い月が浮かんでいた。
 その月が赤っぽい光を発している。

 月が紅くなると吸血鬼が現れて村人を襲う。

 唐突に、父の語った吸血鬼伝説が脳裏に甦ってきた。
 莉緒はしばしその場に佇み、睨むように月を見上げた。
 闇が深まるにつれ、月は徐々に赤味を増してゆく。
 赤光を放つ月を目の当たりにして、莉緒は訳もなくぞっとした。
 背筋に悪寒が走り、恐怖と焦燥が身体の芯からじわじわと這い上がってくる。
 村に残された不気味な吸血鬼伝説は真実なのではないか、という疑念が湧いてくる。事実だと信じてしまいそうなほど、夜空に浮かぶ月は伝説に忠実だ。
 言い表しようのない恐ろしさを感じて、莉緒は踵を返した。
 北へと続く道を脱兎の如く駆ける。
 村を照らす月は、血のように紅かった。



     「四.須玖里家」へ続く



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Sun
2009.07.26[22:59]
四.須玖里家



 夜が深まるにつれて、村は静寂の海に呑まれてゆく。
 蕪木莉緒は、二階にある自室の窓から闇に覆われた村を眺めていた。
 暗闇の中に、街灯の光と民家から洩れる明かりがポツポツと浮かび上がっている。
 疎らな人家の照明は、夜の闇に塗りつぶされるようにして徐々に姿を消していた。
 光点が一つ消失するごとに、村は寂寞としてゆく。
 既にお馴染みとなった村の夜景を見つめ、莉緒は小さな溜息を落とした。
 世界を包む静けさに反発するように、時を刻む秒針の音だけがやけにはっきりと響いている。
 ふと壁にかけた時計に視線を投げると、文字盤はちょうど午前零時を示していた。
 窓外に視線を戻す。
 中天近くに浮かぶ月に自然と目が行った。
 月は仄かに紅く色づいている。
 だが、夕方目にした時のような禍々しさはない。
 あの時、『鮮血のようで怖い』と怯えた自分が何だか急に馬鹿らしく思えてきた。
「さてと、どうしたものかしらね」
 もう一度溜息をつき、莉緒は手元に視線を落とした。
 片手に握っているのは、神栖玲に押しつけられた一枚の紙だ。
 ジーンズのポケットから取り出したものの、莉緒は折り畳まれた紙を中々開けずにいた。
 エキセントリックな玲の考えることは解らない。
 この紙を初対面の莉緒に授けたことも不思議だが、それ以上の謎が紙面には描かれているような気がしてならない。玲から渡されたというだけで、突拍子もないことが記されているに違いない、という奇妙な先入観もあった。
 しかし、いつまでも開かないわけにはいかない。
 玲は見てほしいからこれを託したのだろうし、莉緒にも人並みの好奇心はある。
「ラブレターじゃないことだけは確かね」
 苦笑混じりに呟き、莉緒は意を決して紙を開いた。
 紙面にザッと目を通す。
「何よ、これ」
 視線を紙面に据えたまま、莉緒はあんぐりと口を開けた。
 神栖玲から受け取ったものは、やはり不可解としか言い様がない代物だった。
 紙面をびっしりと埋め尽くしているのは、須玖里家の家系図――要から遡ること七代前の人名まで明記されている。
 紙が変色していないことから、ごく最近記されたものであることが窺える。玲が作成したのだろう。
 そこまでは解るが、なぜ彼がそれを莉緒に差し出したのかは依然として不明である。
「あっ、アサの名前がある。ってことは、江戸末期からの家系図なのね。凄いというか、こんなに綿密に調べて何をしたかったのかしら、神栖くんは……?」
 須玖里家の系図を半ば睨むように眺めながら、莉緒は首を捻った。
 紙面上方には、『須玖里アサ』という名がしっかりと記されている。
 名前の横には養子という文字が書き加えられているが、彼の生没年は明示されていなかった。アサが緋月村にやってきたのは遙か昔のことであり、玲にもそこまで調べることは不可能だったのだろう。
 それに、大量殺人鬼であるアサは村にとって忌むべき存在だ。 彼について記述された文献などは、故意に抹消されているということも有り得る。
「アサが養子に迎え入れられてからの家系図か。何の意味があるのかしらね」
 しばしの間、須玖里家の家系図と睨めっこする。
 そして、ようやく気がついた。
「あっ……!」
 思わず小さな叫びが口から洩れる。
 家系図に奇妙な点を発見したのだ。
 随所に『須玖里要』という名前が記されている。
 同級生である須玖里要を含め、同じ名を持つ人物が二十人近くも存在しているのである。
 あまりにも『要』が多すぎる。
 須玖里家は多産家系なのか、要の前の代までは常に五人から十人の子供を授かっている。その代々の直系子孫の中に、必ず一人から二人『要』という人物が存在しているのだ。
 三代前には、十二人の子供のうち四人までもが『要』と命名されている有り様だ。
 そして全ての『要』に共通していることは、みな短命だということだ。
 生没年を見る限り、全ての『要』が三十歳を迎える前に死亡しているのである。
 莉緒の同級生である要の父親には、兄弟が六人いる。内、次男と三女に『要』という名前が与えられていた。
 次男は十八年前に二十歳で没し、三女は五年前に二十五歳で亡くなっている。
 三女の『要』に注目し、莉緒は唇を引き結んだ。
 五年前――神栖玲が実母を殺害したとされる年に、彼女は命を落としている。
 ――ああ、この人が五年前に亡くなったという要くんの叔母さんなのね。
 その事実に思い至った途端、莉緒は戦慄を感じた。
 全身が緊張に縛られる。
「嫌だ、気味が悪い」
 鼓動が次第に速まってゆく。
 莉緒は恐怖に引きつった顔で家系図を見下ろした。
『このまま村にいれば、要はいずれ殺される』
『五年前、要の叔母さんが亡くなった。次は要の番だ』
 神栖玲の不可思議な言葉が耳の奥で谺する。
 玲は要が殺されると断言した。
 次に殺されるのは要だと危惧していた。
「要って――殺されるために生まれてきたの?」
 玲の口振りから察するに、『要』と名付けられた人物は皆、殺害されているのだろう。
 自殺や病気や事故でもなく、何らかの方法で殺されたのだ。生命を強奪されてきたのだ。
「アサが村にやって来てから、要という名前に何か特別な意味ができたの? どうして、こんなに多くの要がいるのよ?」
 疑問ばかりが溢れてくる。
 莉緒は震える手で家系図を握り締めると、やにわに部屋を飛び出した。
 要が殺されなければならない理由を知りたい。
 自分はそれを解明しなければならないのだ、という使命感のようなものが莉緒の胸には芽生え始めていた。


     *



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Mon
2009.07.27[22:13]
 蕪木亮介の姿は一階のリビングにあった。
 独身のせいか実年齢よりも若々しく見える叔父は、テレビの前に座り、深夜のニュース番組を眺めていた。
 莉緒が勢いよくリビングに飛び込むと、亮介は驚いたようにテレビから目を離した。
 莉緒を見上げ、数度瞬きを繰り返す。
「おい、何をそんなに怒ってるんだ?」
 亮介が不思議そうに小首を傾げる。
 莉緒の形相には鬼気迫るものがあったのだろう。
「怒ってなんかいないわ。教えてほしいことがあるの」
 莉緒は素早く亮介の誤解を訂正し、須玖里家の系図を彼の眼前に差し出した。
 村人たちは全員、村に纏わる秘密を知悉しているのだ。
 知っていながら誰もが莉緒に対しては言葉を濁す。瑞穂や要でさえ、一番肝心な部分を明かそうとはしてくれない。
 そうなると、頼れるのはもう亮介しかいなかった。
 唯一の肉親である亮介までもが自分を欺いたりするとは思いたくない。
「それは……どこで手に入れたんだ?」
 亮介は瞬きもせずに家系図を見つめ、掠れた声で尋ねてきた。
「神栖くんがくれたのよ」
「玲くんに逢ったのか」
 ようやく瞬きをし、亮介は諦観したように深い溜息をついた。
「わたし、今日一日で随分と多くの疑問に出会したわ。瑞穂も要くんもお婆さんたちも、いつもと何か違うの。みんな、わたしだけに隠し事をしてるみたいで嫌なのよ。金井さんの葬儀に参列している人に言われたわ。余所者が居座っているせいで月が狂った、そのせいで金井さんは亡くなったんだって。――わたしのせいなの? わたしが外の世界から来たから、金井さんは死んだの?」
 莉緒は畳みかけるように言葉を連ねた。
 喋っているうちに一日の出来事が甦ってきて、自然と口調が厳しくなってしまう。
「金井のことは、莉緒には関係ない。大体、おまえは房雄に逢ったこともないだろう。葬儀に参列した人たちは、大切な者を奪われて哀しみに打ちひしがれていただけだ。物凄く理不尽だけど、愛する者の死を誰かのせいにしてしまいたかったんだよ、きっと」
 激白した莉緒を痛々しげに見つめ、亮介が穏やかに言葉を紡ぐ。
 叔父の声音には、莉緒に対する非難は微塵も含まれていなかった。それどころ愛情に満ちている。亮介は、村の異変に莉緒は無関係だと明言してくれたのだ。
「ごめんなさい。解らないことだらけで、頭が混乱してるの」
 莉緒は素直に謝罪した。
 亮介に八つ当たりしても仕方がない。村人たちの秘密主義に対する苛立ちやもどかしさを彼にぶつけたところで、何の解決にもなりはしないのだ。
 莉緒は心を落ち着けるために亮介の傍に座り、深呼吸した。
 正面から叔父を見据え、改めて須玖里家の系図を差し出す。
「教えて。どうして、須玖里家にはこんなに要という人物が存在しているの?」
 単刀直入に訊くと、亮介は気まずそうに莉緒から視線を逸らした。
 忙しない視線が系図の描かれた紙面を走る。
 これほど動揺を露わにする亮介を莉緒は初めて見た。
「莉緒は要くんと同級生だったね……。要くんには兄弟がいないから、彼が全てを背負わざるを得ない。可哀相だけど、それが須玖里に生まれた者の宿命だ」
 悄然とした呟きが亮介の口から洩れる。
 莉緒はその言葉の不可解さに眉をひそめた。
「宿命って、どういうこと?」
「遙かな昔、アサが殺人鬼と化した瞬間から須玖里家にはある責務が課せられたんだ」
「アサの祟りを鎮めるために、彼と懇意にしていた須玖里家が神主として彼の魂を供養し続けてきたことでしょう。それが、そんなに重大で深刻な問題だとは思えないけれど? 祟りがあるなんて信じられないもん。叔父さんは本気でアサの祟りを信じてるの?」
「……信じてない。村人たちは祟りと呼ぶけれど、実際に祟りがあるわけじゃないんだ。祟りじゃないことは誰もが知っている」
 亮介がゆるりと顔を上げる。
 苦悩に満ちた眼差しが、ひたと莉緒を見つめた。
「祟りよりも恐ろしいことが、この村では当たり前のように起こっているんだ。幕末から現代まで、何度も何度も繰り返し……。突発的に、だが確実にその悲劇は訪れる」
 亮介の言葉はあまりにも抽象的すぎて、莉緒には何を示唆しているのか理解できなかった。怪訝な面持ちで亮介を見返す。
「須玖里家の本来の役目は神主なんかじゃない。真の役割は、アサを監視し、彼を封じ込めておくことなんだよ」
「えっ、何それ? アサは百五十年も前に死んでるじゃない!」
 莉緒は呆気に取られながらも質問を繰り出した。
 殺人鬼アサは疾うに死亡している。
 なのに亮介は、まるでアサが生きているかのように喋っているのだ。
「須玖里家の《要》というのは名前じゃない。印につけられた呼称にすぎないんだよ」
 莉緒の疑問を無視するようにして、亮介は更に言葉を紡ぐ。
「名前じゃなければ、何だっていうのよ?」
 気難しい顔をした亮介に、莉緒はまた疑問を投げつけた。
 亮介は莉緒を見返したまま、何かに耐えるように口を噤んでいる。

 気まずい沈黙がリビングに訪れかけた時、遠くで電話のベルが鳴り響いた。



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Mon
2009.07.27[22:59]
「病院の方だな」
 亮介が慌てて立ち上がる。表情は厳しく引き締まっていた。
 彼は『ちょっと行ってくる』と言い残し、リビングを後にした。
 莉緒には亮介を引き止めることはできなかった。
 真夜中に鳴り響く電話――殊に診療所にかかってくる電話は不吉だ。
 その殆どが、急病人か死亡者が出た時の報せだ。
 だから亮介は、深刻な顔つきで診療所へ向かったのだ。
 五分ほどして亮介が戻ってきた時、彼は芳しくない表情を湛えていた。
「南で畠山の奥さんが亡くなった。これから行ってくるよ」
 陰鬱な声で亮介は告げる。
 見ると、彼の片手には往診用の大きな鞄が握られていた。
「こんな夜中に?」
「村で死亡診断書を書けるのは俺だけだし、それが俺の仕事だからね」
 懸念たっぷりの莉緒の視線を受けて、亮介は微苦笑を浮かべた。
「悪いね、莉緒。話の続きは明日にしよう。今夜は、そんな余裕はないみたいだ」
「ううん。わたしのことはいいの」
 莉緒は慌てて首を横に振った。
 須玖里家やアサのことは気になるが、亮介の仕事の邪魔はできない。
 何より、人が亡くなっているのだ。そちらの方が莉緒の好奇心や詮索より重要で重大だ。
「気をつけてね、叔父さん」
 莉緒は玄関へ向かう亮介の後を追った。
 亮介は玄関で靴に足を突っ込み、靴箱の上に無造作に置かれている自動車のキーを掴むと、真剣な面持ちで莉緒を振り返った。
「しっかり戸締まりしておくんだぞ。絶対に外に出るなよ」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。もう寝るだけだもん」
 心配性の叔父に莉緒は微笑んでみせた。
 亮介が軽く頷き、玄関のドアを開けて外へ出る。
 ドアを閉めかけて、ふっと彼は動きを止めた。
「兄貴と莉津子さんは正しかった」
 亮介が苦毒を呑み干したような沈鬱な顔で莉緒を顧みる。
「どうしたの、急に?」
 莉緒は目を丸めた。
 叔父が神栖玲と同じ台詞を吐いたことに驚いたのだ。
「莉津子さんは研究のために頻繁に村を訪れていた。そして、村に隠された秘密を知ってしまったんだ。だから彼女は十八年前、兄貴を村から連れ出した。莉津子さんの迅速な行動も兄貴の選択も――正しかった」
「神栖くんもそう言ってたわ。ママが知った秘密って、そんなに大変なものなの?」
「大変どころの話じゃない。天の理に反してさえいる。――アサは生きてるんだ。間違いなく、今も緋月村で生き続けている。その証拠が、玲くんだ」
「アサが生きてるなんて有り得ないし、神栖くんがアサの生存証明になるのなんて到底理解できないわよ」
 莉緒は思わず責めるような視線を亮介に送ってしまった。医者である亮介が、そんな荒唐無稽な話をするなんて信じられない。
「それも帰ってきてから説明するよ。とにかく、アサは生きている。だから、絶対に外には出るな。もし誰かが訪ねてきても、決してドアを開けてはいけないよ」
 早口で告げると、亮介は莉緒の追及を振り切るように乱暴にドアを閉めた。外からドアに鍵がかけられる音が響く。
「ちょっと待ってよ、叔父さん!」
 莉緒は慌てて玄関に飛び降り、内側からドアロックを外した。
 だが、莉緒がドアから外を覗いた時、亮介は既に車に乗り込み、エンジンを吹かせていた。
「叔父さんの言ってるアサって、一体誰のことなのよっ!?」
 叫びは自動車のエンジン音に虚しく掻き消される。
 目の前を亮介が運転する自動車が駆け抜けて行った。
「行っちゃった……」
 焦る莉緒を嘲笑うように遠ざかってゆくテールランプを眺め、肩を聳やかす。
 人間の足で自動車に追いつけるはずもない。
 莉緒は素直に諦め、玄関へと踵を返した。
 その瞬間、視界の端を何かがよぎった。
「――えっ?」
 反射的に振り返る。
 黒い影が街灯の少ない道路に躍り出るのを目撃した。
 ――人間? 誰なの?
 その不気味な黒い影は、亮介の車の後を跳ねるようにして追っている。
 物凄い速度だ。
 人間だと思ったのは目の錯覚なのだろう。
 人があれほど速く走れるわけがない。
 山から迷い出てきた鹿か何かに違いない。
「動物……よね? でも、気味が悪いわ。まるで叔父さんの後をつけてるみたい」
 車のテールランプに興味でも惹かれたのか、黒い影は亮介の車と同じ方向に駆け続けている。
 やがて、その姿も闇夜に溶け込んで肉眼では捕らえられなくなった。
 莉緒は薄気味悪さに身を震わせると、己の不吉な発言を払拭するように大股で家へと引き返した。


 亮介の忠告通りに玄関に施錠し、リビングへと戻る。
 テーブルの上に広がる須玖里家の系図を眺め、莉緒は深い溜息を落とした。
 結局、亮介から詳細な情報を引き出すことができなかった。
 得られたのは、『アサは生きている』という突拍子もない言葉だけだ。
「江戸時代からアサが生きてるなんて、誰も信じやしないわよ」
 仮にアサが村人たちから逃れ、生命を長らえたとしても、幕末から二十一世紀の今日まで存命だとは考えられない。
 当時、彼が二十代の青年だったとしても、生きていれば百六十から百七十歳という計算になってしまう。そんな長寿などギネスブックにも載ってはいないだろう。そもそも昔の人間は現代人より寿命が短いのだ。
 江戸時代に生まれたアサが、今現在生きている可能性は限りなくゼロに近い。
「神栖くんがアサの生存を証明しているっていうのも、納得できないわよね」
 亮介は五年前に起こった神栖蘭殺害事件を知っているに違いない。
 それを踏まえて、玲がアサと同じ殺人鬼であることを仄めかしたのだろうか?
 玲がアサと同じ残虐な魂を持つ殺人者であることを強調したかったのだろうか……。

『緋月村には化け物が棲んでる――それが俺だ』

 玲の自嘲気味な言葉が甦ってくる。
 同時に要の泣きそうな表情が脳裏に浮かんだ。

『今なら解る。僕は間違ってたんだ』

 悔恨に満ちた要の声を思い出すと胸が痛んだ。
「瑞穂は、ずっとこんな気持ちを抱えていたのかな」
 ふと、闊達な友人のことが心配になった。
 小さな村の中で姉弟のように育った三人。
 五年前に擦れ違ってしまった二人の少年のことを、瑞穂は誰よりも案じているに違いない。
 ――三人のために、わたしができることは何だろう?
 必死に頭を働かせてみるが、これといった妙案は思いつかない。
 そんな自分に不甲斐なさを覚えながら、莉緒はリビングの照明を消し、二階の自室へと身を移した。
「神栖くんは化け物なんかじゃないわ」
 あの美しい少年が殺人鬼だとは思いたくない。
 宝石のような蒼い双眸には、一点の曇りもなかった。
 気高く澄んだ瞳には、殺人者の片鱗など全く見出せなかったのだ。
「村に眠る謎を解けば、みんな苦痛から解放されるのかしら?」
 莉緒は自問の呟きを唇に乗せ、窓際へと歩み寄った。
 とりあえず、今日できることは何もない。
 明日、亮介から詳しい話を聞いて、自分が何をすべきかじっくりと考えるしかないのだ。
 今夜は大人しく寝よう。
 カーテンに手をかける。
 無意識に視線が夜空へと向いた。
 気のせいか、月は先刻よりも赤味を増しているように見えた。


     「五.蒼月」へ続く



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Tue
2009.07.28[22:59]
五.蒼月



 受話器を持つ祖父の手が震えた。
 祖父の背に緊張が走り、送話口に向けられた声が渋みを増す。
 坂瑞穂は眉間に皺を寄せ、電話台の前に立つ祖父の後ろ姿を見つめていた。
 つい先ほど、居間で電話のベルが鳴り響いた。
 真夜中の電話を不愉快に思いながらも、瑞穂は読書を中断させて渋々とベッドを抜け出してきたのだ。そして居間へ到着した時、祖父の源二とばったり鉢合わせしたのである。
 源二は瑞穂よりも先に電話台に歩み寄り、受話器を取り上げた。
 誰からの電話か知らないが、内容は芳しくないものであるらしい。受話器に向けられた源二の声は、低く険しい。
「畠山の奥さんがな……。これで二人目か」
 そう呟いた直後、源二の全身を緊張感が包んだのである。
 ――訃報だ。
 そうと察した瞬間、瑞穂は思わず源二の背に鋭い視線を浴びせていた。

 村で死亡者が出た。

 それ以上に不吉なものを『これで二人目か』という源二の言葉に感じた。
 二人――西の金井房雄を入れて二人目の死者だということだ。
 昼間に出会した白い葬列を思い出し、瑞穂は沈鬱な気分に陥った。
 ――二人目の犠牲者が出てしまった。
 焦りと苛立ちが胸に込み上げてくる。
 これ以降も死人が続出すれば、間違いなく要は殺される。
 そして、玲にも何らかの報復がなされるだろう。
 瑞穂は幼なじみ二人の境遇に胸を痛ませ、彼らを失った時の恐怖に戦かずにはいられなかった。
 この村は、二人の少年にとってあまりにも非情すぎる。
 村のどこにも要と玲の居場所など在りはしないのだ。
 ――要と玲を殺させたりはしない。
 瑞穂は源二の背を見据えたまま、両の拳を握り締めた。
 ほぼ同時に源二が受話器を置き、こちらを振り返る。
「南で畠山の澄江さんが亡くなったそうだ」
 祖父の視線は瑞穂ではなく、その隣に向けられていた。
 瑞穂がハッと首を横に向けると、いつの間に起きてきたのか両親の姿があった。
「東では武田の聡子ちゃんが行方不明らしい。こちらも絶望的だろう。明日の夜、須要の山で祟り鎮めの祈祷をすることになった」
 源二が抑揚のない口調で宣告する。
 両親が無言で頷くのを見て、瑞穂は無性に腹が立った。
 睨めつけるような視線を送ると、父と母は慌てて顔を背けた。瑞穂の非難から逃れるように父が母の肩を抱き、寝室へと戻ってゆく。
「何で……簡単に頷けるかな? どうして、そんなに素直に受け入れられるんだよ!」
 頼りない両親の後ろ姿を見つめ、瑞穂は吐き捨てた。
 胸を占めていた焦燥は、逃げる両親を目にした途端に憤りへと変わっていた。
「あたしは認めない。絶対に認めない――祟り鎮めなんてさせやしない」
「瑞穂、仕方のないことなんだよ。村長が明日だと決めたんだし、これ以上死者を出すわけにもいかない」
 源二が瑞穂を宥めるように、そっと肩に手を置く。
 しかし、源二の言葉に瑞穂の心が慰められることはなかった。かえって怒りを増幅させただけだ。
「仕方ない? 何でも祟りのせいにすればいいなんて、どう考えてもおかしいだろ」
 瑞穂は邪険に源二の手を払い、怒りに燃える眼差しで彼を見返した。
「祟りなんかじゃないことは、みんな知ってるくせに。どうして誰も立ち向かわない? 誰も闘おうとしないから、今までずるずると犠牲者を出し続けてるんだよ」
「誰も勝てんのだよ。奴は不死身だ」
「成す術がないから、全部須玖里に――要に責任を押しつけるわけだ。勝手だよ。理不尽だ。どうして要だけが村の犠牲にならなきゃいけない!」
 瑞穂は怒りのままに声を荒げた。
 源二に八つ当たりしても何の解決にもならないことは解っているが、喚き散らさずにはいられなかった。悔しさに涙が込み上げてくる。
「死んでいるのは、須玖里の要だけじゃない。何人もの村人が奴の毒牙にかけられてきた」
 源二が嗄れた声で呟く。
 瑞穂は目頭に溜まった涙を手で拭い、深呼吸をした。
 源二に罪があるわけではない。村人たちが何の対処もしてこなかったわけでもない。
 ただ、降りかかる災厄が大きすぎて、村の力ではもうどうすることもできないだけだ。
 瑞穂は心を落ち着かせるために目を瞑った。
 瞼の裏に大切な幼なじみの姿が浮かぶ。
 ――誰も頼りにならない。あたしが要と玲を護るしかない。
 強い想いが胸に芽生えてくる。
「誰もやらないなら、あたしがやる」
 瑞穂は瞼を押し上げ、決意に漲る眼差しを源二に向けた。
 源二の顔に衝撃が走る。
 孫娘に対する非難と愛情が、源二の目の中で交錯した。
「……おまえに何ができるというんだ?」
「何ができるか解らないし、何もできないかもしれない。だけど、あたしは闘える。要と玲のためなら喜んで闘う。――お祖父ちゃん、お願い。あたしに蔵の鍵を貸して下さい」
 瑞穂は真摯に源二を見つめ、片手を祖父へ向けて差し出した。
 坂家の裏庭には石造りの蔵がある。その中に、瑞穂が今一番欲しているものがあった。
 だが、蔵を開けるには源二が管理する鍵が必要だ。何としてでも源二から蔵の鍵を貰わなければならない。
「五年前、あたしはまだ子供で、村の狂気を茫然と眺めていることしかできなかった。要と玲の力になってあげることすらできなかった。もう二度と……あんな想いはしたくない。あたしには、二人が殺されるのを黙って見ているなんて無理なんだ」
 瑞穂は必死に言葉を繰り出した。
 緋月村という閉ざされた世界で、十七年間生きてきた。
 数少ない同級生たちはみな兄弟のようなものだ。
 その中でも要と玲は掛け替えのない存在だった。
 彼らを見捨てることなど、瑞穂には到底できない。
「二人を救うためなら生命を懸けてもいい」
「おまえに剣を教えたのが間違いだったかな」
「間違いなんかじゃない。お祖父ちゃんは村の惨状を憂いていたからこそ、あたしに刀を持たせてくれた。――そうだろ?」
 坂家には代々伝わる独自の剣術が存在していた。
 幕末に村を殺人鬼アサの魔手から救ったとされる坂龍之介――彼から受け継いできた剣術を源二は瑞穂に剣術を叩き込んだのだ。
 元々運動神経のよかった瑞穂は、源二の剣術指南を受けて腕を確実に磨いてきた。
「誰かがやらなければ、これからも死者が増え続けるだけだ。……お祖父ちゃん、どうかあたしに要と玲を護らせて下さい」
 一言一言を噛み締めるように音に成し、瑞穂は嘆願した。
 短い沈黙の後、源二が深い溜息を落とす。彼は首にかかる紐を手で外すと、瑞穂の目の前に突き出した。
 垂れ下がった紐の先で、鈍色に輝く物体が揺れている――蔵の鍵だ。
「親しい者が要だったなら、わしも同じことを考えたかもしれん。いや、そうじゃなくても、わしは刀を取るべきだったんだろう。……今更悔いても、言い訳にしかならんがな」
 源二が微かな自嘲を含ませて言葉を紡ぐ。
「蔵の中の物はいつでも使えるように手入れしてある。瑞穂の好きなようにしなさい」
 静かな声音で告げ、源二は瑞穂の掌に蔵の鍵を乗せた。
 彼は柔らかい笑顔を瑞穂に向けると、ゆっくりと踵を返した。
「……ありがとう」
 立ち去る源二の背に向け、瑞穂は心からの謝辞を述べた。
 源二が振り向かずに片手を挙げる。
 その細い肩が僅かに震えていることに気づき、瑞穂は急にいたたまれなくなった。
 優しく頼もしい祖父に涙を流させてしまったことが、とてつもなく心苦しい。
「ありがとう、お祖父ちゃん」
 瑞穂は鍵を強く握り締め、祖父の背に向かって深々と頭を垂れた。



 扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出してきた。
 石造りの蔵の中は、季節を問わず常に低温を保っている。
 瑞穂は蔵に足を踏み入れると、手探りで内壁にある照明スイッチを押した。
 光が灯った瞬間、視界に飛び込んできたのは磨き上げられた床板だった。
 坂家の蔵は、一般的に思い描くような蔵とは少しばかり様相が異なる。『蔵』と呼んではいるものの、その実体は道場なのである。
 瑞穂は靴を脱ぎ、一段高くなっている床板の上に乗り上がった。
 一礼した後、迷いのない足取りで道場を突っ切る。
 蔵の最奥に達したところで歩を止めた。
 目前の壁には、幾つもの日本刀が飾られている。全てが真剣だ。
 瑞穂はその中から躊躇することなく一振りの日本刀を選び、掴み取った。
 江戸末期から高坂家に伝わる剣――坂龍之介の愛刀《蒼月》だ。
 刀身に刻まれた蒼月(そうげつ)という銘を初めて見た時、瑞穂は幼いながらに『これは、あたしの刀だ』と妙な確信を抱いた。
 緋月村に残る吸血鬼伝説。
 その中に出てくる『紅い月』に対抗するかのように蒼月と名づけられた刀。
 ただそれだけのことで、瑞穂は蒼月を愛用してきた。
 いつか、この蒼月が紅い月に呪縛された村と人々を解き放ってくれるのではないか、と期待を込めながら……。
「今が、その刻だ。あたしと一緒に闘おう、蒼月」
 瑠璃色に装飾された鞘を指で一撫でしてから、瑞穂は静かに踵を返した。



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Wed
2009.07.29[22:59]
 夜の外気に異変が生じた。
 感覚の鋭い瑞穂には、はっきりとそれを捉えることができた。
 夜の闇に紛れて何かが動いている。それも物凄い速度で。
 瑞穂は蒼月を小脇に抱え、手早く蔵の扉を施錠した。
 鍵のついた紐を首にかけ、蒼月を左手に持ち直す。
 自然と心が引き締まった。
 剣術を学ぶのと平行して鍛えられていった第六感が『危険だ』と警戒信号を発している。
 山村の静かな夜。普段なら人々は寝静まっている時間帯だ。
 それなのに急に空気が動き出した。
 異様な気配を孕んだ冷気が流れている。
 瑞穂は右手で蒼月の柄を握り、慎重に周囲を見回した。夜目には自信がある。
 闇の中、隣家の庭に植えられた木々が微かに揺らめいている。
 その奥――遠くの空に、真円に近い月が浮かんでいた。
 憎たらしいことに月は紅く輝いていた。
 視界に入ってきた月を見て、瑞穂は我知らず舌打ちを鳴らしていた。
 最大限の嫌悪と忌々しさを双眸に込めて、月を睨む。
 転瞬、間近でガサガサッと派手な物音がした。
 瑞穂はハッと息を呑み、慌てて音のした方へ視線を向けた。
 隣家の植木が大きく揺れ動いている。何かが隣家の庭に侵入し、木々を揺さぶっているのだ。
 ――鬼が来た。
 瑞穂は全身から冷たい汗が噴き出すのを感じた。
 純粋な恐怖が身体を強張らせる。
 だが、それに負けじと瑞穂は唇を噛み締め、鋭い眼差しで揺れる木を射た。
 その瞬間、一本の木が大きくしなった。
 木の枝を踏み台にして、何かが跳んだのだ。
 黄金色の輝きが闇夜を駆ける。
 その魅惑的な輝きと驚異的な跳躍力に、瑞穂はしばし目を奪われた。
 驚愕と畏怖に大きく見開いた双眸で、黄金の輝きを追う。
 金の塊は、二、三度跳躍を繰り返すとあっという間に視界から消え失せた。
 瑞穂が肉眼でそれを捕らえることができたのは僅か数秒だ。
 だが、網膜にはしっかりと人の形をした鬼の姿が焼きついていた。
 美しい容姿で人を惑わせる悪鬼だ。
「ア……サ……」
 自分のものとは到底思えない嗄れた声が唇から滑り落ちる。
 己の呻き声で、瑞穂はようやく我に返った。全身が総毛立ち、膝がガクガクと震えている。
 たった一瞬、視界をよぎっただけの鬼に、瑞穂は底知れぬ恐怖を覚えていた。
「奴を……追わなければ」
 瑞穂は思うように力の入らぬ足を懸命に動かした。
 源二に『あたしがやる』と豪語したくせに、いざ敵の姿を見ると怖じ気づいてしまった自分が情けない。
 早く追わなければ逃げられてしまう。
 もう二度と敵を捕まえることはできないかもしれない。
 敵の姿を目視できたこと自体、奇蹟に近いのだ。
 このチャンスを逃してはならない。今を逃せば、次に敵が目醒めるまで何年、何十年かかるのか解らないのだから。
「行くよ、蒼月」
 愛刀に語りかけることで己を奮い立たせ、瑞穂は地を蹴った。
 だが、数歩進んだところで、
「蒼月なんか持ち出して、どこに行く気だよ?」
 突然、背後から声が飛んできた。


「――玲?」
 瑞穂は足を止め、勢いよく振り返った。
 いつの間に坂家の敷地に侵入してきたのか、蔵の傍に白い人影が浮かび上がっていた。
「鬼殺しの名刀を持っていても、あいつに追いつけなきゃ意味がないだろ」
 物憂げな表情で瑞穂を見つめているのは、紛れもなく神栖玲だった。
 半年ぶりに姿を現した幼なじみを見て、瑞穂は大きな安堵を覚えた。
 玲の顔を確認した途端、双眸に涙が込み上げてくる。
「もう……逢えないかと思った。しばらく姿が見えなかったから、村長に殺されたんじゃないか――って、気が気じゃなかった」
「残念ながら、まだ生きてる」
 玲が自嘲気味に唇の端を吊り上げ、肩を竦めてみせる。
「よかった。ホントによかった」
 瑞穂は嬉しさのあまり玲に駆け寄ろうとした。
 瞬時、玲がハッとしたように後ずさる。
「駄目だ。それ以上、近づくな」
 玲の鋭い声。
 瑞穂が足を止めて驚きの眼差しを向けると、彼は苦痛に耐えるかのようにきつく眉根を寄せていた。
 そこで瑞穂は、玲の身に纏わりつく不吉な匂いにようやく気がついた。夜風に乗って、錆びた鉄のような匂いが漂っている。
 血の匂いだ。
 目を凝らすと、玲の白いシャツが半分ほど朱色に染まっているのが判った。右肩から腰の辺りまで血に濡れている。
「……怪我をしてるのか?」
「大したことない。すぐに治る」
「あいつにやられたんだろ?」
「今夜こそ仕留めようと思ったんだけどな。返り討ちにあったうえに逃げられた」
 玲が皮肉げに唇を歪める。
 玲は、あの黄金色の悪鬼を追って、ここまでやって来たらしい。
 追跡途中、蒼月片手に家を飛び出そうとした瑞穂を見かけて、やむを得ず予定を変更させたのだろう。
「酷い傷なのか、玲。だから、血に飢えて――」
「血の話はするな。怪我は直に治るし、解ってるなら傍に来るな」
 玲が押し殺した声音で懇願する。
 瑞穂は素直に頷き、蒼月を握る手を緩めた。
 玲を相手に刀を構えても仕方ないし、これ以上彼に接近する気もなかった。近づくことは、負傷した玲に更なる苦痛を与えることになる。
「畠山の奥さんが亡くなった。あいつの仕業か?」
 瑞穂は目の縁に溜まった涙を指で拭うと、素早く話題を転換させた。
 一定の距離を保っている限り、玲はこの場から――瑞穂から逃げ出したりはしない。久方振りの再会を手放しで喜べないのは残念だが、少しでも長く玲の存在を身近に感じていたかった。
「あいつが殺した」
「武田の聡子ちゃんもか? あの子、まだ中学生だった……」
 瑞穂は歯切れ悪く呟いた。
 東に住む武田聡子とは特別親しい仲ではないが、自分と同年代の少女の生命が強奪されるのは辛いし哀しい。激しい憤りすら覚える。彼女は気儘な殺人鬼に若い生命をもぎ取られたのだ。
 許されるべきことではない。
 だが、その許されざる凶行が、この村では幕末から延々と繰り返されてきたのだ。
 やはり諸悪の根源は絶つべきだ――と、瑞穂は改めて強く想った。
「武田の方もあいつの仕業だろうな。そっちは現場も遺体も見てないけど。あいつ、今夜は派手に獲物を漁ってるらしい。さっきは蕪木先生の車を追ってたしな」
「蕪木先生?」
 瑞穂は思考を中断させ、顔を上げた。
 蕪木亮介の姪――莉緒の顔が脳裏に浮かぶ。
 都会からやってきた心に傷を持つ少女。
 最近、ようやくクラスにも馴染んできた。徐々にではあるが瑞穂に心を開いてくれるようにもなった。その友人に、殺人鬼の魔手が伸びているのではないか、と咄嗟に危惧したのだ。
「多分、先生は畠山家に向かうところを狙われたんだろうな。俺が邪魔したから先生に害はなかったけど」
「よかった。蕪木先生も莉緒も無事なんだね」
 瑞穂はホッと胸を撫で下ろした。自分が畏れていたようなことは起こらなかったらしい。
「――莉緒? ああ、先生のところの居候か」
「莉緒を知ってるのか?」
「今日、公民館で逢った。お節介な蕪木さん、だろ」
 莉緒と出会した時のことを思い出しているのか、玲は口元に困ったような微笑を刻んだ。
「あいつ、俺と要のことを心配するくせに村のことを何も知らないんだな。もしかして、誰も真実を話してないのか?」
「クラスのみんなは話してない。蕪木先生も教えてないと思う。あの子は行き場を失って村に流れ着いただけ。知らないなら、知らない方がいいに決まってる。……あの子、やっと笑うようになったんだ。村やあたしたちのおかげだ、って嬉しそうに笑うんだよ。そんな莉緒を奈落の底に突き落とすような真実なんて、とても打ち明けられない」
 瑞穂は渋面で言葉を紡いだ。
「莉緒は外から来た。高校を卒業したら都会に帰る人間だ。敢えて教える必要はないし、できることなら何も知らないまま村を出て行ってほしい。……あの子、どうして緋月村なんかに来たんだろ? お父さんの忠告に従って、村に足を踏み入れなければよかったのに」
 放課後、莉緒に嘘をついたことに多少の罪悪感を覚えた。
 だが、瑞穂は後悔などしていない。その方が莉緒のためだと考え、彼女が村にいる間は嘘を貫き通そうと覚悟を決めたのだ。だから、吸血鬼伝説云々については茶化すことで誤魔化した。
 玲の話から推測すると、莉緒は公民館で伝説について調べ、そこで大昔の殺人鬼アサのことを知ったはずだ。
 村に伝わる吸血鬼伝説は、アサの話から生まれたものだと信じただろう。
 その説が正しいのだと素直に信じ込んでくれれば、それでいい。
「じゃあ、余計なことしたかな」
 ふと、玲の唇から低い呟きが零れ落ちる。
「何のことだ?」
 瑞穂は怪訝な眼差しで玲を見遣った。
 その視線を避けるようにして玲が小さくかぶりを振る。
「いや、何でもない。――それより、こんな時間に女が一人で出歩くなよ。あいつを討ち取ろうなんて、馬鹿なことは考えるな。家で大人しくしてろ」
 玲の咎めるような言葉が響く。口調は冷ややかだが、そこには瑞穂を案じる気持ちがちゃんと織り込まれていた。
 玲の心遣いは有り難いし、忠告は正しい。そう思う一方で、やはり自分は何の役にも立たないのか、という不甲斐なさが込み上げてきた。己の非力さを指摘されたようで悔しい。
 そんな焦りともどかしさを玲にぶつけても仕方ないのだが、瑞穂は思わず恨みがましい眼差しを彼に注いでしまった。
「それは無理だ。明日、祟り鎮めの儀式がある」
 瑞穂が告白した瞬間、玲は軽く息を呑んだ。受けた衝撃の度合を示すように、蒼い双眸が激しく揺らめく。
「知らなかったのか?」
 瑞穂が問いかけると、玲はひどくゆっくりと頷いた。
「本当に明日なのか?」
「村長が明晩に決めたそうだ」
「あいつ……」
 玲が忌々しげに舌打ちを鳴らす。
『村長』という言葉を聞いた途端、双眸に苛烈な輝きが宿った。それは、肉親に向けられるにはあまりにも容赦のない怒りと敵愾心の顕れだった。
「村長の決定だから、もう覆らない。明日の夜、須要の山であのおぞましい儀式が行われるんだ。あたしは――要を失いたくない。要を見殺しにはできない!」
「俺だって同じ気持ちだ。だから、瑞穂は何もするな」
 瑞穂の激白を、やけに落ち着いた様子で玲が受け止める。彼の冴え冴えとした蒼い双眸が瑞穂を見据えていた。玲の瞳には他人を従え、呪縛するような魔力が込められている。ここで反論すべきなのに、瑞穂は玲に気圧され、口を開くことができなかった。
「要のことは、俺が何とかする。明日の夜までにあいつを始末する。それができるのは、俺しかいないからな。他の誰にもできないのは、瑞穂だって知ってるはずだ」
 抑揚のない声で告げ、玲がスッと後ずさる。
 深い闇の中に白い影が融け始めた。
「化け物の相手は、化け物がするしかないだろ」
 自嘲気味に吐き捨て、玲は闇に紛れるようにして忽然と消え失せた。
「玲!」
 瑞穂は慌てて玲が立っていた辺りへ駆け寄った。
 だが、玲の姿はどこにもない。さっきまで確かに立っていたはずなのに、蔵の周辺には彼が存在していたという痕跡は全くなかった。血の匂いも、微かな体臭さえも感じられない。
「玲、気をつけて」
 瑞穂は玲を探すのを諦め、悄然と呟いた。
 玲が他人より優れた身体能力の持ち主であることは熟知している。だから、彼が唐突に姿を消しても不思議はなかった。
 ただ、もう少しだけ彼と喋りたかった。
 傍にいてほしかった。
 だが、玲は自らの意志で行ってしまった。またしばらくは逢えないだろう。
 瑞穂は溜息を一つ落とすと蒼月を両腕に抱き、夜空を仰いだ。
「あたしは何を失ってもいい。だから、要と玲を助けて下さい」
 瑞穂は切実な想いを込めて言葉を紡いだ。
 祈りを捧げる対象など村にはない。
 須要神社に神はいない――村に救いがないことを知りながら、それでも瑞穂は二人の幼なじみのために祈らずにはいられなかった。
「誰か――誰でもいいから二人を護ってくれ」
 小さな村で姉弟のように育った三人なのに、今はバラバラだ。
 近くにいるはずなのに、お互いの距離がやけに遠い。
 そんな状況に寂寥感を覚えながら、瑞穂は唇を噛み締めた。
 見上げた夜空には、数多の星と月が浮かんでいる。
 瑞穂は煌々と輝く紅い月を睨めつけた。
「あんたに要と玲は渡さない。あんたなんかに二人を奪わせやしないから」
 唇の戒めを解き、ありったけの憎しみを込めて宣言する。
 刹那、瑞穂を嘲笑うかのように月が雲の影に隠れた。


     「六.悪夢」へ続く



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Thu
2009.07.30[22:59]
六.悪夢



 須玖里要は夢を見ていた。

 幼い頃の自分が闇に覆われた世界を彷徨い歩いている。
 小学生の自分を見て、要は奇妙な感覚に襲われた。
 これは夢なんだ――と頭の片隅で朧に理解していても、過去の自分がいる世界に薄気味悪さを覚える。
 闇の中を歩く幼い要は、陰鬱な目をしている。
 青白い顔が闇に浮かんでいるのが、ひどく不気味だった。
『僕は一生後悔する』
 幼い自分が懺悔のように呟く。
 現在の自分――夢を見ていると認識している要の方は、半ズボン姿の自分を漫然と眺めていた。
 ――これは僕の罪の意識が生んだ夢なのか。
 幼い自分が口ずさんだ台詞は、かつて自分が現実世界で唱えた言葉だ。
 だが一体、自分は何をそんなに悔いているのだろうか――思い出せない。
『狡いよ。知ってるくせに。思い出したくないだけじゃないか』
 不意に、幼い自分が咎めるような口調で告げる。
 要は心を見透かされたことに戸惑い、急に羞恥と疚しさを感じた。
『僕は、後悔して当然の過ちを犯したんだ』

 ――過ち? 僕は何の罪を背負い、何を悔いているのだろう?

『決まってるだろ』
 幼い自分の顔に、ゆっくりと侮蔑の笑みが広がる。
『玲を助けなかったことだよ』
 そう指摘され、要は心臓を鷲掴みにされたような激痛を感じた。
 同時に、五年前の血に塗みれた惨劇がフラッシュバックを引き起こす。

 紅い月。
 巨大な神栖屋敷。
 血の海に横たわる神栖蘭。
 鎌を振り下ろす玲。
 切断される蘭の首。
 庭で燃やされる蘭の亡骸。
 火が爆ぜる音。
 舞い上がる炎。
 飛び散る火の粉。
 火の粉を追って見上げた空に――紅い月。

 記憶の断片が次々に浮かんでは消えてゆく。
 血のような満月の映像を最後に、世界は再び暗闇へと戻った。
 闇の中には相変わらず幼い自分がポツンと佇んでいる。
『要――』
 ふと、女性の声が響く。
 忽然と出現した白い手が、幼い自分の手を握った。
 華奢な腕には、奇怪なことにそれに続く胴体や頭部がない。肘から下の腕だけが闇に浮かび、幼い自分の手を握っているのだ。
『下のお屋敷に行きなさい』
 親しみのある声が闇に響く。
 要はその声から腕の主を悟った。五年前に亡くなった叔母だ。
 自分と同じ名を持ち、同じ責務を押しつけられた――哀れな叔母。
 叔母の腕は幼い要の手を離すと、そっとその背中を押し出した。
 途端、白い腕は霧散し、幼い要が猛然と駆け出す。
 ――待て。行くな!
 要は慌てて幼い自分を追った。
 叔母が指示した下の屋敷――そこで幼い自分を待ち受けているのは、あの忌まわしい出来事だ。
 何もかもが紅い月に支配され、狂っていた夜。
 玲との訣別の瞬間が待っている。
 夢は五年前の惨劇を再現しようとしているのだ。
 要は幼い自分を神栖家に行かせまいと必死に追った。
 だが、走っても走っても一向に幼い自分との距離は縮まらない。
 もどかしさと苛立ちが胸に芽生えた瞬間、闇の中に日本家屋が浮かび上がった――神栖家だ。
 幼い自分は平然と広い屋敷へ飛び込んでゆく。
 続いて、要も神栖家の門を潜った。
 すると、また脈絡なく世界が変化した。
 目の前に、神栖家の居間が現れたのだ。
 惨劇の舞台となった和室ではなく、居間に辿り着いたことに要は安堵した。
 ここは、血塗れの和室ではない。
 だから惨劇は起こらないのだ。


 ドンッ!!
 突如として、夢の世界が揺らいだ。
 要はハッと目を見開いた。
 いつの間にか、新たな登場人物が姿を現していたのだ。
 居間の壁に寄り添うようにして蹲っている少年に、真っ先に目が行った。
 子供の頃の神栖玲だ。
 玲は怯えと恐怖を孕んだ蒼い双眸で、何かを見つめている。
 その視線の先には、和服姿の老人が仁王立ちしていた。白髪の混じった長めの髪に豊かな顎髭が特徴的だ。厳めしい顔つきで玲を見下ろしているのは、村長・神栖倫太郎だった。
『この化け物が!』
 倫太郎がカッと目を見開き、玲に詰め寄る。彼は玲の胸倉を掴むと、孫を力一杯壁に叩きつけた。
 ドンッと世界が揺れる。
 先ほどの衝撃も倫太郎のせいで起こったのだろう。
『化け物め、化け物め、化け物めっ!』
 痛烈な罵声を浴びせながら、倫太郎は空いている方の手で玲の頬を容赦なく打ち始める。
 頬を嬲る不快な音が響き、玲の人形のように小さな顔が激しく左右に揺れた。
 ――止めろ!
 夢の中で、要は必死に叫んだ。
 こんな光景は見たくない。玲が実の祖父に虐げられ、罵倒されている姿など正視に耐えない。
 ――頼むから止めてくれ!
 だが、叫びも虚しく、倫太郎の殴打は続く。
 玲の頬は赤く腫れ、口の端から血が滴り始める。
 直後、
『止めてっ! 玲が死んじゃうわ!』
 倫太郎の足に何かが物凄い勢いでしがみついた――神栖蘭だ。
 息子の窮地を察して飛んできたのだろう。彼女は玲によく似た美しい顔を上げ、縋るように倫太郎を見つめた。
『死ぬわけがない。これは、あの男の血を引いてる化け物なんだぞ』
『玲は化け物じゃないわ。子供に手を挙げるなんて、いくらお父さんでも許せない!』
 蘭が物凄い剣幕で父親を睨みつける。
『これは、いずれ村に災いをもたらす。野放しにはできん。早々に始末した方がいいんだ』
 倫太郎の冷酷な一言に、蘭が息を呑んだ。
『なんて酷いことを……。玲は私の息子よ』
『これは神栖家の恥だ。この世に生まれてきてはならなかった、呪われた存在だ』
『酷い。呪われてるなんて、あんまりだわ。……酷い、酷い、酷いわ、お父さん!』
 蘭の顔が見る間に青ざめてゆく。
 彼女は激しい怒りに打ち震えていた。
『神栖の恥だと言うなら、私を責めればいいじゃない。私は、あの人が何者かなんて知らなかった。知ってからは、自分のしたことがとても恐ろしいことだったと理解したし、自分の軽率さを呪いもしたわ。でも、玲には何の罪もないのよ』
 蘭が立ち上がり、倫太郎に掴みかかる。
 彼女は倫太郎の手から息子を奪還すると、ひしと両手で掻き抱いた。
『この子を産みたいと願ったのは私。悪いのは――私よ。だって私は、たった一瞬だけれど、それでも確かにあの人を愛したんだもの。だから、あの人の子供を身籠もってると知った時、凄く嬉しかった。絶対に産んでやる、って決心したのよ!』
 蘭が挑むような眼差しを倫太郎に向ける。
 刹那、倫太郎の分厚い手が蘭の頬を殴った。
 不意を衝かれた蘭が態勢を崩す。
 その隙を見逃さずに、倫太郎は蘭の手から玲を引ったくった。軽々と玲を肩に担ぎ、蘭に背を向ける。
 玲は死んだようにぐったりとしていた。
 虚ろな眼差しが辛うじて蘭に向けられる。
 息子の視線を感じて、蘭は父親に殴られたショックから立ち直ったようだった。
『玲を連れていかないで!』
 蘭は逼迫した表情で倫太郎に追いすがった。
 倫太郎の無骨な手が蘭を乱暴に押し退ける。
『誰か蘭を見張っていろ』
 倫太郎の声に応じ、二人の使用人が居間に駆け込んできた。彼らは両脇から蘭の腕を押さえると、力任せに倫太郎から引き離す。
『止めて! お願い、玲を地下に連れていかないでっ! 血の繋がった孫にあんな残酷な仕打ちができるなんて、お父さんの方こそ化け物よ! 血も涙もない鬼だわっ!』
 血の滲むような蘭の叫びが居間に谺する。
 しかし、倫太郎は蘭を無視し、玲を担いだまま姿を消してしまった。
『玲を返して。私の息子よ。玲を返して……私の玲を――』
 使用人に腕を掴まれたまま、蘭は脱力したようにその場に座り込んだ。
 双眸が輝きを失い、虚ろになる。
『……いつか天罰が下るわ』
 ふと気づくと使用人の姿は消え失せ、蘭だけが居間に取り残されていた。
『私は……無力です。父から息子を護ることすらできない愚か者です』
 蘭は虚空を眺め、譫言のように呟いた。
『村の禁忌を知らずに玲を身籠もりました。だから、悪いのは私。罰を受けるのも私。玲は悪くない。悪いのは、私とあの人。悪いのは、お父さんやそれに追従する村人たち。悪いのは――紅い月に呪縛された、この村』
 蘭は何かに取り憑かれたように言葉を繰り出し続ける。
『こんな村、滅びてしまえばいいのよ。ねえ、そう思うでしょう、要ちゃん』
 夢の中には、また幼い頃の要が出現していた。
 幼い要は蘭に頭を撫でられながら、不思議そうに首を傾げている。
『蘭おばさん、玲は?』
『私は玲に恨まれても仕方ないの。いつか玲に殺されても、当然の報いとして受け止めるしかないの。悪いのは私だもの。だから玲が私を憎んでも、私を殺しても構わない。それでも、私は玲を愛してる』
『蘭おばさん、玲は?』
 壊れたレコードのように幼い要は同じ台詞を繰り返す。
 蘭の真摯な眼差しが、幼い自分に注がれた。
『ただ、私がいなくなったら誰が玲を愛し、護ってくれるのか――それだけが心配。私がいなくなっても、あなただけは玲の味方でいてね。玲の傍にいてあげてね、要ちゃん』
『蘭おばさん、玲は?』
『玲は地下よ』
 蘭が泣き笑いの表情で告げる。
 直後、夢の世界は暗転した。


 突如として場面が切り替わる。
 目の前に太い鉄格子が現れた時、要は無性に泣き出したい衝動に駆られた。
 できることなら一刻も早く夢から醒めたい。
 だが願いも虚しく、無情にも夢は続いた。
 鉄格子に囲まれた小さな部屋――神栖家の地下牢だ。
 床の上に玲が無惨な姿で横たわっていた。
 剥き出しになった上半身は、数え切れないほどの傷で埋め尽くされている。倫太郎に折檻されたのだ。鞭か硬い木の棒で滅多打ちにされたと思しき傷痕が痛々しい。全ての傷からまだ血が滴っていた。
 要は、夢の中だというのに吐き気を催した。
 あまりにも酷い虐待だ。
 玲の華奢な手足には、部屋の四隅から伸びた鎖がしっかりと巻きつけられている。
 玲は身じろぎ一つしない。微かに上下する胸だけが生きていることの証だ。
 ――玲? ……玲!
 要は鉄格子越しに呼びかけた。
 子供の頃から何度も目にしてきたが、決して慣れるものではない。傷ついた玲の姿を目の当たりにすると、倫太郎への憤怒がわき上がってきた。
 玲は、幼少時代から苛烈な折檻を受けてきた。
 倫太郎は、それほどまでに玲のことを疎んじ、憎んでいるのだ。
 要と瑞穂が力を合わせても、倫太郎の仕打ちから玲を護ることはできなかった。
 今更ながら、自分の無力さに忸怩たる想いが込み上げてくる。
 ――玲、起きて。僕だよ。
 要は根気よく語りかけ、鉄格子へと手を伸ばした。
 隙間から片手を差し入れ、何とか玲に触れようと試みる。
 ――ここを出よう。僕と一緒に逃げよう。
 指先が玲の腕に触れた瞬間、閉ざされていた玲の瞼がはね上がった。
『何処へ? どうやって?』
 凍てついた蒼い双眸が要を鋭く射る。
 転瞬、世界が朱に染まった。


     *


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Sat
2009.08.01[22:59]
     *


 須玖里要は、自分の口から飛び出した悲鳴で目を覚ました。
 瞼をはね上げる。
 世界は闇に覆われていた。
 自分の荒い呼吸音だけが暗闇に響いている。
 要は緩慢な動作で片手を胸に当てた。
 鼓動が異常に速い。
 身体の至る所から冷たい汗が噴き出し、目覚めを不快なものにしていた。
 早鐘のように打ち鳴る心臓を落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。
 そうしているうちに次第に目が闇に慣れてきた。
 馴染みのある天井の模様が暗闇にぼんやりと浮かび上がってくる。
 自室のベッドで眠っていたことを思い出し、要はホッと息をついた。
 長い夢を見ていた。
 悪意の結晶のような夢だった。
 妙にリアルだった夢を反芻すると、身体が震えた。全身を濡らす冷や汗が更に身震いを煽る。
 要は顔をしかめながら身を起こし、悪夢を払拭するようにかぶりを振った。
 ベッドの真横に垂れ下がるカーテンを払い、窓を開け放つ。
 上半身を捩るようにして窓から外を覗くと、タイミングよく春の夜風が頬を撫でていった。風に吹かれて、額に張りついていた前髪が軽く揺れる。
 要は片手で額の汗を拭うと、深い溜息を落とした。
 嫌な夢を見たのは、神栖倫太郎の来訪のせいだ。
 午前零時を少し回った頃、倫太郎が須玖里家を訪ねてきたのだ。
 要の両親と倫太郎は、深刻な様子で何事かを話し合っていた。
 倫太郎の姿を目にしたくなかったし、会話の内容も聞きたくなかったので、要は自室に引きこもり、布団で耳を塞ぐようにして眠りに就いたのだ。

 ――明日、僕は死ぬだろう。

 五年前、同じ名を持つ叔母が生命を失ったように。
 要は自嘲気味に唇を歪め、窓から空を見上げた。
 不吉な前兆のように、雲影から月が姿を現す。
 紅い月を見て、要は冷笑を浮かべずにはいられなかった。
 月は、五年前と同様に禍々しく輝いている。
 また、あの時と同じ悲劇が起こるのだ。
 違うのは、今度は叔母ではなく自分が死ぬということだけだ。
「死期が迫ってるから、あんな夢を見たんだ」
 良心の呵責が様々な悪夢を紡いだとしか思えなかった。
「玲は、僕を恨んでいるだろうね。だから、せめてもの罪滅ぼしに、僕は自分の身に起こることを全て受け入れるよ」
 久しく逢っていない幼なじみの姿を脳裏に思い描き、要はそっと呟いた。
 紅い月に触発されて、神社の祠で眠っていたはずのものが目醒めてしまった。
 だから、村では人死にが相次いでいるのだ。
 終わらせるには、自分が生命を投げ出すしかない。
 それが昔からの習わし――緋月村に伝わる忌まわしい仕来りだ。
 須玖里家に生まれたからには、その運命に従うしかない。
「僕はもうすぐ死ぬ。でも、決して無駄死にはしない」
 要は己に言い聞かせるように囁き、枕元へと手を伸ばした。
 枕の下には、折り畳み式のサバイバルナイフを忍ばせてある。
 要は躊躇わずにそれを掴むと、眼前に翳した。
「これまでの要みたいに、ただ殺されるのは御免だ。僕は諦めない。最期まで闘う」
 片手でナイフを握り締め、祈るように囁く。
「絶対に諦めたりしない。必ずあの怪物を道連れにしてやる」
 ――あいつさえいなくなれば、玲は村から解放される。
 要はきつく唇を噛み締め、決然と夜空を見据えた。
 紅い月は不気味に村を見下ろしている。
 要はナイフを握る手に力を込め、殺意の漲る眼差しで月を射た。


     「七.戒厳令」へ続く



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Mon
2009.08.03[22:59]
七.戒厳令



 肌に降り注ぐ眩い光が目覚めを促す。
 蕪木莉緒は、欠伸をしながらゆっくりと寝返りを打った。
 薄目を開いて辺りの様子を窺う。明るい光が室内を満たしていた。
 ああ、太陽の光が窓から入ってきているのね――と呑気な感想を抱きかけて、ハッと目を見開く。
 寝起きの気怠さも僅かに残っていた眠気も、一気に吹き飛んだ。
 太陽が昇っているということは、もう朝だ。
 ――学校に行かなきゃ!
 莉緒は勢いよくベッドから身を起こした。
 咄嗟に壁時計に目が行く。
 時刻は午前十一時四十分を示していた。
「やだ、もうお昼じゃない! 完全に遅刻だわ」
 莉緒はベッドから飛び降りた。
 クローゼットから制服を取り出し、手早く着替える。
 机の上に置いてある鞄を手に取ると、慌ただしく部屋を飛び出した。
 階段を駆け降り、リビングに鞄を放り込む。
 それから身を反転させて、洗面所に移動した。
 寝惚けた顔を冷たい水で洗い、物凄い勢いで歯磨きを済ませる。ブラシで髪を梳き、最後に化粧水と乳液が一緒になったローションを手に取り、念入りにパッティングした。
 鏡で自分の姿をチェックし、『寝坊したにしては上出来だ』と笑顔で頷くとリビングへ引き返す。
 床に転がっていた鞄を拾い上げたところで、今から登校すると丁度昼休みだということに気づいた。
 莉緒は隣接するキッチンへ移動すると、食卓の上に載っていた菓子パンと冷蔵庫に入っていたオレンジジュースの缶を鞄に詰め込んだ。
 遅刻ついでに学校を休んでしまおう、という考えは全く念頭になかった。
 家にいても特別する事がない。午後からでも登校した方が暇を持て余さずに済む。それに、クラスメイトたちと僅かでも交流を深めたかった。
 ――早く村に馴染まなきゃね。
 昨日一日で味わった疎外感が、莉緒の胸にそんな想いを植えつけていた。
 村人たちと同化すれば、瑞穂や要も案外すんなりと村の秘事を教えてくれるかもしれない。
 単純な発想を抱きながらリビングへと戻る。
 廊下へ出ようとしたところで、ふと気になるものを発見した。
 ドア横のクリップボードに『莉緒へ』と書かれたメモを発見したのだ。
 莉緒は足を止め、青いマグネットで止められた紙面に目を走らせた。

『莉緒へ 往診に出ます。俺が帰ってくるまで、どこにも出かけないように! 亮介』

 紙面には黒いマジックで、そう綴られていた。
「出かけるな、ってどういうことよ? 変な叔父さん……。昨夜から少し神経質よね」
 亮介の伝言を見ても登校する意志は変わらなかった。制服も着てしまったし、何より家で無為な時間を過ごしたくない。
『出かけるな』という指示は、全くもって意味不明だ。
 理解しがたいので、あっさり無視することに決めた。
 莉緒は蕪木家の玄関前を左折して、診療所へ続く廊下を進んだ。
 亮介は往診に出、自分は学校へ行く。
 昨夜の話の続きは、結局夜のことになりそうだ。亮介には仕事があるのだから仕方ない。叔父は村に一人しかいない医師なのだ。毎日多忙であることは、莉緒も熟知している。
「アサが生きてると言い張る理由も、ちゃんと説明してもらわなきゃね」
 莉緒は独り言ちながら診療所へと続くドアを開けた。
 病院特有の薬臭さの漂う廊下を慣れた足取りで進む。薬品庫とレントゲン室の前を通過すると、廊下の角に位置する診察室に到る。当然のことだが、主が不在なので診察室からは物音一つ聞こえてはこなかった。
 診察室の角を左に折れ、待合室へ足を踏み入れた瞬間、莉緒は思わず首を捻っていた。
 待合室がしんと静まり返っているのだ。
 普段なら、亮介が往診に出ていても何人かの患者が屯している。
 だが、今日は珍しく誰もいなかった。
 ――昼時だからかな?
 無人の待合室を怪訝な面持ちで眺めながら、玄関へと向かう。
 玄関脇の受付兼事務室をチラと覗いて、莉緒はまた首を傾げた。
「眞木さんもいない……」
 通常なら、眞木杏子という女性が事務室の中にいるのだ。
 杏子は村で唯一の看護士であり、診察開始から午後三時までは毎日診療所に詰めている。莉緒が帰宅する頃には大抵いないのだが、今はまだ正午だ。それに、亮介が往診に出ている時でも薬を取りに来る患者もいる。そんな時の薬の受け渡しは、杏子の役目だ。
「お昼を食べに、家に帰ったのかな?」
 莉緒は患者どころか杏子までいない状況を大いに訝った。
 だが、いくら悩んでも患者と杏子がいない理由は見出せそうにない。
 即座に考えることを放棄し、玄関へと移動した。
 勝手に自分専用にしてしまった靴箱の最上段からローファーを取り出し、足を突っ込む。
 ガラス張りのドアに手をかけたところで、玄関が施錠されている事実に気づいた。これでは、患者が訪ねてきても診療所の中に入れるはずもない。
「きっと眞木さんも一緒に往診に出たのね。珍しいな」
 亮介も杏子も不在だから玄関は施錠されているのだろう。
 診療所が無人である理由に一応の納得がゆき、莉緒は無意識に安堵の息をついていた。
「やだ。何を心配してるんだろ、わたし」
 莉緒は苦々しく呟き、ドアを解錠して外に出た。
 春の正午――空は快晴。
 山間の村には柔らかな太陽の光が降り注いでいる。

 村は、いつもと変わらぬ春の陽気に包まれていた。



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