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ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です
Thu
2009.07.23[08:58]
     *


 同夜、神楽宮最古の寺で、一つの通夜が滞りなく行われていた。
 吉野静夫。享年七十五歳。死因は心不全。
 武村一乃の幼き頃からの友人であった。
 一乃は通夜へ出たまま、帰宅していない。
 柾士は一人、外で満天の星々が輝く空を見上げていた。
 琥珀色の淡い光を放つ三日月を仰ぎ見ながら、両手を大きく伸ばす。自然と口から欠伸が洩れた。
「夜の森っていうのもいいな」
 シャツのポケットから煙草を取り出し、口にくわえる。
 目前に、冷泉家の森が鬱蒼と広がっていた。木々の隙間から、屋敷を取り囲む人工の光が洩れている。
 そちらへ歩み出そうとして、柾士はふと足を止めた。
 ニャア、と可愛らしい猫の鳴き声が聞こえたのだ。
 足許にくすぐったい感触が芽生える。柾士は視線を下方へ向け、微笑んだ。白い猫が甘えた声を出しながら、自分の足の間を媚びるように行き来している。
「何だ? ついてきたのか、ユキ」
 煙草に火を点けてから、その場にしゃがみ込む。
 子猫のユキが、嬉しそうに柾士を見上げた。その柔らかい毛を撫でてやると、ユキは一層嬉しそうに喉を鳴らす。
 しばらく柾士の手にじゃれついていたユキだが、急にピンと耳を立てた。
 聴覚を研ぎ澄ませ、ある一点だけをじっと凝視している。
 その内に、ユキは唐突に走り出したのだ。
「あっ、ユキッ!」
 柾士は慌てて立ち上がり、ユキの後を追った。
 ユキは一乃の大切な子猫だ。迷子にさせるわけにはいかない。
「ユキ! ちょっと、待てっ!」
 焦りながら、素早い身のこなしのユキを追跡する。
 ユキは、道路に沿った森のほぼ中央――冷泉家へと通じる一本道の入口で、その走りを止めた。柾士の足も自然と緩まる。
「ユキ、おいで」
 呼びかけるが、ユキが戻ってくる気配はなかった。
 それどころか子猫はニャアニャアと人懐っこい声を出しながら、前進して行くのだ。
「ユキ――」
 再び呼び掛けようとして、途中で口を噤む。
 ――人が立っていた。
 全身黒ずくめの人影。
 その足許に、ユキはじゃれついたのだ。
 道路脇の街燈に照らされ、一人佇む細い影。
 緩く波打つ長い黒髪を、頭の高い位置で一つに束ねた少年だった。
 少年は、鋭い眼差しで森を睨んでいた。
 唇はきつく結ばれ、目尻は少しばかり吊り上がっている。
 面差しには、鬼気迫る情念が纏わり付いていた。
 殺気だ。
 明らかな敵意と殺意をもって、少年は森とその奥に潜む冷泉家を睨め付けていた。
「……君」
 柾士が呼びかけると、少年は無言のまま首を巡らせた。
 足許のユキに冷たい一瞥を与え、柾士へと視線を注いでくる。何の感情も露呈しない凍て付いた眼差しが、柾士を射た。
 スッ、と少年の手が上がる。人差し指が柾士の後ろを示した。
「えっ?」
 反射的に柾士は振り返っていた。
 刹那、愕然と目を瞠る。
 突如として闇夜に青白い炎が出現したのだ。
 フギャーッッ!
 ユキが警戒の鳴き声を発しながら、柾士の傍に駆け寄ってくる。全身の毛が、何かを威嚇するように逆立っていた。
 青白い火の玉――鬼火は、着々と増殖してゆく。
 瞬く間に、柾士の眼前は、妖しく揺らめく鬼火で埋め尽くされていた。
「なっ、何だよ、これっ!?」
 慌てて、背後の少年を顧みる。
 少年の顔には薄笑みが刻み込まれていた。彼が差した指をもう一度揺り動かす。『あっちを見なさい』と柾士を促すように。
 ゾクリ、と背筋に粟が立った。
 見なければいいのに、柾士の首は少年の指に誘われるようにして鬼火の方へと戻ってしまう。
 そこで繰り広げられる光景を目にした瞬間、
「――ひっ……!」
 吐き出したつもりの息と悲鳴が、咽喉の奥に張り付いた。
 凶悪な闇が、柾士を睨んでいた。
 無数の青白い鬼火が揺らめく中、暗黒の獣がしなやかな体躯を誇示するように背筋をピンと張って立っていたのだ。
 体長は二メートル強。容貌は犬に似ている。
 だが、現実には存在しない生き物だ。風もないのに、長い体毛は黒い炎のように揺れている。赤く光る目に、額の中央から生える一本の角――それらが、獣が尋常ではないことを示していた。
 ――グルル……。
 獣の喉から低い唸りが洩れた。赤光を放つ双眼が、鋭く柾士を射抜く。
 獣が、片方の前足で地を引っ掻くような動作を繰り返す。明らかに、驚愕に立ち竦む柾士を狙候していた。
 フーッッ!
 獣を柾士に近付けまいとするのか、ユキが威嚇の声を発する。
 ――ガルルッ……!
 獣の足が地を蹴ろうとした。
 二メートルの巨大な獣と子猫のユキでは、どう考えてもユキに勝算はなかった。
「あっ……! ユキ、ダメ――」
 柾士の身体がビクッと震える。
 ――ダメだ!
 そう叫ぼうとした柾士の声に、
「志木さんっ!」
 別の声が重なった。



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Thu
2009.07.23[21:08]
「志木さん!」
 声と共にこちらへ駆け寄ってくる足音を、柾士は確かに聞いた。
 その声に、ピタリと獣が動きを止める。
「――有馬くん?」
 柾士は接近する人影を認めて驚いた。
 疾風のような速さで駆けてきたのは、今朝、名乗り合ったばかりの青年だった。
 青年――有馬美人(ありま よしひと)の左手には、およそ彼に似つかわしくない物騒な物が握られていた。
 日本刀だ。
 仄かな青い冷光を纏った刀を手にしながら、美人は駆けてくるのだ。
 ――ウゥ~ッ……グルル……!
 獣が矛先を美人へと変えた。
 黒い四肢が力強く宙に躍り、尖った牙を持つ口が唸りをあげながら開かれる。
「有馬くん、気をつけてっ!」
 獣が美人に襲いかかるのを目の当りにして、柾士は叫んだ。
 美人が獣に引き裂かれるのではないか、と危惧したのだ。しかし、現実は柾士の想像通りにはならなかった。
 美人は落ち着き払った様子で、向かってきた獣に対し、日本刀を水平に薙ぎったのだ。
 キラリと月光を受けた刃が眩く光る。
 獣は器用に身体を捩って、間一髪それを避けた。
 同時に、柾士の背後で少年の息を呑む気配がした。
 美人は、獣に向けて二撃目を繰り出そうとしている。
 対する獣も着地と同時に態勢を立て直し、美人を迎え撃とうとしていた。
 美人と獣が、互いにジリジリと間を詰めかかった時、
「ダメだ、閻羅(えんら)!」
 鋭い制止の声が、柾士の後ろから飛んだ。
 ハッと背後に首を巡らせると、少年が厳しい表情で獣に視線を注いでいた。
「その人には勝てない。戻ってこい!」
 少年が短く命令を下す。
 少年の言葉には絶対服従なのか、獣はすぐに身を翻して跳躍した。軽々と柾士の頭上を飛び越え、少年の傍に舞い降りる。
 少年は美人を食い入るように見つめていた。
 その眼睛に、訝しむような、恐れるような色が垣間見える。
 少年は美人から視線を外さずに後退った。
「待てっ!」
 美人が素早く地を蹴る。
 物凄い速度で柾士の横を通過し、少年の前に移動する。
 白刃が煌めいた。
「――痛っ……!」
 少年が小さな呻きを洩らし、咄嗟に胸の辺りに引き上げた左手を右手で押さえる。指の隙間からポタポタと液体が零れ落ちた。月の光に照らされて、赤い液体が妖しく輝く。
 少年はそれには目もくれずに、美人に釘付けになったままだった。
 美人が日本刀を構え直す。
 ――ガルルルルルッ……!
 獣が怒りの咆哮を放った。
「閻羅っ!」
 飛び掛かろうする獣を、再度少年が制止する。
 少年は、美人を避けるように敏捷に後ろへ飛び去った。獣が後に続く。
「逃がさない!」
 美人が下から上へと日本刀を跳ね上げる。
 だが、刃先が少年に触れようとした瞬間、少年と獣の姿は水に溶けるインクのように空気に滲み、あっという間にその場から消え失せてしまったのだ。
 美人の日本刀が虚しく空を斬る。
 それが奇妙な戦いの終わりだった。
「あ……有馬くん、大丈夫っ!」
 柾士は慌てて美人に駆け寄った。
「逃がしてしまいましたね」
 美人は、少年と獣が消えた空間を鋭く睨めつけていた。言葉には多少の自嘲が含まれている。
「お怪我はありませんか、志木さん」
 ふと、美人が柾士を振り返る。既に、双眸から苛烈な輝きは失せていた。
 彼は柾士が茫然と頷くのを見てから、手にした日本刀を無造作に宙へと放った。
 転瞬、手から離れた日本刀が青い光を発して姿を変えた――銀細工の指輪へと。
 美人が宙に浮く指輪へ左手を伸ばす。不思議なことに指輪は意志を持っているかのように、自然と美人の左の中指へと納まった。
「有馬くん、君は一体――?」
 柾士は目の前で起こった怪事に唖然とした。驚愕と不審の相俟った眼差しで、美人を凝視する。
 ――尋常ではない。
 あの少年と獣――そして美人。
 常識を逸した存在が、確かにここにいる。
「知りたいですか?」
 静かな口調で美人は問い返してくる。
 柾士は無言で首肯した。
「後悔するかもしれないですよ」
 美人が微笑む。
 彼独特の、自身を揶揄するような物憂げな微笑みだった――


     *



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Thu
2009.07.23[21:14]
     *


 A市繁華街に聳える高層マンションの一室で、由羅(ゆら)は窓外を眺めていた。
 窓に映る自分の顔は硬く強張っている。
「ボクは……絶対に赦さない」
 低く呟き、唇を引き結ぶ。
 挑むような眼差しで外界を睥睨した時、ザラリとした舌の感触を左手に感じた。
 ゆっくりと視線を下げる。
 垂らした左手からは血が溢れ出ていた。先刻、刀で斬り付けられた時に生じた傷だ。その傷口を、漆黒の獣――閻羅(えんら)が心配そうに舌で舐めているのだ。
「大丈夫だよ、閻羅。すぐに治るから」
 表情を和らげ、優しい声音で告げる。
 微笑を浮かべ、脇にあるベッドに腰を下ろした。
「あの人、同じ匂いがした。ボクと同じ……」
 由羅の脳裏を、美しい日本刀を手にした青年の姿がよぎる。
 自分と同じ波動を感じた。ある種の人間を超越した存在――自分と同類。
 彼もきっと、その事実に気づいただろう。
「あの人、一体誰なんだろう?」
 由羅は名も知らぬ青年に想いを馳せながら、閻羅に語りかける。
 無意識に閻羅へと手が伸びた。愛しげに背を撫で、角に触れる。
「おまえの《神》の名残りは、この角だけ」
 フッ、と由羅の顔に翳りが射す。
 それは自嘲の笑みと相俟って顔中に広がった。
「ボクが堕ちれば堕ちた分だけ、おまえも変わってしまう。この目は澄んだブルーだったのに。この身体は輝く銀だったのに――」
 由羅は自分の左手を舐め続ける閻羅の首を右手だけで抱き寄せ、頬を擦り寄せた。
 閉じた瞼の裏に、雄々しく崇高な獣の姿が甦る。
 明澄な碧玉の瞳に、光を放つ銀糸の体毛――美しく気高い聖獣。それが今では、血と闇に彩られている。唯一、銀の角を残して……。
 全て自分のせいだ。
 この獣は、自分の心を映す鏡なのだから。
「ボクはどこまで堕落するのだろうね?」
 閻羅に頬擦りながら独り言ちる。
 不意に、その顔が閻羅から離された。
 部屋のドアを見つめ、忌々しげに眉根を寄せる。
「九鬼(くき)が来る。閻羅、ボクの中へお還り」
 由羅は、閻羅に向けて右の掌を差し出した。閻羅の顔が掌に接近する。転瞬、閻羅は吸い込まれるようにして、由羅の手中に姿を消してしまったのである。
 ほぼ同時に、ドアがノックもなしに乱暴に開けられた。
「由羅! いるのか、由羅」
 唐突に、背の高い男が室内に入り込んでくる。
 獰猛さを孕んだ精悍な眼差しが、由羅を認め、鋭利に輝いた。
「何か用?」
 素っ気ない由羅の言葉に、男――九鬼の眉が勢いよく跳ね上がる。
「おまえ、廊下のあの血は何だっ?」
 九鬼は、床を踏みつけるようにして由羅に近寄ってくる。
「怪我しただけだよ」
 九鬼から目を逸らしながら応じる。
 すかさず九鬼の手が頭に伸ばされ、乱暴に髪を掴まれた。強引に顔が九鬼の方へ戻される。
「何処を怪我した?」
「さあ? 忘れた……」
「由羅っ!」
 九鬼の語気が荒々しくなる。
 探るような視線が唇に滑り落ち、その下――白い喉に留められた。
 不意に、由羅の喉元を見つめる双眼が熱っぽくなる。
 九鬼の双眸に情欲の影が走ったのを認識して、由羅は身体を強張らせた。不愉快さに顔をしかめ、慌てて九鬼の手を振り払う。
 だが、逆にその手は九鬼の腕に強く掴まれてしまった。九鬼の顔から欲情の念が消え失せ、代わりに怒りが表れる。
「――この手かっ!?」
 九鬼が血の流れる由羅の左手を強く握る。
「そのうち治るよ。痛いから放して」
「馬鹿、とっとと再生しろ! ――っと、いや……」
 怒鳴る九鬼の眼差しが、急にねっとりとしたものに変貌する。仄昏い残忍な光が、獣のような双眸に宿った。
「丁度いい。血に飢えていたところだ」
 言うなり、九鬼は片手一本で由羅の身体を腕に抱き込み、血の溢れ出す傷口に唇を這わせるのだ。最初は舌で血を舐め取り、それから口で傷口を覆い、本格的に吸い始める。
 血を啜る九鬼に、由羅は不快を隠しもせずに侮蔑の眼差しを注いだ。
 九鬼は本当に血液を吸っているのだ。その双眸が徐々に妖しく、禍々しく――血の色に変化する。
 ――魔性の眼だ。
 吸血という淫靡な行為に、九鬼の瞳は喜悦の輝きを灯している。対照的に由羅の顔は見る間に青ざめ、生気を失っていった。
「九鬼……くる……しい……」
 由羅の唇から苦痛の呻きが洩れる。
 それが九鬼の残虐心を煽ったのか、彼は傷口に歯を立てながら血を啜り上げるのだ。
 五分ほど吸血を味わった後、九鬼はようやく由羅の手から唇を離した。
 不思議なことに、由羅の怪我はうっすらと線を残しただけで完全に塞がっている。
「フンッ……まだ《あっち》の血が残ってるな。あれから、もう一年も経つのに」
 口の周りにこびりついた血を舌で舐め取りながら、九鬼が蔑むように由羅を見下ろす。
「まっ、オレの血で完全に浄化してやるよ」
 不敵に笑い、九鬼はグッタリとしている由羅をベッドに横たえた。
「やめっ……ボクに……触るな……」
 由羅は弱々しく九鬼を睨めつける。
「おまえ、最近、冷泉の周りをウロついてるんだってな?」
 九鬼が由羅の頬を右手で愛撫しながら、問いかけてくる。
『冷泉』という言葉に、由羅の身体は自然と反応を示し、大きく震えた。それを見て、九鬼がクックッと嫌な冷笑を放つ。
「やっぱりな。昔の仲間が恋しくなったか? おまえは、元々《あちら側》の陣営だからな。懐かしいか、冷泉が――?」
「……華瑤鬼(かようき)のためだよ」
「本当に、華瑤鬼妃様のためだけならいいけどな。今更、戻りたいとは考えるなよ」
 九鬼が由羅の咽喉をくすぐっていた右手を引き、左の手首に当てる。
「冷泉のことなど忘れろ」
 ギラッ、と九鬼の眼が血走る。嫉妬という炎が一気に燃え上がった。
 同時に、九鬼の爪が自らの手首を裂く。鮮血が滴り始めた手首を、彼は由羅の口許へ寄せた。
「呑め」
 端的な命令に、由羅は拒絶するように首を横に振った。唇は、九鬼の血を決して呑むまい、と堅く結ばれている。
「どうした、オレの言うことが聞けないのか? 誰が、おまえを冷泉から匿ってやってるんだ?」
 九鬼の手が、由羅の顎を強く押さえつける。
「誰が、あっちの人間だったおまえをこっちの仲間にしてやったんだ?」
 囁くような九鬼の言葉が抗う気力を削いだ。
 由羅は諦観し、ゆっくりと唇を開いた。
「いい子だ」
 口内に流れ込んでくる血液を由羅は不承不承に飲み込んだ。
 奪われた血が還ってくる。
 ――嫌な儀式だ。
 由羅は自らの行為を嫌悪した。
 こうして、自分の体内の血液は入れ換えられてゆくのだ。
 残り僅かな《聖なる血》が、全て失われる日も近いだろう。
 自分が別の《何か》に変わってゆく――もう、引き返すことのできない領域まで達している。
 ――後戻りはできない。
 己に言い聞かせ、由羅は九鬼の血を咽喉の奥に流し込んだ。
 魔性の血が全身に浸透してゆくのを感じながら、由羅は心中で切なく呟いた。
 安芸、と――


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Thu
2009.07.23[21:19]
     *


 夜の静謐な空気が、世界を包み込んでいる。
 田舎ならではの静けさが、志木柾士と客人の上にも降り注いでいた。
 柾士は、客間に敷かれた布団の上に座している。
 その正面には客人――有馬美人の姿があった。
 美人は幾分顔を俯けて、隣の布団の上にきっちりと正座している。
 街へ向かう電車やバスは疾うに絶えている。美人の話を聞くために、柾士は彼を祖母の家へと連れ帰ってきたのだった。
 交代で風呂に入り、今に至るのだが、長い沈黙が二人の間を浮遊していた。
「どうして、何も訊かないんです?」
 不意に、美人の声がその沈黙を打ち破った。
「えっ? あの……その……」
「僕に訊きたいことがあるんでしょう?」
「いやっ……だから、その――何から訊いていいのか解らなくて……」
「何から訊きたいんですか?」
 しどろもどろに応じると、逆に美人に切り返された。美人の顔に微笑が浮かぶ。柾士の慌てぶりを面白がっているようであった。
「えー、えーっと……どうしよう? とりあえず有馬くん、君、幾つなの?」
『当たり障りないことから』と考え、柾士は本題から程遠い質問を繰り出した。その問いが間抜けすぎたのか、それは美人の更なる笑みを誘ったようだった。
「二十三ですよ。志木さんは?」
「オ、オレ? オレは二十五だけど……」
 笑いながら応じる美人に、柾士も慌てて言葉を返す。
「そうなんですか。外見は少し若く――僕と同じくらいに見えますね」
「有馬くんが大人びてるんだよ」
「それは、褒め言葉としてとっておきますよ」
 美人が柔らかく微笑む。
「優しいんですね、志木さんは。僕に気を遣ってくれて……。本当に訊きたいことを言って下さい。さっきの出来事は、あなたには謎だらけでしょうから」
 美人が笑みを潜め、真摯な眼差しで柾士を見つめてくる。『隠す気はない』と、瞳が語っていた。その疑いようのない真っ直ぐな視線に、柾士は深く頷いた。
「じゃあ、そうだね……昨日のことから。ホントは街でオレが《見たもの》を、君も見てたんだろ?」
 柾士は、昨夕、A市の歩行者天国で見かけた少年の姿を思い出しながら問いかける。
 あの幽霊のような少年――おそらく、いや、間違いなく冷泉安芸だった。
 あれが安芸の生き霊なのかドッペルゲンガーなのかは知らないが、美人もその姿を見ていたことは確実なのだ。だから彼は、意味深な言葉を柾士に残したのだろう。
「それは、街角の少年のことですか?」
 美人の反問は、安芸を目撃していたことを暗に認めていた。
「やっぱり見てたんだね。どうしてあの時、否定したの?」
「その時は、まさか志木さんにまた逢うなんて思っていなかったですし……。それに、どうして僕に彼が視えたのかは解りませんよ。本当に偶然でしょうね。彼は、志木さんのことしか視ていませんでしたから」
「オレを見ていた?」
 柾士は小首を傾げる。確かに、幽霊めいた少年は自分をじっと見つめていた。
「ええ。彼は、志木さんだけを見つめていました。救いを求める眼差しで」
「救い……?」
 半ば茫然としながら言葉を復唱する。
 今朝出逢った、安芸の儚げな白い顔が脳裏をよぎる。心に傷を負っているという繊細な少年。その安芸が自分に救いを求めているというのだろうか? 《心の傷》を癒すために――
「――あの子には翼がない」
「えっ?」
 不意に、美人の言葉に思考を中断される。驚いて彼を見返した。
 翼がない――何を意味するのだろうか?
「翔ぶための翼がないんです。だから、あの子は羽ばたけずに、暗い闇の世界を彷徨っています」
「どういうこと?」
「詳しいことは僕にも解りません。ただ、あの子――大切な人に裏切られたような傷ついた瞳をしてたから……」
 美人が軽く目を伏せる。
 瞬間、ドクンッ、と唐突に胸が弾けた。
 裏切られた――その一言に心が痛みを発した。
 急激に目の前が朱色に染められる。
 深紅の世界に、一つだけ白い染みが浮き上がる。
 それは次第に大きくなり、白いワンピースを纏った《彼女》の姿になった。

 ――……なさい……ごめんなさい……。
《彼女》の赤い唇が、艶かしく動く。
 ――ごめんなさい……ごめんなさい、柾士。
《彼女》の双眸から涙が流れ落ちた。
 ――柾士……私、あなたを……。
 赤い空洞のような《彼女》の口腔。
《彼女》の白いワンピースの腹部が、徐々に血の華を咲かせる。
 ――私、あなたを裏切ったの。
 腹部の血は、あっという間に純白の衣服を紅色に染め上げる。
《彼女》の白い手首からは、血が滴っていた――

「志木さん。……志木さん?」
 遠くで美人の声がする。
「――あっ……」
 柾士はハッと我に返った。
 美人の心配そうな顔が、自分を覗き込んでいる。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「あ、ああ……平気」
 慌てて返事をする。また《彼女》の幻影を視てしまったらしい……。
 ――《彼女》のことは考えるな。
 軽く頭を振り、彼女の幻を追いやる。
「そっか。有馬くんも彼を見てたんだね。よかった。オレだけじゃなくて。ここへ来てからおかしなことばかりだから、オレの頭、どうかしちゃったんじゃないかって気になってたんだ。有馬くんにも見えたってことは、オレ、異常じゃないってことだよね」
 その場を取り繕うように、柾士は矢継ぎ早に言葉を並べ立てた。そうでもしなければ、再び《彼女》が現れそうで怖かったのだ。
「異常といえば異常ですよ。さっきの出来事にショックも受けずに、現実として認めようとしている志木さんは」
 美人が、皮肉げな微笑みを唇の端に浮かべる。だが、笑みとは裏腹に口調は柾士を小馬鹿にするものではなく賛辞のようだった。
「そりゃあ、ビックリしたけど……。鬼火とか怪しげな少年とか、犬の化け物とか。でも、この目で見てしまったんだから信じるより他はないじゃないか」
「そうですね。その順応性に優れているところが、志木さんの長所なんでしょうね」
「君だって随分平然としてるじゃないか?」
「僕は――慣れてますから」
 微かな哀愁を漂わせ、美人が呟く。
「う、うん。そうみたいだね……。『鬼退治に来た』って、言ってたよね? それって、あの犬の化け物のこと?」
 柾士は自分を襲おうとしていた奇怪な獣の姿を胸に思い描き、僅かに身震いする。
 あれは――この世のものではなかった。
「いいえ。多分、元凶はあの少年ですよ」
「あの少年が?」
 柾士は、殺気に満ちた眼差しで冷泉家を睨んでいた少年を想起し、眉を顰める。
「はい。彼は魔性のものです。普通の人には解らないでしょうけど、この辺り一帯には不快な瘴気が漂っています。その源となっているのが彼です。ですが、あの子は――」
 何かを告げかけて、ふと美人が口を噤む。
 柾士が『何?』と瞼を瞬かせると、美人は表情を曇らせた。
「何でもないです。きっと、僕の杞憂ですよ」
 美人は曖昧に言葉を濁す。『だから、何が?』と口を開こうとした柾士を遮るように、美人は言葉を続けるのだ。
「いずれにせよ、僕はあの子を狩らなければなりません。それが、僕に架せられた使命ですから……」
「君のその指輪は、一体何なの? 『使命』って奴に関係あるのかな?」
 柾士は、美人の左の中指に嵌められている銀細工の指輪に視点を据えた。柾士の目前で日本刀から指輪へと変化した、妖しげな物体。今は、じっと目を凝らしてみても、何かのからくりがあるとは思えない、只の指輪だった。
「ああ。これの本来の姿は刀なんですよ。僕のお祖母様が《封魔師(ふうまし)》だったんです」
 美人は事もなげにサラリと言葉を紡ぐ。
「ふうまし?」
 柾士は二、三度瞬きを繰り返す。言葉の意味するところが解せなかった。初めて耳にする単語だ。
「『魔を封じる』と書くのですよ。封魔師とは、言葉のまま――魔物を封じる能力を持つ者のことです。魔物とは、簡単に言えば尋常の世界には存在しないはずの生物です。魔性のもの――吸血鬼とか狼男とかの類いだと思って下さい。さっきの鬼火を操る獣もそうですよ」
「ハハ……何だかオレには縁のないような世界だね」
 柾士は頬を引きつらせながら、空々しく笑ってみせる。
 ハイテク化の限りを尽くした現代社会の中で、今も尚そのような妖怪変化が跋扈しているのを想像するのは、物凄く困難だった。
「そうでもないんじゃないですか? 志木さんは、あの獣を認めたじゃありませんか?」
「――うっ。そうだったね……ハハハ……」
 美人に指摘されて、柾士は乾いた笑いを洩らす。自分は、あの獣や少年をしかと己の目で見定めているのだ。それは、変えようのない事実だった。
「そういったものを見極め、封印する能力が、お祖母様にはあったわけですよ。そして僕にもね。この指輪は、お祖母様が愛用していた《雷師(らいし)》と呼ばれる魔封じの剣です。霊力のある刀で、形見として僕が譲り受けたものなんです。物騒なので、普段は指輪の形にしていますけど」
 美人は、ヘマタイトの嵌め込まれた指輪を大事そうに指で撫でている。
「僕は祖母の遺志を受け継ぎ、魔封じを生業としています。魔性の気配を感じれば、それを手繰って全国を飛び回る――そんな如何わしい稼業ですけどね」
「で、今回は神楽宮が仕事場ってわけだ」
 柾士は納得したように大きく頷いた。
 美人に特殊な能力が備わっていることを、何故だか素直に受け止められた。美人の美貌は常識を逸脱している。《普通の人間》にしては、彼は美しすぎるのだ。美しさが、美人を一般世間から切り離している。そこまで考えて――
 ――誰かに似ている。
 柾士はある閃きに思い至った。
「魔物封じ――鬼退治ね。妖怪・物の怪・魑魅魍魎か……。解った! 冷泉の御方様に似てるんだ!」
「御方様? ――冷泉?」
 美人が怪訝な面持ちで、柾士を凝視する。
「そうそう。この土地の名旧家が冷泉さんちなんだけどね。その一族にも有馬くんと同じような不思議な力があるんだ。オレは実際に見たことはないけど、土地の人は未だに信じてるみたい。中でも、一族の当主――御方様の力は凄いんだってさ」
「冷泉、ね……。そういえば、ここは北海道でしたね」
 美人が意味深な言葉を洩らす。だが、美人と冷泉の意外な接点を見つけ、はしゃぐ柾士の耳に、その呟きは残らなかった。
「えっ? 何か言った、有馬くん?」
「……いいえ」
「ホラ。朝、有馬くんと森の近くで逢っただろ? その森の中の屋敷が冷泉さんちなんだ。オレ、御方様と知り合いになっちゃってね。明日、冷泉さんちに遊びに行こうと思ってるんだけど――有馬くんも一緒にどう?」
「僕は……遠慮しておきますよ」
 美人は柔らかく柾士の誘いを断る。
「そう? 何か、残念だな」
 柾士は心から残念そうに言葉を口に乗せる。単純な興味心から、柾士は冷泉家の人々と美人を引き合わせてみたかったのだ。
「すみません。また、別の機会にでも誘って下さい」
 穏やかな笑みを美顔に刻み、美人は布団に身を横たえた。
 毛布を肩まで引っ張り上げる美人を見て、柾士も釣られたように横になる。
「そういえば、有馬くんは街のホテルに泊まってるの?」
 唐突に、柾士は別の話を切り出した。
 美人が不思議そうに柾士の方へ首を傾ける。
「はい。そうですけれど」
「じゃあさ、そこ、チェックアウトして、明日からうちに泊まりなよ? ――って、おばーちゃんの家だけど……」
「えっ?」
 柾士の提案に、美人は益々怪訝そうな表情を作った。
「だってさ、有馬くんの捜している鬼もこの辺に出没するみたいだし。その方が君も動きやすいだろ?」
「……志木さんとお祖母様に迷惑をかけるわけにはいきません」
「大丈夫だって。うちのおばーちゃん、面食いなんだよ。有馬くんが居てくれると、すっごく喜ぶと思うんだ。それに――オレが有馬くんに居てほしかったりなんかして」
 柾士は自分で言った言葉に照れ、微かに顔を赤らめた。言葉に偽りはない。
 柾士は美人を気に入ってしまっていた。美人になら、自分の胸の裡を全て告白できるような気がするのだ。いつか《彼女》のことを美人に話してみたい。聞いてほしかった――自分の懺悔を。
「そう言ってもらえると、嬉しいですけれど」
 数秒の空白の後、美人から答が返ってくる。
「ホント? じゃあ、決まりだね」
 柾士は喜々として布団から飛び起きた。
 美人は一瞬呆気にとられたような表情を見せた。だが、それはすぐに姿を隠し、代わりに美しい微笑が刻まれる。
「とりあえず、これからよろしくお願いします」
「こっちこそ。――でも、神楽宮に来てから、ホントにビックリの連続だなぁ」
 柾士は美人に微笑み返してから、僅かばかり表情を曇らせた。
 昨日から、自分を取り巻く環境が著しく変化している。
 冷泉安芸の幽体。美人との出逢い。狐の嫁入り。吉野静夫の死。不可思議な歌を紡ぐ、従妹の美弥。冷泉家の御方様。その側遣えの櫻町公暁。鬼火を操る獣と少年。
 どれをとっても奇妙だった。
 そして、そのどれもが何かの前触れのようだった。
「きっと、この土地に漂う不穏な空気のせいですよ。信心深い土地だけに、霊気が研ぎ澄まされ――それ故、異なる《氣》の存在に人々は敏感になります。志木さんは特に感性が鋭いようですね。そのせいで、視なくてもいいような存在に遭遇してしまうのですよ。――強い魔性の気配を感じます。この先、何も起こらなければいいのですが……」
 美人が不安げに相槌を打つ。
 その言葉は、『必ず何かが起こる』ということを予測しているようでもあった。
 柾士は、無言で頷くことしかできなかった。柾士にも感じ取れるのだ。この土地の空気に混ざる異質なものを。
 嫌な予感――不自然に張り詰められた空気。
 それは、惨劇の兆しだった。



     「3.白日夢」へ続く



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Fri
2009.07.24[08:49]
三.白日夢



 朝の冴え冴えとした空気の中に、白い煙が燻っていた。
 志木柾士は、武村家の玄関先に腰を下ろし、細い糸のような紫煙をボンヤリと眺めていた。
 指に挟んでいる煙草の煙が、天高く昇っては消えてゆく。
 晴れた青空を見上げていると、昨夜の出来事が全て夢のように思えた。
 ――ガチャガチャ……バタンッ!
 唐突に隣の勝彦家のドアが開いたので、柾士は驚き、そちらへ視線を流した。
 すぐに、セーラー服が視界に飛び込んでくる。
 長い髪の少女が、スカートの裾を弾ませながら元気よく駆け寄ってくるところだった。
 勝彦の一人娘――従妹の美弥だ。
「おっはよう、柾士おにーちゃんっ!」
「おはよう、美弥」
「玄関前で何してるの?」
「タバコ吸ってただけ」
「あんまりタバコばっかり吸ってると、肺癌になっちゃうよ!」
 美弥は柾士と煙草を見比べながら唇を尖らせる。
「なんないよ。それより、美弥――遅刻じゃないのか?」
 柾士は煙草の火を消しながら、怪訝そうに美弥を見上げた。
 既に時刻は九時を回っている。完全に遅刻だ。
「エヘヘ。寝坊しちゃった」
 はぐらかすように笑って、美弥はペロッと舌を出す。
「じゃ、さっさと行けよ」
「いいの。もう、遅刻してんだから! どうせなら、ゆっくり行くわよ」
「悠長なこと言ってないで、自転車、持ってこいよ。道路まで一緒に出てやるから」
 呆れた眼差しで美弥を一瞥し、柾士は立ち上がった。
 途端、美弥の不思議そうな眼差しが柾士に注がれる。
「一緒に――って、どっか行くの?」
「ああ。散歩がてらに冷泉さんちに行ってこようと思ってね」
「えっ? 安芸くんち!?」
 美弥が大仰に目を丸める。
 そのリアクションに柾士は『おっ?』と眉をひそめた。美弥の口から安芸の名前が出てきたことが意外だったのだ。
「安芸くんのこと知ってるのか?」
「知ってるも何も、美弥、同級生だもん! 去年まで一緒に中学校行ってたんだよ!」
「なるほど。安芸くん、美弥と同じ歳かぁ」
 柾士は安芸の日本人形のような顔を頭に思い描きながら、相槌を打つ。確かに、安芸と美弥は同じ年頃のように見える。二人が同級生でも、何ら不思議はなかった。
「そうなのよ。――あっ、美弥、自転車取ってくるね!」
 美弥は素早く勝彦家の玄関先まで戻り、手押しで自転車を運んできた。
 それを契機に、二人並んで歩き始める。
「そうだ。安芸くんに『今年の誕生日にはちゃんと美弥も呼んでね』って、伝えておいてね」
 美弥が鬱蒼と生い茂る冷泉家の森に視線を当て、思い出したように呟く。
「誕生日?」
「うん。明後日、安芸くんの誕生日なの。毎年、美弥のこと招待してくれてたんだけどね……去年、大切な用事があるからって、ダメになっちゃったの。だから、今年は絶対に呼んでね、って……。安芸くん、去年の今頃から体調悪くしちゃって――美弥、あんまり安芸くんに逢ってないのよね」
 美弥の明るい表情が一瞬にして翳る。
 柾士は、気遣わしげに美弥を見下ろした。
 美弥の言葉から察するに、安芸が《心の傷》を負ったのは丁度一年前のことらしい。
 美弥なら、その原因を知っているのかもしれない。だが、それを尋ねるのは憚られた。美弥を傷付けてしまうような気がしたのだ。
「ちゃんと伝えておくよ。――もしかして、おまえ……安芸くんのこと、好きなのか?」
 特別な意味合いなど無かったのだが、柾士は思わずそんなことを訊いてしまった。
 唐突な柾士の問いに、美弥が微笑む。
「うん。安芸くん、好きよ! 柾士おにーちゃんもね! 美弥、ちっちゃい頃は、安芸くんか柾士おにーちゃんのお嫁さんになるって決めてたもんっ!」
「そりゃあ、光栄だな。あっ、でも、『ちっちゃい頃は』ってことは、今は違うのか?」
「フフン。秘密だよ。柾士おにーちゃんこそ、由香里さん、どーしたの?」
 美弥が得意気に柾士を見上げ、その背中を軽く叩く。
 瞬時、柾士は硬直した。
 美弥の一言が、ザックリと胸を抉ったのだ。
 まさか、美弥の口から《彼女》の名前が吐き出されるとは……。
 美弥が《彼女》を知っているのを失念していた。柾士自身が、電話で何度か《彼女》のことを美弥に教えていたというのに……。
 急激に、目の前が朱に染まる――
 今にも『私はここよ』と微笑みながら《彼女》が現れそうだった。
「柾士おにーちゃん?」
 美弥の声がすぐ傍で聞こえる。
「――あっ……! ああ、何でもない……」
 柾士は、赤い幻影を払拭するように激しく首を振った。
 ゆっくりと自我が戻ってくる。
「変なおにーちゃん? 由香里さんとうまくいってるの?」
「……もちろん」
 ――嘘を吐いた。
 引きつった笑みを浮かべているのを自覚したが、幸いなことに美弥はそんなことなど気にも留めていない様子だ。
「美弥こそ、さっき『秘密』とか言ってたけど、好きな奴でもできたのか? まっ、美弥みたいなじゃじゃ馬には、恋愛なんてまだまだ早いけどな」
 わざとからかうような口調で話を切り替え、美弥の顔を覗き込む。
「失礼ね! 美弥だって、いつまでも子供じゃないんだからね! 好きな人ぐらい、ちゃんといるわよっ!」
 瞬く間に、美弥の頬がプウッと膨らむ。薄紅色の頬が妙に可愛らしかった。
 美弥は、柾士自慢の従妹だ。
 昔から利発的で頭が良く、おまけに顔立ちも整っている。『才色兼備とは、こういうのを言うんだな』と、美弥を見る度に感心させられるのだ。
「おっ! 美弥にもやっと恋の季節がやってきたか! ――で、どんな奴だよ?」
 興味を引かれて、柾士はニヤニヤ笑いながら美弥に問い掛けた。
「教えなーい!」
 美弥がプイッとソッポを向く。
「何だよ、教えてくれたっていいだろ?」
 柾士が食い下がると、美弥はまだ赤味の射している愛らしい顔を柾士の方へと戻した。
「写真あるけど――見る?」
 口許に微笑を浮かべる、その顔が――美しかった。《女》という艶やかな華が咲いていた。
『いつの間に、こんなに綺麗になったんだろう?』と、従妹の成長を喜ばしく思いながら柾士は力強く頷いた。
「見る、見る! 早く見せろよ!」
「じゃ、ちょっとだけね」
 美弥はまんざらでもなさそうに笑み、鞄の中からパスケースを取り出した。
 青い革のパスケースを開くと、すぐに写真が現れる。
 その写真を一目見て、柾士は言葉を失った。
 濃紺のブレザーを着た少年が笑っている。
 その少年に、柾士は逢ったことがあった――昨夜、得体の知れない獣を連れていた少年だ。
 思わぬ偶然に驚き、柾士は写真を鋭く凝視した。
「何よ? そんなに、じーっと見つめちゃって? ――ハイ、もうおしまい!」
 目の前でパスケースが閉じられる。
 美弥は、宝物を取られまいとするように素早く鞄に定期ケースをしまい込んでしまうのだ。
「今のが……美弥の好きな奴?」
 茫然と呟く。
 何かが、物凄くショックだった。
 第六感が警戒音を発していた。
「そうよ」
 美弥が臆した様子もなく答える。
 直後、彼女は照れ隠しのように空を見上げた。
「あ~あ、晴れてるのに、何かヤな感じ。こんなに明るいのに、暗く感じない?」
 美弥は太陽の方に手を翳して、指の隙間から洩れる光に目を細めている。
「……ああ。彼――何て名前?」
 気の無い返事をして、柾士はゆるりと美弥へ視線を投げた。
「え? 由羅よ。ユ・ラ。美弥の大好きな由羅くん!」
 美弥は恋する者の瞳で愛しげに少年の名を口にする。
「そいつ、何者?」
 柾士は猜疑たっぷりの声音で訊ねる。
 あの不可思議な少年の正体を知りたいと思った。
「何者って……? 美弥の好きな人。それだけよ。もう、いなくなっちゃったけどね……」
 不意に、美弥の顔が苦々しく歪む。
「いなくなった? それって、どういう――」
「そろそろ学校に行かなきゃ!」
 柾士の追随を拒むように、美弥は柾士の言葉を遮った。
 助走をつけて愛用の自転車に軽々と飛び乗る。
「由羅くん、去年まで安芸くんちにいたの」
 美弥が漕ぎ出した自転車の上で柾士を振り返る。
「えっ? ちょっと、何だよ、それっ!?」
 自転車で軽快に一般道に飛び出した美弥を、柾士は慌てて追いかけた。
「オイ、美弥っ! 待てって!」
「帰ってきたら話すわよ! それまで待ち切れなかったら――安芸くんち行くんだから、公暁さんにでも訊いてよねっ!」
 美弥が振り向かずに声を張り上げた。
 緩やかな坂道を物凄いスピードで自転車が走ってゆく。美弥の後ろ姿は、遠くなる一方だった。
 柾士は美弥を引き止めるのを諦め、その場に立ち竦んだ。
 美弥の姿が完全に視界から消えた頃、ようやく冷泉家へ赴くために身体を反転させる。
 一歩踏み出したところで、柾士はふと空を見上げた。

 美弥の言う通り、神楽宮周辺は晴れているのに――暗かった……。


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Fri
2009.07.24[22:54]
     *


 冷泉家へ到着すると、すぐに櫻町公暁に出会した。
 彼は、邸内へ入る直前――大きな門の前に一人佇んでいたのだ。
「あれ? 偶然ですね」
 柾士は公暁の姿を発見して駆け寄り、にこやかに挨拶を述べた。
 すると公暁は、ハンサムな顔に微笑を刻み、
「――お待ちしておりました」
 と、鄭重に頭を下げたのだ。
 その瞬間、柾士は驚きにポカンと大口を開けてしまった。
 冷泉家には一言も訪問の旨を伝えてはいない。誰も居なければ、また午後からでも出直せばいいだろう、と気楽に考えていた。それなのに公暁は柾士のことを『待っていた』と言うのだ。公暁の言葉は充分に柾士の意表を突き、そして唖然とさせた。
「よく、オレが来るの解ったね」
 思った通りの疑問を素直に口に出す。
「何となく、そんな予感がしたんですよ。――さあ、こちらへどうぞ、志木様」
 公暁はサラリと質問に応じ、微笑みを浮かべたまま軽く手を差し出した。手の先は、冷泉家の巨大な洋館を示している。その手が身体ごと反転し、黒い門の把手を掴んだ。
 青みがかった石造りの塀は、三メートルほどの高さがある。門は、上部の半円形の膨らみを入れて、三.五メートルもの高さはあるだろう。
 それを、公暁は大して力を入れた様子もなく引き開けたのだ。
 きしりを立てながら門が開く。
 その先に、ドイツ・サンスーシ宮殿を縮小したような、優美なロココ式の白い洋館が悠然と佇んでいた。
 門をくぐり抜けた柾士がしばし壮麗な洋館に見惚れていると、背後でガチャンと門の閉まる音がし、公暁が隣にやってきた。
「珍しいですか?」
「これだけ大きいのはね」
 率直に感嘆を示すと、公暁は笑った。そのまま柾士の前を歩き、ついてくるように促す。
「ねえ、櫻町さん」
 公暁の二、三歩後ろを歩きながら、柾士はしなやかな後ろ姿に声をかけた。
「はい。何でしょうか、志木様?」
 柾士の問いかけに公暁が立ち止まり、振り向く。自然と柾士の顔に苦笑いが浮かんだ。
「あのさ……まず、その『志木様』って、どうにかならない?」
「はぁ……。お気に召しませんでしたか?」
「いや、そーじゃなくって。オレ、『様』なんて呼ばれる立場じゃないからさ」
 ポリポリと指で頭を掻く。公暁のように礼節を弁え、気品を漂わせている青年に、不慣れな呼ばれ方をされると、気恥ずかしくて仕方がないのだ。
「申し訳ありません。ですが、物心ついた時から、人様のことはそうお呼びするようにと躾けられていますので……。できることなら、このまま『志木様』とお呼びさせていただきたいのですが……」
 公暁の表情が曇る。
 その芳しくない表情を目の当たりにして、柾士は慌てて手を振った。
「あー、解ったよ、櫻町さん! もう好きに呼んで! オレが慣れるように努力するよ」
「ありがとうございます」
「いえいえ――そうだ。今日は、嵯峨くんは?」
 一乃が『公暁は嵯峨の側遣え』だと言っていた。単純に『公暁がいるのなら、嵯峨もいるのだろうか?』と疑問に思ったのだ。
「嵯峨様は、吉野家の告別式に出席のため、朝早くからお出かけです」
「そっか。大変なんだね、御方様っていうのも。櫻町さんは傍に付いてなくていいの?」
「別の者が付いていますので。四六時中、嵯峨様のお傍にいるわけではないのですよ」
「そうなんだ?」
「はい。屋敷には、安芸様もいますしね」
 ニッコリ笑って、公暁は止めていた足を動かし始める。
 柾士も自然とそれに倣った。
 長身の黒い影を追いながら、僅かに目を細める。
 美弥の『公暁さんにでも訊いてよね』という言葉が脳裏に甦っていた。
 去年まで、冷泉家に滞在していたという由羅。闇の獣を操る不可解な少年。
 あの謎めいた少年を公暁は知っているというのだろうか?
 由羅と公暁――冷泉家は、どんな関わりがあるのだろうか?
 由羅のことを尋ねるなら、公暁と二人きりの方がいいかもしれない。
「――さ、櫻町さん」
 柾士は、思い切って公暁の背中に強い視線を注いだ。
「何でしょうか?」
 先ほどと同じく、公暁が振り返る。その口許には微笑が浮かんでいた。その典雅な笑みに、柾士はグッと言葉を詰まらせてしまう。
 ――『由羅』って、知ってる?
 そう質問を繰り出そうとしたが、口が巧く動かなかった。脳が反射的に『訊いてはいけない』と、判断を下したのだ。
「あの……えーっと――その、美弥が『よろしく』って!」
 咄嗟に適当な言葉で誤魔化す。
「美弥様が?」
 公暁が不思議そうに小首を傾げた。
「あっ、従兄妹なんだよね、オレたち!」
「ああ……。お二人とも一乃様のお孫さんでしたね。――では、屋敷へ参りましょうか」
 公暁は目を細めて微笑み、踵を返して洋館の玄関へと向かった。柾士も後を追う。
 公暁が開いた白い扉に吸い込まれるようにして、柾士は館の中へと足を踏み入れた。



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Fri
2009.07.24[22:58]
 扉の向こう側は、広いホールだった。
 正面には中世映画にでも出てきそうな豪奢な階段が設えられ、二階へと繋がっている。
「安芸様のお部屋は、あちらになります」
 公暁が階段左脇の廊下を指し示す。
「あまり、人の気配がないんだね?」
 柾士は、物音一つしない館内を珍しそうにキョロキョロと見回しながら質問を投げる。
 これだけ巨大な屋敷なら、沢山の人の気配があってもいいようなものなのだが、不思議なことに冷泉家は静寂を保っていた。
「ええ。ここには殆ど人が住んでいませんので。身内の者は皆、国道沿いの本邸に住んでいますから」
「へえ……。――あっ、でっかい鏡!」
 公暁の後について歩きながら柾士は驚きの声をあげた。
 壁に巨大な鏡を発見したのだ。金細工の縁が美しい、豪華な鏡だ。
「あまり鏡を見ない方がいいですよ。奇怪なものが映るかもしれませんから」
「――えっ? 幽霊とかっ!?」
 公暁の言葉にビクッと身体を震わせる。
「そうですね。昔から『鏡は、あの世とこの世を繋ぐ通路』と言い伝えられているじゃありませんか? 出やすいんでよ。殊に、冷泉の家は『この世に存在しないはずのもの』の調伏を生業としています。それ故、あちら側の住人には恨まれているはずですし――冷泉の者と間違えられて、鏡の世界に引き摺り込まれてしまうかもしれませんよ」
「そ、そうなんだ! 気をつけるよっ!」
 柾士は即座に鏡から視線を離し、一心に公暁だけを見つめようと努める。
 そんな柾士の態度を、公暁が可笑しそうに笑う。
 何か反論しようと口を開きかけた時、公暁の身体が左に方向転換した。廊下が左に折れ曲がっていたのだ。左に曲がって十メートルほど進むと、突き当たりにぶつかった。
「ここが、安芸様のお部屋です」
 その左手のドアを公暁は指で示すのだ。
「安芸様、志木様がお見えですよ?」
 ドアをノックしながら公暁が室内に話しかける。彼は、中からの返事を待たずにドアを引き開けた。
『安芸くんは喋れないんだったな』と中からの返事がないことに疑問を抱かず、柾士は公暁の後ろについて、安芸の自室へ入った。
「――安芸様?」
 ふと、公暁が首を傾げる。
 部屋に安芸の姿はなかった。
 空のベッドが、大きな窓に寄り添うにして淋しそうに置き去りにされている。開け放た窓から風が吹き込み、白いレースのカーテンをヒラヒラと揺らしていた。
「……いないみたいだけど?」
 柾士は不安げに公暁を見上げた。
「ええ。また、抜け出したみたいですね」
「また――って?」
「ちょっと目を離すと、外に出て行ってしまうんですよ」
「どうして?」
「安芸様は――この一年間、殆ど眠っていないのです」
「えっ?」
 公暁の一言に、柾士は険しく顔を顰めた。
「肉体は眠っていても、精神が眠りに就いていないのです。そんな状態の時は、フラフラと外を彷徨い歩いていることが多いのですよ。肉体が目覚めた瞬間に、その時の記憶は消えてしまっているようなのですが……」
「夢遊病みたいなもの?」
「ええ。時折、肉体から精神だけが抜け出して、浮遊していることもあるようです」
「幽体離脱ってヤツ!? そうか――それでかっ! オレね、二日前に安芸くんと逢ってるんだよ! だけど、昨日逢った時に安芸くんはオレのこと知らないみたいで気になってたんだ。……でも――そういうことだったのか」
 柾士は、謎が解けた興奮に一気に言葉をまくし立てる。
 確かにあの日、自分と安芸は出逢っていたのだ。
 安芸の魂は、自分を認めていた。だが、肉体の覚醒と共に、その記憶は失われてしまったのだろう。
「安芸様の……幽体に? だから安芸様は、一目見て志木様を気に入ってしまったのですね」
「え? 安芸くんがオレを気に入ってる?」
「はい。現状の安芸様が、嵯峨様と私以外に口を開くのは稀なことなんですよ」
「そうなんだ。何だか嬉しいな」
「ええ。嵯峨様も私も安芸様の変化を喜んでいます。これも偏に志木様のおかげです。――とりあえず、安芸様が森から出ることはありませんけれど、捜しに行って参ります」
「あっ、オレも一緒に行くよ」
 柾士は、部屋を出ていこうとする公暁を素早く追い掛ける。
 公暁は無言の微笑みで、柾士の同行を認めてくれた。
 二人はそのまま元来た道を引き返し、館の外へ出た。



「あれ? この門、開かないよ、櫻町さん?」
 柾士は、黒い鉄格子のような門に手を掛けながら公暁を顧みた。
 公暁に先立って外へ出たのはいいが、門が開かなくては肝心の森に出ることは不可能だ。
「おっかしいなぁ?」
 柾士は力一杯門を押したり引いたりしてみる。――が、どうしても開かない。公暁が開けた時は、いとも容易く動いたのだが……。
「この門には、冷泉一門にしか開けれられないように特殊な《力》を施してあるのです」
 公暁は、柾士の疑問に応えるように門に手を掛ける。
 ギギギ……と鈍い音を立てて、門は開いた。柾士が渾身の力を込めてもビクともしなかった重い門が、だ。
「へえ、そんなことができるんだ? 冷泉家の特殊能力って凄いんだね。――で、この門を開けられるってことは、櫻町さんも冷泉の血を引いてるってことだよね?」
 柾士は開かれた門を唖然と見上げながら、公暁に問い掛けた。
「ええ。私に限らず、この屋敷の者は全て冷泉の血を引いています」
「嵯峨くんたちとは従兄弟か何かなの?」
「さあ? 冷泉家は、血を絶やさぬために血族結婚を繰り返していますので、婚姻関係が複雑なのです。叔父だと思っていた人間が、実は父親だったり――ということが頻繁にありまして……。そんな御家なので、私は嵯峨様たちとの正確な続柄など気にしたことはありません。まあ、櫻町は分家とはいえ冷泉に次ぐ家柄なので、おそらく血は濃いとは思いますが……」
 公暁が苦笑混じりに応じる。
「複雑な家柄なんだね?」
 ――名旧家っていうのも楽じゃないな。
 感慨深げに胸中で呟き、柾士は公暁を見上げた。
「冷泉の持つ《力》を後世に伝えるためです。仕方がないことなのです。ですが、血が濃すぎるばかりに、血族に執着し過ぎて――狂ってしまう者も中にはいるのですよ」
「――えっ?」
 不意に公暁の顔に翳りが射したので、柾士は驚いた。その言葉の真意を測ろうと、彼を凝視する。だが、公暁の表情はすぐにいつもの曖昧な微笑へと変わってしまった。
「安芸様を捜しに行きましょう」
 一言告げて、公暁は駆け出してしまう。
 柾士は一瞬我を忘れそうになった。
 公暁の言葉が執拗に頭の中を巡る。
 ――狂ってしまう者もいる。
 その一言に、由羅と呼ばれる少年の姿を想起したのだ。
 ――狂ってしまう。
 言葉は不快な澱みを胸へと流し込む。
 狂って――その後は?
 柾士はそれ以上考え込まないようにかぶりを振り、公暁の後を追った――


     *


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Fri
2009.07.24[23:03]
     *
 

 怖い。

 僕は――怖い。

 真っ暗な視界の中で、冷泉安芸は同じ言葉を何度も繰り返していた。
 意識は覚醒しているはずのに、辺りは闇一色だった。
 
 ――怖い。

 眠るのが……怖い。
 眠れば、夢を見てしまう。自分を真の闇に引き摺り込む悪夢だ。
 そして夢の中に現れ、自分を誘うのは――彼だ。
 彼が闇の淵から自分を手招きする。『こっちにおいでよ』と……。
 二日後、十六の誕生日を迎える。
 その時、彼はやってくるだろう。自分を殺しに。
 一年前の同じ日――彼を殺せなかった自分の咎だ。
 ……自分にはできなかった。彼を殺すこと――救うことを。
 彼のことが大好きだから。
 あの日、彼は自分を殺そうとした。自分も彼を殺そうとし――失敗した。
 そのおぞましい事件以来、己が意志で心を閉ざした。
 彼に殺されかけた衝撃。
 彼を救えなかった罪悪感。
 愛する存在を同時に二つも失った痛み――その全てに耐え切れなくて。
 全ての罪が己の薄弱な精神に在ることを、頭では理解している。
 だが、心が現実を拒絶した。真実を否定したがった。だから、心を闇に葬り去った。
 逃げたのだ。

 ――そう、おまえは逃げたんだよ、安芸。

 不意に、誰かが自分を呼んだ。
 足許を見下ろすと、いつの間にか血の池が出現していた。
 深紅の水面に白い華が一つだけ咲いている。

 ――安芸……安芸。

 よく目を凝らして見ると、それは華ではなく人間の腕だった。
 白い手が『おいで、おいで』と手招きしている。
 自分の足が誘われるように前に出るのを、安芸は止められなかった。
『安芸くん! 安芸くん!』
 今度は、別の誰かが遠くで自分を呼んだ。
 それには構わずに、安芸は白い手に向かって一歩、また一歩と進んでいった――


     *



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Fri
2009.07.24[23:06]
     *


「安芸くーん! 安芸くん、何処にいるのっ!?」
「安芸様!?」
 柾士と公暁は、叫びながら森の中を捜索していた。
「ねえ、櫻町さん。安芸くん、いつもはどの辺にいるの?」
「大抵は、この辺りにいるんですけど……」
 公暁が申し訳なさそうに応じる。
 二人は五分以上も森の中を走り回っているのだ。
 だが、安芸の姿は依然として見付からない。
「オーイ、安芸くん! ――っと、うわっ!?」
 何の前触れもなしに脇の茂みが揺れたので、柾士は驚いて立ち止まった。
 ガサガサッ、と木の葉が騒めく。
 咄嗟に安芸だと思った。
「安芸くん?」
 柾士は喜びに顔を輝かせたが、それは一瞬にして落胆へと変わった。
 ニャア。
 可愛らしい鳴き声が頭上から降ってくる。
 直後、木の上から白い物体が飛び降りてきた――子猫のユキだった。
「何だよ、ユキ? ぬか喜びさせるなよ!」
 柾士は不服そうにユキを睨みながら、その身体を腕に抱き上げる。
 ンニャ……ニャア、ニャア、ニャア!
 だが、ユキは柾士の腕から逃れようというのか激しく身じろぎする。
「志木様の猫ですか?」
「う、うん。コラッ、ユキ、暴れるな!」
 ンニャ! ニャア!
 より一層激しくユキは暴れ出す。
 子猫は柾士の腕から擦り抜けると、一回転しながら華麗に地面に着地した。
「変わった猫ですね。人間の言葉が解るというか――何か喋っていませんか、この猫?」
 公暁がしげしげとユキを見下ろす。
「えー? そーかなぁ?」
 柾士は疑わしげな視線をユキへ注いだ。
 ンニャン!
『そうだ』とでも言いたげに、ユキは一鳴きする。その尻尾が勢いよく振られた。
「……『ついてこい』って、言ってるんじゃありませんか?」
 公暁がユキと柾士の顔を交互に見比べる。
「う~ん……まっ、櫻町さんが、そう言うなら……。――ホラ。ユキ、行けよ!」
 柾士は、ユキが人間の言葉を理解しているとは露ほども信じていない。だが、不可思議な能力を秘める公暁の言葉は、素直に信じることにした。
 足先で軽くユキのお尻を突っつくと、子猫は恨めしそうな眼差しを柾士に向け、長い尻尾で柾士の脹ら脛を叩いた。
 それから、柾士の二撃目を怖れるように猛ダッシュを開始するのだ。
「――オイ、ユキッ!」
『可愛くないなぁ!』と胸の内で吐露しながら、柾士はユキを追いかける。公暁も自然と柾士に並んでいた。
 ユキは目的を持って走っているようだ。そこへ二人を導こうとしているのだろう。
 一分も経たない内に、ユキは走る速度を緩めた。
 柾士と公暁も慌てて足にブレーキをかける。
 ニャンと一鳴きし、ユキが右手の草むらを飛び越えた。後から柾士と公暁が続く。
 一瞬後、
「安芸くん!」
「安芸様!」
 柾士と公暁の声が重なった。
 視界に飛び込んできたのは、白いパジャマを身に付けた華奢な後ろ姿。
「安芸くん! 安芸くん!」
 叫ぶ柾士の目前で、安芸がゆっくりとこちらを振り返り――そして、地に崩れ落ちた。


     *



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Fri
2009.07.24[23:11]
     *
 

『安芸くん! 安芸くん!』
 現実の世で、誰かが自分を呼んでいる。
 安芸は、血の池に足首まで浸しながら遠くの声を聞いていた。
 目の前では相変わらず白い手が自分を招いている。

 ――おいで、安芸。

 彼の声が聞こえる。
 大好きな彼が、自分を求めている。
 安芸はその誘惑に負け、止めていた足を一歩動かした。

 ――大好きだよ、安芸。

 白い手が安芸の足首を掴む。

 ――大好きだよ……だから、死んでくれ!

 自分の足首を掴む手の力が急激に強くなったのを感じ、安芸は驚きに目を瞠った。

 ――殺してやる……殺してやる、安芸!

 血まみれの彼が自分を睨み上げていた。
 殺意と憎悪を秘めた二つの目で。
 ――いやだ……!
 安芸は懸命に足を引っ張り上げようとした。
 だが、白い手の力は予想以上に強靱で、微動だにしない。

『安芸くん! 安芸くん!』
 また、別の世界から声が届いた。
 ――いやだ! 僕は……僕は……!
 安芸は血の池の中で腕から逃れようと必死にもがいた。
『安芸くん!』
 誰かが自分を呼ぶ――優しい声で。妙に懐かしく、温かい声音だ。
 ――僕は……怖い。だけど、いつまでも逃げてばかりじゃダメなんだ!
 安芸は心中で叫んだ。
 刹那、思い出した。
『安芸くん!』
 そう呼ぶのが、誰なのか。
 夢の世界で、声の主に出逢った記憶が甦る。
 そうだ。自分は見付けたのだ。
 自分の心を救ってくれる、大切な存在を。
『安芸くん! 安芸くん!』
 自分を深き闇から解き放ってくれようとしている声が聞こえる。
 ――僕に翼があれば……。
 静かに、自分の足首を掴む腕を見下ろす。
 ――この背に翼が戻れば……愛する人が言う『あの日』に還れるだろうか?
 必死に自分の足に縋り付く白い手を見つめ、痛ましげに目を細める。
 ――僕に、翼があれば……!
 噎せ返るような血の匂いを振り切るように、安芸は白い手から視線を引き剥がした。
 ――痛くない、痛くない。
 言葉を繰り返しながら己が額に手を当てる。
 手を引くと、額の中から刃物が現れた。
 三つ叉の変形小刀――中央の刃が一際長い《筆架叉(ひっかさ)》と呼ばれる特殊な武器だ。
 本来、筆架叉は打撃や突きに使用する武器であり、刃は付いていない。だが、安芸の得物は、中央の棒――叉心が両刃となっていた。
 安芸は、この異形の刀を《流星華(るせいか)》と呼称していた。
《流星華》を手に取ると、安芸は鋭利な刃を自分の脹ら脛に押しつけた。
 ――痛くない。……痛くないよ、柾士!
 呪文のように呟きながら、渾身の力を込めて《流星華》の刃を一文字に引く。
 白い閃光が、空ごと肉を断つ。
 骨と肉が切断された感触があり――急激に、脹ら脛から下の足の重みが消失した。
 血飛沫が舞う。
 だが、痛みはなかった。
 身体が血の池に沈んでゆくが、最早それはどうでもいいことだった。
『安芸くん!』
 自分を呼ぶ声の方へ、安芸はゆっくりと首を巡らした。
 突如として、世界が眩く輝く。
 白熱の光世界の中、志木柾士の驚いた顔が見えた――


     *

 
「――安芸くんっ!?」
 地に伏した安芸の身体を、柾士は咄嗟に両腕に抱き上げていた。
「安芸くん?」
 身体を軽く揺すりながら名前を呼ぶが、応えはない。
「安芸様!?」
 公暁が安芸の顔を心配そうに覗き込む。
「安芸くん、大丈夫なの?」
 柾士は一度公暁と顔を見合わせてから、再び安芸に視線を戻した。転瞬――
「……ま……さ……し……」
 安芸の唇が微かに言葉を紡いだ。
「大丈夫。オレならここにいるよ」
「どうやら心配はなさそうですね」
 公暁がホッと安堵の吐息を洩らす。
 同時に、シャリン――と、緩んだ安芸の手から光るものが零れ落ちた。
 地面に落ちたものを公暁が拾い上げる。
 直後、公暁の双眼がスッと細められた。
「これは――《流星華》……。安芸様の神力が戻りつつある――」
 その呟きは小さく、柾士の耳には入らなかった。
 故に柾士は、公暁の手の中で《流星華》が淡い光と化して消滅したことにも全く気がつかなかった。
「安芸くん……」
 柾士はただ、腕の中の少年を限り無く優しく抱き締めていた。


     *



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