ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です

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◆堕天の翼  【長編・完結】

  堕天

▼作品傾向:田舎・鬼・伝説・血族・幼なじみ・美少年▼


  志木柾士は、婚約者の死を忘れるために母方の祖母が住む神楽宮を訪れた。
  そこは、魑魅魍魎退治を生業とする神秘の力を秘めた「御方様」や
  人を喰らう鬼が出没するという「鬼神伝説」の残る不思議な土地だった……。
  長閑なはずの田園地帯で、柾士が視たものは――

  田舎ファンタジー(伝奇風)

  ※R指定はしませんが、流血シーンが苦手な方はご遠慮下さい!
  「鏡月魔境」同様、妖しいシーンがございますので、そちらが苦手な方も……(汗)



【INDEX】 

  ◇序    
  ◇一.微睡み     
  ◇二.邂逅         
  ◇三.白日夢           10 11 12 13 14 15
  ◇四.傷痕       
  ◇五.目醒め           10 11 12 13 14 15 16
             17 18 19 20
  ◇六.飛翔  


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2009.07.21 / Top↑
 序



 怖い。
 眠るのが怖い。
 闇が全てを覆い尽くすから。
 闇が堕ちてくる――血の匂いを漂わせる闇だ。
 自分を喰い荒らす忌まわしき闇……。

 ――眠い。
 だが、眠ってはいけない。

 彼は、夢うつつの状態で己に言い聞かせた。
 眠れば、悪夢を視てしまう。夢に引きずり込まれ、苛まれる。
 囚われ人となることは間違いない。
 
 眠る度に闇に堕ちてゆく。

 心の裡を闇が巣くっていた。
 身体中の細胞を一つ一つ蝕んでゆくような恐ろしい闇だ。

 彼は睡魔と闘いながら、血の闇に怯えるように身を震わせた。

 己の狂気を膨らませる危険な闇――
 これ以上、身を浸してはならない。取り込まれてはならない。

 だが、彼には闇から逃れるための術がなかった。
 翔ぶための翼がなかった。
 翼は無惨にも引き千切られ、既に背から消失している……。

 闇は、いつか完全に彼を狂わせるだろう。
 そうなってはいけないのだ。
 もしそうなれば、今度こそ狂気の世界から抜け出せなくなる。蟻地獄のように……。

 ――眠ってはいけない。

 必死に自分を戒める。
 しかし、彼の意に反するように瞼が重くなり、脳は睡眠を欲する。

 視界が狭まる――閉ざされる。
 微睡みが誘う。

 ――もうすぐ僕は十六歳になる……。

 眠りに堕ちる寸前、彼は朧気にそう思った。
 闇が降りてくる――




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2009.07.21 / Top↑


 一つ、人の心を持ちながら
    人ならざる道を選び

 二つ、二心双面なるは我ら――

 三つ、皆を殺めねば

 四つ、黄泉路へ堕ちてゆく

 五つ、忌まわしき鬼ゆえに

 六つ、骸と化す運命

 七つ、仲間の血を欲し、

 八つ、八つ裂くも我ら――

 九つ、この手で九十九の同胞を

 十で、とうとう鬼姫甦る――


                   



     「一.微睡み」へ続く



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2009.07.21 / Top↑
一.微睡み  



 夕暮れの街を、足速に人々が往来している。
 茜色の夕日の美しさに気付きもせずに、無数の人間が徘徊していた。
 北海道のほぼ中央に位置するA市。
 志木柾士(しぎ まさし)は、正午近くに母方の祖母が住むこの地に到着した。
 五年振りの訪問である。
 柾士は、A市神楽宮(かぐらのみや)に存在する祖母の家で昼食をとった後、JRに乗って三十分――街の中心部へやってきた。
 それからメインストリートである歩行者天国を、もう何時間もブラブラとしている。
 夏と秋の狭間――九月上旬。
 北海道の気候は涼しく、肌に心地好い。東京の蒸し暑さに比べたら、正に天国だ。
 だが、幾ら涼しくても長時間歩けば疲れる。柾士は足を休めようと、側にあったベンチに腰かけた。
 シャツのポケットから煙草を取り出し、口にくわえる。
 火を点けようとしたところで、ふと動きを止めた。
 目が一点に集中する。
 正面のビルに背を凭せ掛けるようにして、一人の少年が座り込んでいたのだ。座っているというよりも、蹲っているに近い。
 長い黒髪に縁取られた、白皙の美貌。
 純和風の顔立ちは、日本人形を思わせる。
 年の頃は十五、六歳だろうか?
 漆黒の闇を想わせる一重の双眸が、じっと柾士を見据えていた。
 ――何……だ……?
 訝しさに目を細める。
 少年の瞳は、生気が全く感じられないほどに冷たく凍て付いている。その空虚な双眸のせいか、死人に視られているような異質感に捕らわれ始めていた。
 ――幽霊?
 考えて、柾士はゾッとした。
 夕方から、そんなものになどご対面したくはない。
 ――早くこの場を離れよう。
 そう思うのだが、身体が金縛りに遭ったように微動だにしない。
 少年に魅入られたかのように動けない。
 額から冷汗が流れ出した時、
 カチャリ……シュポッ!
 隣でライターの点火する音が聞こえた。
 慌てて自分の隣を見遣る。
 身体が動くことを不思議に思ったが、それは脇に立つ人物を目にした瞬間、一気に消え去った。
 男が立っていた。
 柾士とさほど歳の変わらないであろう若い男だ。
 しかも美しい。その美貌の中で、憂いた双眸が妙に印象的だった。
 ――どことなく、壁際で蹲る少年と似ている。
 そこまで考えて、柾士はハッと目を見開いた。
 青年の視線が、幽霊らしき少年の方にピタリと据えられていたからだ。
 視線をビルへと戻す。
 しかし、不可思議な少年の姿は既になかった……。
 ――やはり幽霊だったのだろうか?
 釈然としない気持ちで、隣の美青年を見上げた。
 青年はビルに目を向けたまま、優雅に紫煙をくゆらせている。
 煙草を持つ左手――中指に嵌められた銀細工の指輪が一際目立っていた。
「あっ……あの――」
 柾士は思わず青年に声をかけていた。無性に、自分が今見たものを証明したい気分になったのだ。
「今、あそこに男の子がいませんでしたか?」
 突然の問いかけに、青年は顔色一つ変えなかった。
 奇妙な質問に驚いた様子もなく、探るような眼差しを柾士へ注いでいる。
「いいえ」
 やがて、青年は静かに口を開いた。
「そっ、そうか。錯覚かなぁ? おかしいな。確かに見えた――」
「気をつけて下さい」
 不意に、青年が柾士の言葉を遮る。
「隙を見せると――鬼に喰われますよ」
 柾士は驚きに瞠目し、青年を見上げた。
 言葉の真意が全く解せなかった。それに、初対面の人間にそんなことを言われる所以はないはずだ。
 青年は、それ以上は何も言わずに踵を返し、柾士から離れてゆく。
「――あっ、待って!」
 柾士は立ち上がり、青年の後を追った。
 しかし、青年の姿は何処にも見当たらない。人込みに紛れたとは考えにくかった。忽然と姿を消したのだ。
 ――着いた早々おかしなことばかりだ。
 憮然とした表情で、祖母の家へ帰宅するためにJR駅へと向かう。

 陽が沈みかけていた――


     *



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2009.07.22 / Top↑
    *


 中心部である市街地を離れて車で二十分ほど南下すると、近代的な高層ビルや住宅街はすっかり姿を消し、代わりに広大な田園風景が現れる。
 A市有数の農耕地帯――神楽宮。
 家を構えているのは、殆どが農家だった。
「今年は実りがいいな」
 七十五歳になる吉野静夫は、水田と水田の合間の畦道を歩きながら顔を綻ばせた。
 すっかり暗くなり今は目にすることはできないが、稲の穂は充分に育ち、重い実に垂れ下がろうとしている。
 来月には、水田は美しい黄金色に染め上げられるだろう。
 農家の長男に生まれ、物心着いた時から農作業を見続けてきた静夫にとって、富んだ収穫は何よりの喜びであった。
 広い田畑に囲まれた生活を静夫は大層気に入っていた。
 ――シュッ!
 静夫の視界を何かがよぎったのは、彼が畦道から広い農道に乗り上がろうとした時だった。
 暗闇のせいでよく見えなかったが、確かに何かが目の前を通り過ぎて行ったのだ。
 静夫は動きを止めた。ゆっくりと周囲を見回す。
 視線は、今し方歩いてきた畦道に戻された。
 夜の闇の中に、青白い光が浮遊していた。
 それは、静夫の目の前で二つに分裂し、更には四つに増殖した。

 鬼火だ。

「……不吉だな」
 特別驚くわけでもなく、静夫は忌々しげに顔を顰めた。
 鬼火を見るのは、これが初めてのことではない。湿度の高い水田近くでは時折起こる現象だった。
 静夫が芳しくない表情を湛えたのは、決して恐怖のためではない。『鬼火が出ると不作になる』と、昔から父親に言い聞かせられてきたからだ。
 静夫は、鬼火に背を向けるようにして農道に足を踏み込ませた。
 瞬時、ゾクリと背筋に悪寒を感じて、慌てて振り返る。
 空気が微妙に変化していた。
 凍て付くような冷気が、鬼火の辺りに漂っている。その一角だけ、闇が濃くなったようにさえ感じられる。闇が凝縮されているのだ。
 静夫は声もなくポカンと口を開いた。
 目前の光景が信じられない。
 恐怖に足が竦み、動けない。
 暗黒の闇が何かを形取りながら、静夫へと接近してくる。意志を持って動いていた。
 蠢く闇――その周りを鬼火が飛んでいる。
 闇は、獣の形をしているようだった。
 禍々しい赤い目の、額に角の生えた奇妙な獣。
 獰猛な獣の眼差しが静夫を射た。
 顔が強張る。紛れもない戦慄のためだ。
「……ああっ……うっ……!」
 静夫の口から情けない呻きが洩れる。
 この異様な事態に際してどう対処すべきなのか、彼には全く判断がつかなかったのだ。
 開きっぱなしの口に、ザワザワと波立つ闇が飛び込んでくる。闇の獣が体内に侵入した。
 ドクンッ!
 心臓が跳ねる。
 ドク、ドク、ドクンッッ!
 心臓が膨脹し、一気に破裂するのを感じた。
 一瞬、何もかもが無になる。
 全身の力、そして感覚が抜け出てゆく。

『鬼火を見たら、御方様(おかたさま)に祈れ。さもなければ、鬼神(おにがみ)に喰われるぞ』

 心臓が破裂する寸前、静夫は父から聞いたもう一つの言い伝えを思い出した。
 だが、時既に遅し。
 
 闇の中に、無数の鬼火が揺らめく――


     *


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2009.07.22 / Top↑
     *


 夜の静けさが全てを包み込んでいる。
 隣家の騒めきも、騒々しい自動車や電車の音も届かない。
 志木柾士は、祖母と共にお茶を啜りながら、完璧に近い静寂に感謝していた。
 この閑静な田園地帯には、自分を責め立てるものは何もない。
 母方の祖母・武村一乃は、今年七十二歳。一戸建ての平屋に一人で住んでいる。
 その隣には近代的な二階建ての家があり、一乃の長男・勝彦の一家が生活を営んでいた。
 柾士と一乃は勝彦の家で夕食をご馳走になった後、この家へと戻ってきた。テーブルを挟んで向かい合いながら、お茶を飲んでいる。特別な会話はなかった。
 それが、また有り難い。
 一乃は決して『何があった?』とは訊かないし、柾士も『手首を掻き切った《彼女》』のことなど口にしたくはなかった……。

『ごめんなさい、柾士』

 そう言って、一人で別世界へと旅立っていった彼女の残像が、脳裏に浮かぶ。
 手首から真っ赤な液体を流しながら微笑む彼女。
 その姿が、チラリと心の目に映し出される。
 柾士は心の深淵に潜む幻影を払い落とすように、立ち上がった。
 空になった湯飲みに新たな茶を注いでこようと、茶の間と続きの台所へと向かう。
 ニャア、と可愛らしい声を出しながら、猫のユキが後をついてきた。その名の通り、真っ白な子猫だ。
 急須を手にしたところで、柾士は『おや?』と動きを止めた。窓の外をしげしげと眺める。
 眩い光がキラキラと輝いているのだ。
 幾多もの人工的な照明が、外界を照らしている。
 ――あの辺りは森ではなかっただろうか?
 柾士の記憶の中では、そこは八百メートル四方の森だった。
 確か、その森の左側にもう一つ――巨大な森から切り離されたようにポツンと小さな森が存在しているはずだ。それは、土地唯一の社――『神楽宮神社』の境内だ。だが、神社の灯りがこんなに明るいはずがない。柾士が目にしているのは、紛れもなく広大な森から洩れる灯りだった。
 昼間は気づかなかったが、森の中心部には巨大な家屋が構えられていた。
 五年前に遊びに来た時には只の森だったのに、現在は誰かが住んでいるらしい。
「おばーちゃん。あそこ、誰が住んでるの?」
 柾士は疑問をそのまま口にした。
「御方様(おかたさま)が住んでるんじゃよ」
 一乃が誇らしげに言う。
 柾士は僅かに首を傾げた。
『御方様』という単語の意味を思い出すのに、しばし時間を要したのだ。
「御方様? ――あっ、ああ、冷泉(れいぜい)さんちね」
 ポットのお湯を急須に注ぎ、一人頷く。
 この神楽宮で『御方様』というのは、冷泉家の当主のことを指す。

 室町時代――屯田兵による開拓が始まる遙か以前に、本州の何処からこの地にやってきた冷泉一族。
 その歴史は、一千年以上昔に溯ることができるという、名だたる旧家だ。

 土地の者が冷泉の当主を『御方様』と呼ぶのは、名家の主だからだというだけではない。
 冷泉の血を引く者には不思議な能力が備わっている、と伝えられるからだ。魑魅魍魎・物の怪など、古くから人間を脅かしている特異な存在を打ち倒すための稀有な力があるというのだ。当主は一族の中でも類い稀な力の持ち主であり、土地の者は憑き物や厄災に苦しめられると、必ず助けを求める。すると不思議と憑き物は落ち、災いは祓われるのだ。
 神楽宮では『冷泉様がいるから土地は安泰している』と信じ、崇められている。
 冷泉家は土地の守り神であり、故にその主は『御方様』『鎮守様』と敬称されているのだった。
 柾士は幼い頃、よく一乃の家に遊びに来ていた。その度に『御方様』の話を聞かされたので、土地の者でもないのに今でもしっかりと冷泉に纏わる伝承を覚えている。
 近代的な時代となった今では、冷泉家に纏わる伝承は一乃のような歳を経た者しか信じなくなっている。
 だが、古き名家・冷泉に対する称讃と畏敬の念は薄れてはいなかった。その真の意味こそ知らないが、人々は尊敬を込めて冷泉の当主を『御方様』と呼ぶのである。
「何で、うちの近くに引っ越してきたの?」
 その場で煎れたばかりのお茶を一口飲んでから、柾士は質問を続ける。
 冷泉家は、ここから二キロばかり離れた国道沿いに巨大な屋敷を構えていたはずだ。
「二年前に先の御方様が亡くなって、御子息様が後を継いでなぁ……。新しい御方様が昔のお屋敷を親戚の者に預け、うちの隣に新たなお屋敷を建てたというわけじゃ」
「へえ、代替りしてたんだ」
 柾士は初めて知る事実に妙に感心しながら、茶の間へと戻った。その後ろを、チョコチョコとユキが付いて歩く。柾士が座ると、ユキはその膝の上で丸くなった。
「今の御方様って、どんな人?」
「当代様か? お若い方でな。まだ十九ではなかったかな? それはもう、神の化身のようにお美しい方じゃ――わしらとは違う世界の人間じゃよ」
「ふ~ん。そんなに綺麗なんだ」
 一乃の絶賛振りに軽く相槌を打ち、湯飲みに口をつける。
 転瞬、膝の上のユキがピクリと耳を立てた。素早く柾士の膝から飛び降りる。
 フーッッッ!
 ユキの喉から威嚇するような声が吐き出された。
 尻尾がピンと立ち上がり、全身の毛が逆立っている。
「――ユキ?」
 柾士は、子猫の突然の豹変に驚きながら小首を傾げる。
 緊張と警戒を漲らせたユキの目は、茶の間の大きな窓へと向けられている。
「何かいるのかな?」
 カーテンの閉められている窓とユキに視線を流してから、柾士は腰を上げた。窓際に移動し、カーテンに手を触れる。
 フゥーッッッ!
 ユキが更に凄まじく唸る。
 柾士は一瞬伸ばした手を引っ込めたが、思い直してカーテンを握る。ガバッと勢いよく引き開けた。
 夜の闇と点在する民家の灯りしか見えない。
 何も異常は感じられない。ごく普通の夜の光景だ。
「何だ。何もいないじゃ……ない――」
 言いかけて、柾士は途中で言葉を切った。
 自然と顔が強張る。
 突如として、夜の闇に不思議な光が出没したのだ。
 遠くに、青白い炎のような発光体が次々と浮かび上がる。
 一つ、二つ……と奇妙な光は徐々に数を増してゆく。
 ユラユラと揺れる青白い炎。それが無数に立ち並び、闇を照らし出している。
 暗暗とした夜に浮遊する数多の怪火。
 ――葬列のようだ。
「おばーちゃん、あれは!?」
 ゴクリと唾を呑み込みながら、一乃を振り返った。
 一乃も自分同様、驚いているものと思ったのだ。だが、彼女は至って冷静だった。皺の多い顔は平静さを保っている。
「……《狐の嫁入り》じゃな」
「えっ?」
 耳慣れぬ言葉に目をしばたたかせた時、玄関のドアが開閉する激しい音が聞こえた。
「柾士おにーちゃん、見て見て! 《狐の嫁入り》よ!」
 バタバタバタッという慌ただしい足音と共に、髪の長い少女が茶の間に飛び込んでくる。
 隣の勝彦の一人娘――美弥(みや)。柾士にとっては従妹に当たる少女だ。
「……なんだ。もう見てるの?」
 柾士がカーテンを開けているのに気づき、美弥がつまらなそうに呟く。
 美弥の顔にも、一乃と同じく驚いている様子は見受けられなかった。あの不気味な炎の連なりは特別珍しくもなく、奇怪でもないらしい。
「《狐の嫁入り》って、何?」
 訳が解らずに、柾士は茫然と尋ねた。
「ここら辺の田舎ではたまに出よる。嫁入り行列に見えるじゃろう?」
 一乃はその場に座ったまま、じっと遠くの不可思議な炎を見つめていた。
 青白い怪火の群れ――妖しくも美しい行列は、確かに華やかな嫁入りを連想させる。
「《狐の嫁入り》は、誰かが死んだ時に出よる鬼火じゃよ。……誰か、死んだかのう?」
 心配そうに一乃が呟く。
 柾士は、揺らめく青白い鬼火の群れから視線を逸らせなかった――



     「二.邂逅」へ続く



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2009.07.22 / Top↑
二.邂逅



 森は、昏い静けさに包まれていた。
 明度が悪いわけではない。辺り一帯を暗鬱とした空気が漂っている。そのせいで、碧落にも拘わらず森は昏かった……。
 少女は虚ろな瞳を漂わせ、人気のない森の中をゆっくりと歩いていた。
「一つ、人の心を持ちながら、人ならざる道を選び――二つ、二心双面なるは我ら」
 少女の唇から低い呟きが洩れる。
 紡がれる言葉は、抑揚の少ない旋律に乗っていた。
「三つ、皆を殺めねば……四つ、黄泉路へ堕ちてゆく」
 言葉を繰り出す少女の眼差しは、常闇のように暗く、冷たい。
「五つ、忌まわしき鬼ゆえに……六つ、骸と化す運命。七つ、仲間の血を欲し、八つ、八つ裂くも我ら……。九つ、この手で九十九の同胞(はらから)を、十で、とうとう鬼姫甦る――」
 夢現のように口ずさんでいた謡がフッと途切れる。
 少女は徐に足を止めた。
 すぐ傍の茂みから白い人影が現れたからだ。
 白い衣服を纏った少年だった。純白の出で立ちが、少年の長い黒髪を際立たせている。
 漆黒の双眸が少女を捉えた瞬間、少女は弾かれたように駆け出していた。
 少年に抱きつき、両腕を白い首に回す。
「昨日、《狐の嫁入り》が出たのよ。また誰か死んじゃったわ。あたしたちのせいで……」
 今にも泣き出しそうな表情で、少女は少年を見つめた。
「どうすればいいの? どうすれば、終わりにできるの……。ねえ、教えてよ!」
 答えを求めるように少年の身体を強く抱く。
 だが、少年からの応えはなかった……。
「あたしたち、何を間違ったの? どこで光を見失ったの? 一年前に戻りたい。帰りたい。……帰りたいのよ」
 掠れる声で囁き、少女は物言わぬ少年の背に手を滑らせた。
 愛しげに背を撫でる。
「いくら確かめても、あなたの背には翼がない……。もう翼は戻らないの? あなたの翼があれば――あたしたち、元に戻れるかもしれないのよ。帰れるかもしれないのよ、あの日に――」
 少女は哀願の瞳で少年を見つめた。
 少年の極端に生気の薄れた双眸が、少女を捉える。
 人形めいた唇が、音を成さずにゆっくりと動いた。

 ――アイシテル。

「今、そんなこと言わないで……。その言葉はあたしじゃくて、あの人に言ってあげてよ。――お願い。思い出して。ねえ、思い出してよ! 翼を取り戻してよっ!」
 少女は責めるよう声音で言葉を投げつける。
 ふと、少年の手が少女の頬に伸ばされた。
 冷たい指先が少女の頬を愛撫する。
 赦しを請うようなその仕種に、少女の胸は痛切な悲鳴をあげた。
 少年を責める権利など、少女には欠片もないのだ……。
「ごめん……ごめんね。でも、このままだとみんな地獄に――闇に堕ちるわ。あたしじゃダメなの。あたしには闇を払拭できるほどの《力》がないの。あなたにしかできないの。だから、思い出して。お願いだから、眠りから醒めてよ。あたしは、ただ戻りたいだけなの。帰りたいのよ……帰りたいの――」
 少女は込み上げてくる涙を抑えるように、少年の胸に顔を埋めた。
 相変わらず、少年は一言も言葉を発しない。
 白い腕が限りなく優しく、愛おしく、少女を抱き締めた――


     *


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2009.07.22 / Top↑
 晴れた青空が広がっている。
 澄み切った清々たる空気が心地好い。
 早朝の空気を肺の奥まで吸い込みながら、志木柾士は森の中を当てもなく歩いていた。
 松や杉、白樺が秩序なく生え茂る雑木林を物珍しげに眺める。
 東京では滅多にお目にかかることのできない自然の緑だ。冷泉の屋敷に続く一本道を無視して、わざと道なき所を歩いているのは、自然に触れたいがためだ。
 自然の中に帰化してしまいたい。
 心を浄化してほしい――されたい。
 朝の清澄な空気ならば、自分の心に宿る暗い影を拭ってくれるのではないか、と思ったのだ。たとえそれが錯覚だとしても、一時は《彼女》のことを忘れさせてくれる……。
「あっ……と――」
 不意に、柾士は足を止めた。
 目前に、石造りの高い壁が出現したからだ。
 上を仰ぎ見ると、巨大な洋館が半分ほど姿を覗かせていた。
 気づかない内に、冷泉の屋敷まで来ていたのだ。
 柾士は急に現実に引き戻されたような気がして、肩を竦めた。
 青みがかった石の塀に沿って歩き出す。
「――七つ、仲間の血を欲し、八つ、八つ裂くも我ら……」
 数歩進んで、柾士は再び歩みを止めた。
 森の中から若い女の声が聞こえたからだ。
「九つ、この手で九十九の同胞を、十で、とうとう鬼姫甦る――」
 意味不明な言葉の羅列にしか聞こえないが、それは何かの詩のようだった。
 歌声の発生源を求めるように、周囲に首を巡らす。
 すぐに、セーラー服を着た少女が茂みから現れるのを確認した。
 従妹の美弥だ。
「あっ、柾士おにーちゃん! おっはよう!」
 柾士の姿を発見した美弥が、いつもの明るい調子で駆け寄ってくる。
 柾士の目前で立ち止まると、美弥は元気一杯に微笑んだ。
「何だ、美弥も散歩に来てたのか」
「あれ? 柾士おにーちゃんも散歩なの?」
「そのはずだったんだけど、迷ったみたい」
「マヌケね。美弥、学校あるからもう戻っちゃうけど……まだ散歩するなら、塀沿いに進めばいいよ。冷泉さんちの広場に出るから」
 呆れ顔で柾士を一瞥した後、美弥は素早く踵を返す。
「あっ、ちょっと待て! さっきの歌、おまえだろ? あれ、何の歌?」
 咄嗟に、先刻耳を掠めた歌のことが脳裏をよぎった。
 歌声の主は、間違いなく美弥だろう。
 あの不可思議な言霊は、何を意味しているのだろうか?
 これまで一度も聴いたことのない旋律だった。
「同族殺しの謡よ――」
 柾士の問いかけに、美弥がピタリと足を止める。振り返らずに彼女は淡々と応えた。

 同族殺し。

 不吉な意味合いを含んだ言葉を、柾士は胸中で反復した。美弥が紡いだ歌に、そんな凄惨な言霊が宿っていることが心を不安にさせる。
 一体、何処から発祥した歌だというのだろうか?
「何だよ、それ」
「知らなーい。だって、おばーちゃんからの受け売りだもん」
 美弥がクルリと身を返し、満面の笑みを向けてくる。
「神楽宮に伝わる、古くからの謡なんだってさ。同族を九十九人殺すとね、鬼神様が復活するんだって。バッカよねぇ。今時、そんなの信じる人なんかいないのに」
 明るいサバサバとした口調で、美弥が言を連ねる。
「下らない謡よ」
 そう締め括り、美弥は『じゃあね』と軽く片手を振る。
 そして今度こそ森の中へと姿を消してしまった。
「変な奴……」
 首を捻りながら、柾士は方向転換する。
『帰りはちゃんとした道を歩こう』と、美弥の指示通り、壁沿いに歩み始める。
 美弥の歌が心の端に引っかかっていた。
 同族殺し――そう告げた時の美弥は、いつもの明朗さを潜め、自嘲気味な感じがした。
 あれは単なる杞憂だろうか?
 信じていない素振りをみせていたが、美弥のそんな態度を素直に受け止めることができなかった。
 歌の真意も《鬼神》のことも、柾士には全く解せない。
 自然は好きだが、田舎の古い因習だけは苦手だ。
 自分には理解の及ばない事物が多すぎる――故に疎外感が芽生えるのだ。
 従妹の言動に釈然としないものを覚えながら、柾士は森を歩き続けた。



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2009.07.22 / Top↑
 果てなく続くような長い塀に沿い、柾士は歩いていた。
『何処まで続くんだ?』と半ばうんざりした頃に、急に視野が開けた。
 林立する木々が中断され、広い空間が現れる。
 冷泉家の正門前に辿り着いたのだ。
 一本道は、門の前で大きく半円形状に膨らみ、小さな広場を造っている。中央には洋風の街灯が聳えていた。
 そして――
「えっ……!?」
 柾士は目を疑った。
 何度か瞬きを繰り返す。
 街灯に凭れるようにして、一人の人間が立っていた。
 白いパジャマと流れるような黒髪が、鮮やかに視覚を刺激する。
 見た瞬間、女性だと思った。だが、そうではない――少年だ。
 その容貌には見覚えがあった。忘れもしない。昨日の夕刻、街で見掛けた非現実的な少年だ。恟然と少年を凝視する。
 ――幽霊? いや、違う……。
 少年は現実に生きている。昨日は幽霊めいた感じを受けたが、今はちゃんと生あるものの気配がする。生きて、呼吸している。
 柾士はゆっくりと少年に近寄った。
 少年が柾士に気づき、俯き加減だった顔を上げる。一重の双眸が柾士をじっと見つめていた。その細い首が微かに傾げられる。見知らぬ人間を発見して驚いているようであった。
「……君」
 柾士は、そっと少年に呼びかける。
 あの時の幽鬼のような少年が、すぐ傍にいる――何とも奇妙な感覚だった。
「君。昨日、オレと逢わなかったかい?」
 柾士の問いかけに、少年はキョトンとした表情を見せた。
 無言で『あなたなんか知らない』というように、首を横に振る。
「夕方、街にいただろ?」
 それでも、柾士は質問を繰り出した。
 瞬時、少年の顔に翳りが走る。不審と驚愕が相俟った微妙な表情。見る見る内に少年の顔は蒼白になった。不安のためか、目が大きく見開かれる。もう一度、首を横に振って、少年は唐突に身を翻した。
「あっ! 君っ!」
 柾士は咄嗟に少年の細い腕を掴んでいた。
「……い……やっ……」
 少年が振り返る。その口許が歪み、引きつった。
 何か言いたいが、それをうまく口に出せないようだ。
「……い…や……」
 少年は、ひたすら首を横に振り続けている。瞳は、今にも泣き出してしまいそうに潤んでいた。
 柾士は困惑した。少年の過剰な反応に、どう対処していいのか判断をつけかねたのだ。
 困窮し、眉をひそめた時、
「――安芸?」
 澄んだ声が耳に届いた。


 ギギギギギ……と、門の開く重々しい音がした。
「――安芸?」
 美声と共に、門から黒衣の影が現れる。
 スラリとした痩身の少年だった。
 少年は、濡れたような黒髪を軽く手で掻き上げながら、こちらに歩み寄ってくる。
 間近に迫った少年を見て、柾士は思わず息を呑んだ。少年の整いすぎた容姿に驚いたのだ。
 大きな二重の双眸に、筋の通った高い鼻梁。
 彫りの深い顔立ちは、何処か異国めいている。
 顔立ちは似ていないのに、醸し出す雰囲気が、腕の中の少年と酷似していた。
「安芸」
 黒衣の少年が、静かに言葉を紡ぐ。途端に、腕の中の少年が彼に駆け寄った。『安芸(あき)』というのが、少年の名なのだろう。
「弟が何か失礼をしましたか?」
 黒衣の少年が、安芸の髪を撫でながら当惑したような表情を柾士に向けてくる。
『弟』というからには、二人は兄弟なのだろう。『美形兄弟だな』と妙な感嘆を抱き、柾士は黒衣の少年に視点を定めた。
「いえ。オレが驚かせてしまったみたいで……。少し話をしたかっただけなんだけど……」
 言い訳のように言葉を付加する。
 転瞬、黒衣の少年の顔が曇りを帯びた。
「そうですか……。申し訳ありません。弟は喋れないのです――心の病気なんです」
「えっ!? あっ、その……」
 驚愕に目を開き、口を噤む。良心が痛んだ。踏み込んではいけない領域に、不粋にも足を突っ込んでしまったような気がしたのだ。
 柾士は安芸に視線を据え、痛ましげに目を細めた。
 心の病気――心の傷。
 精神の奥底に眠る恐怖と狂気。
 ――自分と同じだ。心に闇を飼っている。
 胸が、心が、痛烈な悲鳴をあげた。
 無意識に、脳裏で嫌な映像が再生される。

 赤い、赤い、真っ赤な液体。
 《彼女》の白い手首から溢れ出す、赤い、赤い――

 急激に、視界が朱に染まる。

「――どうしました?」
 黒衣の少年が、心配そうに言葉を紡ぐ。
「あっ……いえ、その……」
 唐突に現実に引き戻され、柾士はしどろもどろに応じた。
「弟のことは気にせずに」
 黒衣の少年が、柾士を気遣ったように短く述べる。その傍らで、安芸がじっと柾士に視線を注いでいた。
「嵯峨様、お時間ですよ」
 不意に別の声が割り込んできたので、柾士は心臓を跳ね上がらせた。いつの間に現れたのか、一人の青年が近くに立っていたのだ。
「ああ。行かなきゃね、公暁」
 黒衣の少年――嵯峨(さが)が軽く頷く。
「申し訳ありませんが、これから葬儀の取り決めがありますので」
 丁寧な口調で述べながら、嵯峨が柾士に頭を下げる。
 柾士は軽く眉根を寄せた。嵯峨と青年――公暁(くぎょう)が喪服を着用していることに、初めて気がついたのだ。
 瞬時、不吉な鬼火が脳裏で青白く揺らめく。『誰か、死んだかのう?』という、一乃の呟きが耳の奥で谺した。
「誰か、亡くなったんですか?」
 不躾にも、柾士は素早く訊き返していた。
「はい。吉野家の静夫様が、昨夜お亡くなりになったのです」
 答えたのは、公暁だった。
『吉野静夫』という名には、聞き覚えがある。確か、一乃と仲の良かった老人だ。一乃も葬儀に参加するに違いない。
「そうですか。じゃあ、オレも帰ります」
 身を反転させようとした柾士だが、思いがけずそれを阻止されて、驚きに目を丸めた。
 安芸がシャツの袖を引っ張っていたのである。
「……いた…く……な…い……」
 白い手が柾士の胸に添えられる。
「えっ?」
「……い……た……く……な…い……?」
 安芸が懸命に唇を動かす。
 唐突に、柾士は泣きたい気分になった。
 安芸は、柾士の心の傷のことを指摘しているのだ。
 精神を侵した深い溝は病まないのか――と……。
 どうやって安芸が柾士の心の奥底に潜むものを見透かしたのかは、知らない。だが、安芸の双眼に柾士の《傷》が映し出されているのは、間違いないようだった。
「大丈夫。痛くないよ……。オレは痛くない――君も、きっと痛くなくなるはずだよ」
 心の傷は癒えやしない。
 だが、痛くない振りはできる。『痛くない』と思い込むしかないのだ。自己催眠のように。
 それ以外に苦痛を無いものとする術を、柾士は知らなかった。
「……いた…く……な……い……?」
 安芸は柾士の胸から手を離し、それを自分の胸に押し当てた。その顔に笑顔が浮かぶ。
「痛くないよ」
 柾士は微笑みながら言葉を繰り返した。気休めでしかない言葉だが、安芸が少しでも『痛くない』と思ってくれるのなら、それでいい。
「失礼ですけど、お名前を伺ってもよろしいですか?」
 ふと、嵯峨の真摯な眼差しが柾士に据えられた。
「あっ、オレは、志木柾士。隣の武村一乃の孫です」
「ああ。武村さんの。もしよろしければ、時々、安芸――弟と遊んでくれませんか?」
「えっ? いいですけど。どうせ暇だし……」
 断る理由などなかった。神楽宮に滞在する期間は、はっきり言って無期だ。その間、特別することもない。
「ありがとうございます。――あっ、まだ、僕は名乗っていませんでしたね」
 自分の非を確認するように嵯峨が言う。彼は、安芸の肩に手を回しながら言葉を続けた。
「僕は安芸の兄で、冷泉嵯峨と言います」
「冷泉……嵯峨――!?」
 柾士は訪れた衝撃をそのままに、唖然と告げられた名を復唱した。一乃が絶賛するほどの美貌の持ち主――若き冷泉家当主。十九歳という年齢は、目の前の少年と合致する。
「お、おっ、御方様ぁぁっっ!?」
 行き着いた解答に、柾士は悲鳴に近い叫びをあげていた。
「はい。僕が、七十七代目冷泉家当主――冷泉嵯峨です」
 愕然とする柾士を尻目に、嵯峨が悠然と微笑を湛えた。


     *



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     *


 木々の緑が眩しい。
 時折訪れる微風が、梢をサワサワと揺らしている。
 柾士は、興奮状態で森の中の一本道を辿っていた。
 つい先刻目にした冷泉兄弟のことが忘れられなかった。
 古き血統故か、摩訶不思議な能力を備えているという冷泉一族。
 秘密と謎に満ちた貴き一門。
 直系の兄弟は、神秘的な壮麗さを全身から放出させていた。
「何か、近寄っちゃいけない感じだよな」
 呟きながらも、柾士の顔は弛緩していた。
 柾士は、嵯峨から『いつでも屋敷に遊びに来て下さい』と、喜ばしい言葉を賜ってきたのだ。当主直々のお招きだ。冷泉家へのフリーパスを手に入れたも同然である。
 冷泉の森を抜けると、百メートルほど先に祖母の家が見えた。
 柾士は清々しい青空を見上げ、深呼吸した。
 一服しようと、傍に放置されていた丸太の上に腰をかける。
 シャツのポケットから煙草とジッポを取り出す。
 煙草の箱を開けて、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
 中が空だったのをすっかり忘れていたのだ。
 己の迂闊さに舌打ちを鳴らした時、
「――どうぞ」
 静かな声と共に、目の前にスッと煙草が差し出された。
 何気なくそれを受け取る。
「ありが……と――ええっ!?」
 素直に感謝しかけて、柾士はギョッとした。
 ――人の気配なんて全くしなかった 
 慌てて立ち上がり、勢いよく飛び退く。
「……酷い反応ですね」
 大して『酷い』とは思っていないような、冷静な声音が柾士に投げられる。
 眼前に一人の青年が佇んでいた。
 彼は至って平然とした態度で、自分の口にくわえている煙草に火を点ける。
「なっ、なっ、何でっ!? 君は昨日の――」
 柾士は貰った煙草を地面にポタリと落としながら、驚愕の眼差しを彼に注いだ。
 昨日の青年だった。
 街で、意味不明の言葉を残して忽然と姿を消した、あの青年だ。
「ええ。昨日、お逢いしましたね」
 青年が再び煙草を柾士に手渡す。
 茫然と柾士が煙草をくわえると、ライターで火を点けてくれた。端整な顔立ちは、あくまでも平淡としている。
「あ、あっ、逢ったけど、どうして君がここにいるの? 昨日といい今日といい、何でいきなりオレの前に現れるんだよ?」
 柾士は混乱を隠せずに、喚くように青年を問い詰めた。
 青年は二度も気配を感じさせずに自分に近寄っているのだ。驚くな、と言う方が無理である。
「たまたま、通りかかっただけですよ」
 青年が軽く肩を竦める。そんな動作でさえも、洗練されていて流麗だった。
「嘘だ。君はオレをつけてるだろ? 何かオレに恨みでもあるのかっ!?」
 初対面同様の青年に向かって、柾士はビシッと人差し指を突きつけた。
 柾士の脈絡のない言葉に、青年が口許に微かな笑みを閃かせる。
「……面白い発想をする人ですね。本当に偶然なんですけれど。――鬼の気配を手繰ってきたら、ここに辿り着いただけですよ」
 意味深に述べながら、青年は冷泉家の方へ軽く視線を流した。
「えっ?」
 柾士は訝しさにきつく眉根を寄せた。
 鬼。
 確か、昨日も青年は言っていた。
 鬼に喰われますよ――と。
「鬼って……?」
「さあ? 僕も、まだ姿を見ていませんから。そのうち解るでしょう」
 青年はシャツのポケットらから携帯灰皿を取り出すと、煙草の吸い殻をそこへ放り込んだ。流れるような動作で、また灰皿を仕舞う。
「よく解んない人だな」
 怪訝な眼差しで青年を見遣る。彼の言葉はいつも理解不能だ。
「こんな田舎に何しに来たの?」
 馴れ馴れしく柾士は尋ねた。
 不思議と、怪しい青年に対して嫌悪感は湧いてこなかった。
 質問したのは、青年から《都会の匂い》を嗅ぎ取ったからだ。同じ都会に住んでいた柾士だからこそ察することができる。
 青年は、この田園地帯の中で浮いていた。浮世離れしたような青年に、この神楽宮はそぐわない。
「鬼退治に――」
 冗談のようでもなく、青年が平然と告げる。
 右手が、左の中指に嵌められている銀細工の指輪を大切そうに撫でていた。
「鬼を捜してるんです」
 繰り返される言葉。
 青年の整った顔を薄い笑みが彩っていた。ゾッとするほど美しく冷たい微笑みだった……。
「名前……名前、訊いてもいいかな?」
 相変わらず理解不能な青年の言葉を無視することに決め、柾士は次の質問を続けた。
『また逢える――逢いたい』という気持ちが、そうさせた。
 青年の瞳が指輪から柾士に移される。彼は当惑したように首を傾げた。
 しばしの沈黙の後、彼は決断したように口を開いた。
「……ヨシヒト」
 美貌に物憂げな微笑みが広がる。
「有馬美人――」


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