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ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です
Sat
2009.05.23[16:10]
 水柯は充が消えたドアに目を向け、肩をすぼめた。
 自然と直杉と視線がかち合う。
「なまじ美男子に生まれてしまうと苦労が絶えないものだな。園田も田端も」
 直杉が率直な見解とも嫌味ともとれる発言をしながら、こちらへやってくる。
 すかさず樹里が彼女を上目遣いに眺め、皮肉を放った。
「徳川もな」
「ナオちゃんは美男子じゃなくて美少女よ!確かに、男装の麗人めいたところはあるけどね。あっ、でも、樹里とナオちゃんを並べたら、どっちが男か女か判らないかも」
 水柯は樹里と直杉を交互に見遣った。
 二人とも至極端整な顔立ちをしているから、髪型や服装次第では男女どちらの性別にも変身できるような気がする。
「そうだ! 今度二人をモデルにして、可愛い少年とハンサムな少女のラブロマンスでもマンガにしようかな」
「頼むから止めてくれ。それに、そのネタ、ありきたりじゃないか?」
 妄想世界に魂を奪われつつある水柯を見咎めて、樹里が心底嫌そうに言葉を口にする。
「ほっといてよ。樹里にマンガのこと、あれこれ言われたくなーい」
 水柯が唇を尖らせて抗議すると、樹里からは呆れた眼差しが返ってきた。
 そんな二人を見て、直杉が微笑する。
「そのマンガ、出来上がったら是非読ませてもらいたいものだな」
「オイ、水柯がその気になるから社交辞令でも言うなよ。例えマンガでも徳川とロマンスなんて冗談じゃない」
 ギョッとしたように樹里が目を丸める。
「創作なのだし、構わないではないか。水柯に抗議するのは、完成した作品を読んでからでもいいだろう。――では、私は部活があるので失礼させてもらうぞ」
 樹里の不満を軽く受け流すと、直杉は流麗な動作で踵を返した。
「部活って――今日は九月九日だぞ」
 樹里が訝しげに眉根を寄せる。
 九月九日。
 樹里の口から飛び出した言葉に、水柯はハッと目を見開いた。
 心臓が大きく脈を打つ。
 今朝感じたのと同種の胸騒ぎを覚えた。
 水柯は不安に表情を翳らせ、樹里を見遣った。
「ねえ、今日って何の日――」
 問いかけを発したのと同時に、校内放送のチャイムがスピーカーから流れ出した。
 クラスメイトたちの視線が、黒板脇に設えられたスピーカーへと集中する。
『お知らせです。今日は一斉下校日です。生徒の皆さんは午後四時までに速やかに下校して下さい。なお午後六時以降、当学園は完全に封鎖されますので、忘れ物等ないように気をつけて下さい。繰り返します――』
 放送部員の無機質なアナウンスがスピーカーから発せられた。
「あっ、そうか! 九月九日、水妖伝説だ」
 不意に、水柯は全てに納得がいってパンッと両手を叩き合わせた。
 朝から胸中にわだかまっていた、もやもやした黒い霧のようなものが瞬く間に消え失せる。
「今日は伝説の日だったのね」
「伝説というか、単なる噂だけどね。誰も水妖なんて見たことないんだから」
 樹里が素っ気なく告げる。その口調から、伝説を全く信じていないことが窺えた。
「毎年九月九日、その日が月のない夜ならば、中庭の噴水から水の化け物が出てくる――信じるに値しない下らぬ伝承だな」
 直杉も端から伝説を信用していないらしく、否定的な見解を述べる。
 水柯は頷きで同意を示した。
 樹里や直杉の言う通り、馬鹿げた噂だ。
 信憑性が全くない。
 幼稚な怪談か質の悪いお伽話の類だ。
 そもそも、学園側が伝説を真に受けていること自体おかしいのだ。
 真実味のない噂話に対して、学園封鎖という徹底した手段をとる必要性を見出せない。
「うちの学園では心霊現象が多発してるらしいけど、そんなのどこの学校にでもあることだろ。学園の七不思議とかはさ。一々相手にしてるのは、この学園ぐらいだよ」
「うむ。幽霊が出没するという噂は多々あるようだな」
「――幽霊?」
 水柯は首を傾げた。
 常日頃からマンガに意識を奪われているので、女の子たちが好むような噂話には疎いのだ。
「九月に入ると旧校舎での幽霊目撃談が急増するそうだ。誰もいないはずの美術室から女の啜り泣きが聞こえてきたり、廊下に赤子の泣き声が響いたりするらしい。昔、旧校舎で自害した女生徒の霊魂が彷徨っているとかなんとか……。どの学校にでもありそうな、如何にもな怪談だ」
 眉唾話だ――と言いたげに、直杉が唇の端を吊り上げる。
 冷笑が美顔を彩った。
「まあ、噂がどうあれ、今日が一斉下校日なのは事実だ。僕たちは学園側の指示通り、四時には校舎を出なきゃならなんいだよ。それでも部活してくのか、徳川」
 樹里が鬱陶しげに前髪を片手で掻き上げながら、直杉を見上げる。
「試合が近いからな。それに心配には及ばない。六時までは顧問に許可を取ってある」
「そこまでして練習する必要はないと思うけどなぁ」
 水柯は思わず率直な意見を述べていた。
 直杉の弓道の腕前は抜群なのだ。
 親善試合に備えて殊更鍛錬する必要もないはずだ。
「特に練習したいわけでもない。ただ少し、一人になって精神集中したいだけだ。幸い今日は一斉下校日。群がる見物人もいないしな」
「ナオちゃん、いつも女の子に囲まれてるもんね。確かに、毎日あの調子で見学に来られちゃ練習に身が入らないよね」
「彼女たちに悪意があるわけではないし、練習に支障を来すわけでもない。だが時折、一人静かに的に向かいたくなるのだよ」
「やっぱり単にギャラリーがうざいだけじゃないか」
 言い訳めいた発言をする直杉に、樹里が揶揄混じりの言葉を投げつける。
 途端、直杉の口元に自嘲気味な微笑が閃いた。
「そうかもしれぬな。――とにかく許可された時間は短い。悪いが、私はこれで失礼させてもらうぞ」
 直杉の視線が壁時計に流される。
 時刻は午後三時四十分。
 それを確認するなり、彼女は軽やかな足取りで教室を出て行ってしまった。


     *



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Wed
2009.05.27[00:09]
    *

 充と直杉に去られ、結局、水柯は希望通りに樹里と下校することになった。
 久々に樹里と一緒に帰宅できる喜びに、水柯は密かに胸を高鳴らせながら教室を後にした。
 しかし、廊下に出た瞬間――
「おっ、貴籐(きとう)じゃないか。ちょっと待て」
 背後から呼び止められてしまったのである。
 立ち止まり、背後を顧みると、数学教師の持田がこちらへ歩み寄ってくるところだった。
 持田は五十代前半の、気のよさそうな面持ちをした男だ。
 生徒たちの評判も悪くはない。
「何をやらかしたんだよ?」
 樹里が舌打ちを鳴らし、水柯に非難の眼差しを投げてくる。
 水柯は『解んない』と首を竦めてみせてから、持田を強張った顔で見つめた。
 穏和な教師のことは嫌いではないが、彼の担当する数学という学術がとても苦手だった。
 テストの結果は、いつも赤点かギリギリセーフという惨々たるものなのだ。
「中間テストに向けて、ちゃんと勉強してるか?」
「は、はい。してます、してます!」
 持田の問いかけに、水柯は必要以上に力強く頷いた。
「今度赤点を取ったら、追試は免れんぞ」
「解ってます。そうならないために、ママ――っと、母に教えてもらってますから」
 持田の用件が大事ではないことに安堵し、水柯は笑顔で応じた。
 次に赤点を取ったとしても落第するわけではないのだ。
 追試を受けるだけでいいなら戦々恐々することもない。
「おお、そうだったな。桐生くんは元気かな? それに貴籐先生も」
 持田が昔日を懐かしむように、普段から柔和な顔を更に和らげる。
『桐生』というのは、水柯の母――蒔柯(まきえ)の旧姓だ。
『貴籐先生』というのは、父の貴籐聡のことを指している。
「はい。父も母も元気ですよ」
「そうか。懐かしいな。もう十七、八年も経ってしまうな。桐生くんが生徒会長で、貴籐先生がこの学園の美術教諭だったのは。才色兼備の生徒会長と新任教師の恋愛は、当時の学園に大論争と大騒動を巻き起こしたもんだ」
「はぁ。完璧にスキャンダル……ですもんね。そうして生まれてきたわたしとしては、どうコメントしていいのか解りませんけれど」
 水柯は、恥ずかしさと困惑が混在するような曖昧な笑みを浮かべた。
 母の蒔柯は、聖華学園に在籍していたことがあるのだ。
 しかも、生徒会長を務めていた。
 二年の時に、新しく赴任してきた美術教師・貴籐聡と瞬く間に恋に落ち――在学中に水柯を妊娠したのだという。
 子供を産む決心をした蒔柯は、二年の三学期終了と同時に学園を退学している。
 聡の方も学園を騒がせた責任をとって教職を離れた。
 その後、二人は入籍し、水柯が生まれたのである。




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Wed
2009.05.27[00:14]
「もう二十年近く前の出来事だ。今は、貴籐先生と桐生くんが幸せなら、それでいい」
 持田は『つまらないことを口走った』と後悔したのか、気遣わしげな眼差しを水柯に送ってきた。
「両親もわたしも幸せですよ」
 水柯は朗らかな笑みを持田に返した。
「幸せ、か……。それなら心配はない。当時を知る教師は、今では私だけだ。あの事件の真相は私だけの胸に秘めておけば――」
「先生?」
 急に持田がブツブツと独り言を唱えだしたので、水柯は怪訝に思い眉をひそめた。
 水柯の呼びかけに驚いたように、持田がハッと息を呑む。
 一瞬、『しまった』というような表情が浮かんだが、それはすぐにいつもの穏やかな笑みへと変化した。
「いやいや、すまない。時の流れに、何というかな……寂寥を感じただけだよ」
 取り繕うような持田の笑顔に、水柯は大きく首を捻った。
 何だか釈然としない。
 だが持田は、水柯に詮索の隙を与えまいというように素早く話題を切り換えた。
「それよりも貴籐、ちゃんと桐生くんに勉強をみてもらえよ」
「うっ……」
 痛いところを突かれて、水柯は喉に息を詰まらせた。
 勉学のことを持ち出されると弱い。
「蒔柯さんは頭脳明晰だっていうのに、どうして水柯はマンガオタクなのかな」
 追い打ちをかけるように、隣で樹里がボソッと嫌味を放つ。
 とうとう水柯は言葉そのものを失ってしまった。
 横目で樹里を睨みながら、恨みがましく押し黙っていると、
「まあ、頑張れよ。人間、やってできないことはないさ」
 持田が励ますように水柯の肩を叩いた。
「けど、水柯の場合はどうかな?」
「樹里!」
 水柯は、味方をしてくれる気は毛頭なさそうな樹里の脇腹を思いっ切り肘で突いてやった。
 樹里の端整な顔に意地悪な笑みが広がる。
「まっ、水柯が留年しても僕には関係ないけどね」
「そう苛めるな、田端。――おっと、今日は一斉下校日だったな。呼び止めて悪かった。もう帰っていいぞ」
 持田が樹里に苦笑を向けてから、軽く片手を挙げる。
「あっ、その一斉下校日の件なんですけど」
 不意に、樹里が思い出したように告げた。
「先生、聖華に三十年近くいるんですよね?」
「そうだなぁ。もう、そんなになるか」
 持田が苦笑を引っ込め、フッと遠い目で虚空を見つめる。
「水妖伝説って、昔からあったんですか?」
「いきなり、どうしたのよ」
 水柯はしかめっ面で樹里を見上げた。
 つい先ほど、教室で『下らない伝承だ』と話していたばかりなのに、またその話題が樹里の口から上ったのが不思議だったのだ。
「いや、何となく。別に深い意味はない」
 樹里がヒョイと肩を聳やかす。
 どうやら本当にただの思いつきで口に出してみたらしい。
「水妖伝説か。私が赴任した時には、既に噂はあったな」
「へえ。この学園、昔から怪談を信じ込む風潮があったんですね」
「あまり認めたくないが、奇々怪々な現象が頻発しているのは事実だ。私も宿直の時に、幽霊らしきものを視たことがある」
「幽霊らしきもの、か……」
 樹里が口元を歪める。
 彼は怪奇現象の類を全く信じない質なのだ。
「水妖伝説は確証のない噂だ。だが、私が赴任して十数年経った頃、謎の死を遂げた生徒が幾人かいるんだよ。その中には、九月十日の朝、中庭で発見された遺体もある」
 持田の顔に昏い翳りが射す。
 当時のことを顧みて、いたたまれなくなったのだろう。
 持田の話を聞いて、水柯は背筋に悪寒が走るのを感じた。
 九月十日の朝に発見――それは、その生徒が九日の夜に亡くなったことを意味していないだろうか……。
「嘘……。それも噂ですよね?」
「亡くなった生徒がいるのは真実なんだよ。おそらく、伝説の真偽を確かめようと遊び半分で学園に忍び込み、そこで何か事故に見舞われたのだろう」
「忍び込んだ生徒たちはみんな死んだ――死人は何も語らないし、生き証人もいない。つまり、伝説が正しいのかどうか、これまで誰にも判断できていないってことですよね」
 樹里が眉間に皺を寄せながら、猜疑に満ちた眼差しを持田へ注ぐ。
「その通りだ。伝説に信憑性はない。だがそれ以後も、好奇心に駆られるのか真偽を確かめようとする生徒が時折いてな、彼らの全ては還らぬ人となった。そんなわけで伝説がどうあれ、学園側は九月九日の一斉下校と夜間学園封鎖に踏み切らなくてはいけなくなったのだよ。まあ、二十一世紀になった今、生徒がオカルトじみた伝説を真に受けることはないと思うが……。それだけが幸いだな」
 持田は一息に語り、話に終止符を打つように大きな溜息をついた。
「さあ、もういいだろう。生徒は四時までには下校しなきゃならないからな。おまえたちも早く帰宅するといい。――それじゃあ、また明日な」
 簡素に別れの挨拶を述べ、持田は背を返すと立ち去っていった。
 その後ろ姿を見送りながら、
「帰ろうか、樹里」
 水柯は樹里の制服をツンツンと引っ張った。
「そうだね。帰るか」
 樹里が緩慢に頷く。
 それを合図に、二人は長い廊下を歩き始めた。
「全くのデタラメってわけでもなさそうだな、水妖伝説」
 肩にかかるプラチナブロンドを片手ではね除けながら、樹里がポツリと呟く。
「伝説なんて、わたしたちには関係ないわよ。それに、水の妖怪なんているはずないもん」
「漫画家志望なのに、夢がないな」
「わたしはロマンチストだけど、自分の目で見たもの以外の存在は信じないのよ」
「フンッ、はったりロマンチストが」
 他人を小馬鹿にしたように鼻を鳴らす樹里に、水柯は得意気に微笑んでみせた。
「はったりでも何でもいいのよ。わたしが尋常ならざるものの存在を信じなくても、他に信じる人は沢山いるわ。わたしは、その人たちのためにマンガで夢を与えてあげるのよ。それが、わたしの天命なの」
「ご大層なことで」
 樹里が冷笑を湛える。
 明らかに水柯の言葉を真剣に受け止めていない態度だ。
 すかさず水柯は抗議しようと口を開きかけたが、すぐに思い留まった。
 だらしなく半開きになった唇を慌てて引き結ぶ。
 ここで反撃しても、延々と不毛な嫌味合戦に突入するだけだ。
 可能な限り、それは避けたかった。
 樹里と険悪な仲になりたいわけではない。
 寧ろ、その逆だ。
 昔から位置づけられている《幼なじみ》という枠から抜け出てみたい。
 もっと樹里の傍に行きたい。
 常に、心の奥底でそう切望している。
 だが、その願いは水柯の心に熱を注ぐのと同時に、恐怖をも呼び起こすのだ。
 樹里の全てを欲し、しかしそれが叶わなかった時――今まで築き上げてきた絆が壊れてしまうような気がしてならない。
 失うのが怖い。
 だから、今に至るまで想いを打ち明けることができずにいた。
 水柯は廊下を歩きながら、幼なじみの横顔をそっと盗み見た。
 樹里の宝石のような双眸は前を見据えている――自分に向けられることはない。
 不意に、それが永遠の決まり事のような錯覚に陥って、水柯の胸は締めつけられるような痛みを発した。


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Wed
2009.05.27[00:18]
     *


 生徒玄関から校庭へと足を踏み入れた途端、無意識に唇がハミングを刻んだ。
 いつもの曲目の解らぬ唄だ。
 樹里と一緒に帰れる喜びに、水柯の心は少なからず弾んでいた。
 貴籐家と田端家は隣同士だというのに、水柯と樹里が登下校をともにすることは滅多にない。
 小学校までは常に一緒だったが、中学に上がったのを境に樹里が嫌がり始めたのだ。
 いわゆる思春期というやつだったのだろう。
 たとえ幼なじみといえども、女子と二人で登下校することに激しい抵抗を覚えたようだ。
 高校生になって幾らか樹里の態度は軟化したが、こうして肩を並べて歩くことは稀だった。
 だから自然と胸が躍った。
 渋い緑色の群れに混ざり、校庭を進む。
 正門の前に達したところで、樹里が足を止めた。
「それ、いつも歌ってるよな。何の唄?」
「えっ? あっ、わたしも知らない。物心ついた時には歌ってたみたいなんだけど……」
 唐突に訊かれ、水柯は戸惑った。
 記憶のページを過去へと向かって捲ってみるが、唄に関する想い出も知識も見当たらなかった。
 ただ、子供の頃から口ずさんでいたことだけは覚えている。
「知らないで毎日歌ってるのか。変な奴だな」
 樹里が呆れ混じりに告げる。
 直後、乾いた風が水柯の頬と髪をサッと撫でた。
 同様にして樹里のプラチナブロンドを風がさらい、幻想的に宙へ舞わせる。
「風が強いな」
 揺らいだ髪を片手で押さえ、樹里が形の良い顎を上向かせた。
 西に傾きつつある陽の光が眩しかったのか、双眸が閉ざされる。
 次に瞼が持ち上がった時、翡翠色の虹彩は陽光を反射させ、宝玉そのもののように煌めいた。
 ――綺麗。
 水柯は見慣れているはずの幼なじみの顔に、思わず見惚れてしまった。
 時々樹里は、同じ人間とは思えぬほどの苛烈な輝きを発することがある。
 彼の裡から不意打ちのように放たれる光輝。
 神々しささえ感じさせる樹里の姿は、水柯に純粋な驚嘆を与える。
 それと同時に、払拭できぬ寂寥感をも水柯の心の中に産み落としてゆくのだ。
 樹里の内面から発せられる冷たい輝きの正体を、水柯は知悉している。
 孤独と孤高だ。
 樹里には他人を魅了し、惹きつける力が宿っている。
 だが、それと同じくらいの強さで、他人を自分に近寄らせない、という相反する力をも彼は持ち合わせていた。
「僕の顔に何かついてる?」
 ふと、天を仰いでいた樹里の視線が水柯の顔の位置まで落とされる。
 視線が合致した瞬間、水柯は急に自分の考えていたことに羞恥を覚えた。
 取り繕うように笑顔を造る。
「樹里は綺麗だなと思って」
「何だよ、今更」
「わたしが触れちゃいけないぐらい綺麗。血は争えない、って本当ね。サラさんも怖いくらいの美人だけど、樹里はもっと――」
 何気なくそこまで口にして、水柯は慌てて口を噤んだ。
 失敗に気づいたのだ。
 決して口外してはならない言葉を口走ってしまった。
 しかし、一度口から飛び出してしまった言葉はもう取り戻せない――取り消せない。
 気まずさに固唾を呑んで樹里を見上げると、彼の双眸に硬質的な輝きが灯った。
 樹里の全身を仄暗い怒気が包み込むのを目の当たりにして、水柯は己れの過ちを痛感した。
「僕は、この顔も髪も――僕の身体の全てを綺麗だなんて思ったことは一度もない」
 抑揚の欠片もない淡然とした声。
 樹里の心が深く傷つけられ、それゆえに彼が激怒していることを表していた。
「あの女の血が流れているものなんて、何一つ要らなかった。あの女からは何も――細胞の一つさえ受け継ぎたくはなかったんだよ」
 樹里の瞳に憎悪の炎が迸る。
「あの女の話はするな」
 冷ややかに吐き捨て、樹里は唇を堅く引き結んだ。
 感情を露呈してしまったことを隠蔽するように水柯から顔を逸らし、俊敏に身を翻す。
 そのまま彼は、脇目も振らずに正門を潜り抜けて行ってしまった。
「樹里……!」
 樹里を追いかけようとして、水柯は愕然とした。
 足が動かなかったのだ。
 自分を拒絶する樹里の背中が怖い。
 金縛りに遭ったような焦燥と恐怖に駆られながら、水柯は遠ざかる樹里の後ろ姿を眺めていた。
 大切な幼なじみに対して、思慮することなく爆弾発言をしてしまったことが、ひどく悔やまれる。
『サラさん』
 軽々しく唇に乗せてはいけない名前――樹里に対する禁句だ。
 熟知していたはずなのに、迂闊にも愚行を犯してしまった。
 サラ・エドワーズ――本名・田端サラ。
 樹里の極度の女嫌いは、彼の母親に起因するというのに……。
 去り行く幼なじみの姿が、涙で潤んだ視界の中で溶けるようにして消える。
 水柯は眼鏡を外し、零れ落ちる寸前だった涙を指で拭った。
「サイテー」
 自分自身を端的に詰り、水柯は色を失った唇を痛いほど噛み締めた。


            「3.憂鬱な夜」へ続く



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Wed
2009.05.27[22:37]
 貴籐水柯の自宅は、聖華学園から徒歩十分ほどの距離――M市中心部から僅かに逸れた位置に存在していた。
 通りに面した二階建ての洋風家屋。
 一階の表半分は蒔柯が営む書店、裏半分には貴籐家の玄関、家族の共有空間であるリビングやキッチンなどが配されている。
 二階には家族の私室と客室を有していた。
 学園から帰宅した水柯は、自室の机に向かって空虚な刻を何時間も過ごしていた。
「はぁ……」
 口から洩れるのは重苦しい溜息ばかりである。
 脳裏には幼なじみの姿がこびりついている。
 自分の不用意な発言で、大好きな樹里の心を抉ってしまった事実がたまらなく辛い。
「わたしって、樹里を傷つけることに関しては天才的な能力を発揮するのかしら」
 昔から、いつだってそうだった。
 水柯の率直な言動は、時として傷つきやすい樹里の心を土足で踏みにじり、追い詰めてしまう。
 そんなことをしたいわけではないのに、結果として彼に傷を与えてしまうのだ。
 これまでも何度か樹里を本気で怒らせてしまい、二人の間に深い亀裂を生じさせたことがある。
 その裂傷を治療し、快復させるには並々ならぬ努力と誠意が必要であるのことを過去の出来事から学んでいたはずなのに……。
「意外と学習能力ないのね、わたし。ああ、あの時、充くんがいてくれればなぁ」
 水柯は机に頬杖をつき、その上に置かれた携帯電話へと視線を落とした。
 樹里に電話しようとして、何度も手に持っては机上に戻したものである。
 幾度か園田充の携帯ナンバーをディスプレイに表示しては、かけるのを躊躇ってもいた。
 正直、水柯は充の女癖の悪さに不快感を持っている。
 だが、彼の軽率を装った行為や軽口の影に隠された、樹里に対する本気の態度だけは高く評価していた。
 園田充は、己れの本心を不真面目な態度の中に包み隠してしまうことを得意とする人物である――と、水柯は判断を下している。
 他人に自分の心を悟られるが極端に嫌なのだろうが、樹里に相対している時だけはその本音が垣間見えることがあるのだ。
 それだけ充が樹里を特別に想っているということだ。
 同時に、彼は直杉とともに樹里と対等に接することのできる稀少な人物でもあった。
「やっぱり充くんに相談しようかな」
 水柯は携帯電話に手を伸ばしかけ、それに触れる直前にピタリと動きを停止させた。
「ダメダメ。デートだって言ってたじゃない。邪魔しちゃ悪いわ。それに樹里、充くんの部屋に転がり込んでるかもしれないし」
 充は聖華学園に近い場所にあるマンションで一人暮らしをしているのだ。
 その理由を水柯は知らないが、合い鍵を持っている樹里が時折そこへ遊びに行っているのは知っていた。
 水柯はまた溜息を吐き出しながら立ち上がり、カーテンを閉めるために窓際へ移動した。
 否が応でも隣接する豪華な洋館が視界に飛び込んでくる。田端樹里の住む家だ。
「樹里、家にいるんだ」
 田端家の照明は灯っている。
 この時間、隣家に在宅しているのは樹里だけだ。
 水柯はカーテンに手をかけたまま、しばし隣家を眺めた。
 直接謝罪に行けばいいのだろうが、今の水柯にはその勇気がなかった。
 今日幾度目になるか解らない溜息をついた時、突如としてヴェルディの『椿姫』が鳴り響いた。
 携帯電話の着信音だ。



 
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Wed
2009.05.27[22:51]
 ――樹里かもしれない!
 咄嗟にそう思い、水柯は机へと駆け戻った。
 ディスプレイに表示される着信番号と名前を確認しもせずに、早速通話ボタンを押す。
「もっ、もしもし、樹里!」
 甲高い声で応じると、電話の向こう側で一瞬奇妙な沈黙があった。
『……田端じゃなくて悪かったわね。残念ながら、あたしよ。ア・イ・ザ・ワでーす』
 憮然とした声が受話口から流れてくる。
 友人――相沢夕香の声だった。
「何だ、夕香か」
 相手を確かめずに電話に出た自分が悪いのだが、ついつい落胆の声が零れてしまう。
『あんたの王子様じゃなくてホンットに申し訳ないけど、それはあたしのせいじゃないからね。――で、どうよ。順調に進んでる?』
「は? 何のこと?」
 唐突に夕香が口調を改めたので、水柯は電話片手に小首を傾げた。
 彼女の質問の意図が全く解せなかった。
『何って――マンガよ、マンガ。同好会の会誌、明日が〆切じゃない』
「あっ! 忘れてた……」
 水柯は愕然と目を見開いた。
 夕香は水柯と同じマンガ同好会に所属しているのだ。
 同好会では年四回、会員のマンガを載せた会誌を発行することになっている。
 明日は『秋の号』の原稿〆切日なのだ。
 放課後、全員の原稿が回収され、印刷会社に入稿することが既に決定されている。
 〆切破りをしたら、会長にどんな大目玉を食らうことか……。
 考えて、水柯はゾッとした。
 会長に叱られるのも怖いが、それ以上に自分の作品が会誌に載せてもらえないことの方が怖い。
 より多くの人に自分のマンガを読んでもらうには、会誌に掲載させてもらうのも一つの手段なのだ。
 そのチャンスを逃すなんて愚行の極みだ。
『忘れてた? ってことは、まだ仕上げに取りかかってないわけね……』
「こ、これから頑張るわよ。徹夜してでも仕上げるわ。〆切と徹夜が怖くて、漫画家が務まるもんですか! んじゃ、わたし、早速作業に励むから――またね、夕香」
『まっ、健闘を祈るわ。それじゃあね』
「うん。電話してくれて、ありがとう」
 心からの感謝を述べて、水柯は電話を切った。
 樹里のことに意識を奪われていて、マンガのことをすっかり失念していた。
 夕香が連絡をくれなければ、気づくのにもっと時間を要しただろう。
 水柯は、今回の会誌に十六ページの短編を載せることになっている。
 既にペン入れとベタ塗りは終了している。
 後は背景を処理し、スクリーントーンを貼り、パソコンで作成した台詞を切り貼りするだけだ。
 水柯は机上のデジタル時計に視線を馳せた。
 時刻は午後七時二十五分を示している。
「よし。間に合うわ」
 己れを鼓舞するように力強く頷き、水柯は通学用の鞄を手に取った。
 そんなに焦る必要もない、と多少の余裕を持ちながら鞄を開ける。
 刹那――
「――――!」
 水柯は我が目を疑った。
 ショックのあまり全身からサーッと血の気が引いてゆく。
「うっ……嘘でしょ!」
 悲鳴に近い叫びをあげながら、慌てて鞄の中身を机にぶちまける。
 その中に、原稿を入れたブルーのクリアケースはなかった。
「学校に忘れてきたの? し、信じられない。わたしのバカ。バカバカ、大バカ!」
 水柯は己れの失態を激しく罵った。
 自分の頬を片手で叩きながら、散らばった鞄の中身を凝視する。
 だがやはり、プラスティック製のクリアケースは見当たらない。
「今日は部活がなかったから、忘れてきたとすれば教室ね」
 唇をわなわなと震わせながら、水柯は自分の不甲斐なさを呪った。
 〆切直前なのに原稿を忘れてくるなんて醜態もいいとろだ。
 漫画家志望者としてあるまじき失敗だ。
「フフ……フフフフ。仕方ないわね」
 水柯は真っ白になりかけた精神を必死に現実に繋ぎ止め、不気味な笑みを浮かべた。
 こうなったら、漫画家志望者の意地とプライドにかけて原稿を取りに行くしかない。
「そう、しょうがないのよ。非常事態だもん」
 水柯は空になった鞄に財布と携帯電話を放り込んだ。
 身を屈めて机の下に常備してある懐中電灯を取り出すと、それも鞄に詰め込む。
 鞄を肩からたすき掛けにして垂らし、最後に机の抽斗を開けた。
 そこには、銀色に輝く鍵が二本潜んでいた。
「ママ、ゴメンね。悪いことに使うわけじゃないから許して」
 水柯は鍵に向かって両手を合わせてから、キーホルダーに填められた鍵を掴み取った。
 二つの鍵は聖華学園新旧両校舎のマスターキーなのだ。
 退学する際に、蒔柯が記念品として貰ってきたのだという。
『生徒会長の特権ね』と、蒔柯は笑いながら鍵を見せてくれたことがある。
 その時、水柯は『つまり盗んできたのね』と母の行動を苦々しく思った。
 だが後日、何か使い道があるかもしれないと思い直し、母に内緒で合い鍵を造っておいたのである。
 まさか、それを本当に活用する時が訪れるとは想像もしていなかったが……。
「鍵をつけ替えたって話は聞かないし、多分まだ使えるわよね。よーし、万事オッケー。――いざ出陣!」
 鍵を鞄に忍ばせると、水柯は決意に瞳を燃え上がらせて勢いよく身を翻した。




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Wed
2009.05.27[22:53]
「あら、出かけるの?」
 一階に下りた途端、運悪く蒔柯に呼び止められた。
 書店の方はアルバイトに任せ、休憩でもしに自宅に戻ってきたのだろう。
 リビング前の廊下でバッタリ出会してしまった。
 持田の言葉にもあったように、蒔柯は娘の水柯から見ても美しい女性だった。
 三十代半ばに突入した現在でも、聡明さを窺わせる容姿は何ら損なわれていない。
「ちょっと隣に行ってくる」
 水柯は簡素に応じた。
『聖華に行く』と正直に答えることは躊躇われた。
 それに隣に行くというのは、決して虚言ではない。
「夕食は?」
「隣で適当に食べる」
「了解。樹里くんに迷惑かけないようにね。――あっ、私も水柯について行こうかしら? 最近、樹里くんに逢ってないしね」
 水柯は母の言葉にギョッとしながら、口元を引きつらせて彼女を見返した。
「ダメ。ママにはお店があるでしょ。何より、邪魔しないで。ママったら、わたし以上に樹里に甘いんだもん。母親と樹里を取り合うなんて嫌よ、わたし」
「だって樹里くん、聡さんに似てるんだもの」
「えっ、パパに?」
 思いがけない蒔柯の発言に、水柯は驚いて数度瞬きを繰り返した。
「そう。聡さんの若かりし頃にね」
「パパが格好良かったのは認めるけど、樹里には似てないよ」
 聡の若い頃の姿は、水柯も写真で見て知っている。
 確かに、整った顔立ちの青年だった。
 しかし、童顔の聡と英国人の特徴が強く外見に出ている樹里が似ているとは思えなかった。
「髪や瞳の色も顔立ちも違うけれど、不思議と似てるのよね。雰囲気が似てるのかしら? う~ん、どうしてかしらね」
「知らないわよ、そんなこと。――わたし、もう行くわね」
 首を捻る蒔柯に素っ気ない言葉を返し、水柯は玄関へと向かった。
 早く原稿を取りに行きたくて心が落ち着かない。
 蒔柯とお喋りに時間を費やしている暇はなかった。
「出かけるなら傘を持って行きなさい。天気予報で雨が降るって言ってたわ」
 水柯を追って玄関までやって来た蒔柯が、思い出したように告げる。
「要らないわよ。隣に行くだけだもん」
「そうよね。私ったら何を心配しているのかしら……」
 ふと、蒔柯の声に溜息が混ざる。
 水柯は不審に思って母を顧みた。
 蒔柯は水柯を見てはいなかった。
 虚ろな眼差しで玄関の一点を眺めている。
「雨――今夜は月のない夜になるのね」
 蒔柯が掠れるような声で独り言ちる。
 水柯はまじまじと蒔柯の顔を見つめてしまった。
 月のない夜――その言葉に嫌な伝説を想起したのだ。
 無論、聖華学園に残る水妖伝説だ。
「ねえ、それって水妖伝説のこと?」
「えっ? ああ……ごめんなさい。ちょっとボーッとしちゃって。何の話だったかしら」
 蒔柯が急に現実に引き戻されたようにビクッと身体を震わせる。
「ママの時代にも水妖伝説ってあったの?」
 母の態度に訝しさを感じながらも、水柯は質問を重ねた。
「あったわね、そんな伝説が。私が生徒会長を務めていた時、女の子が一人、伝説の犠牲になったわ」
「うわっ、ホントに水妖に殺されたの?」
「いえ、そういう意味じゃないわ。あれは……ただの偶然。たまたま九月九日の夜、学園を死に場所に選んだだけだと思うわ。流水は――自殺だったのよ」
「ルミ?」
「その亡くなった人のことよ。館林流水さん。私の同級生だったの」
 蒔柯の双眸に暗鬱な翳りが宿る。
 館林流水の名を紡ぐ時、唇が震えたように見えた。
「流水の死は伝説とは関係ないわ。飛び降りて落下した場所がちょうど噴水で、しかも九月九日だったから、噂好きの生徒たちが勝手に伝説と結びつけただけよ」
 蒔柯の顔に昏い影が落ちる。
 過去を反芻して、やるせない気分に陥ったのだろう。
 水柯は母の顔を無言で眺めていた。
 適切な相槌を見出せない。
「ただの噂よ。水妖なんて、妄想の産物に過ぎないのよ」
 水柯の視線を感じたのか、蒔柯は弾かれたように俯き加減だった面を上げた。
「さっ、暗い話はお終い。明日は水柯の誕生日なんだから、ちゃんと樹里くんを誘ってきなさいね」
「う、うん!」
 水柯は伝説を脳裏から締め出し、元気よく頷いた。
『うまく誘ってこい』という蒔柯の言葉に力強い励ましを感じた。
 明日は誕生日なのだ。
 やっぱり大好きな樹里にも自分の生まれた日を祝ってもらいたい。
「じゃ、行って来ます」
 両足を靴に突っ込み、蒔柯に笑顔を返す。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 蒔柯の言葉を背に受けながら、水柯は玄関から外界へと飛び出した。


     *



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Wed
2009.05.27[22:57]
     *

 田端樹里は眉間に皺を刻んだ渋い表情で、広いリビングをうろうろと徘徊していた。
「まいったな……」
 三十回ほど同じ言葉を繰り返した後、ようやく電話台の前で足を止める。
 頭を占めているのは、幼なじみの眼鏡をかけた顔だけだ。
 貴籐水柯のショックに凍りついた表情が、脳裏から離れない。
「八つ当たりだよな、やっぱり」
 下校時の会話を思い起こしながら、樹里は唸るように呟いた。
 母のことを口に出されたので、ついカッとなって不当な非難を浴びせてしまった。
 そのことが、喉に刺さった魚の小骨のように気になって仕方がない。
 不用意に母のことを口走ったのは、明らかに水柯の過ちだ。
 それに対して子供のように感情を露わにし、叱責してしまった自分に激しい羞恥を覚える。
「水柯が悪い。でも、僕も浅慮だったな」
 自然と唇から溜息が零れた。
 不意に、蛍光灯の光を浴びて眩く輝く白金髪が恨めしく思えてきた。
 樹里は上目遣いに前髪を睨み、舌打ちを鳴らした。
 それから何度かかぶりを振り、気分を切り換えて電話に手を伸ばす。
 水柯との仲を破壊したいわけではない。
 彼女は、幼い頃から自分の傍にいてくれた貴重な人物だ。
 失うのは嫌だった。
 水柯と自分とを繋ぐ橋にひびが入ったのなら、早急にそれを修復するべきなのだ。
 頭では解っているが、実際に行動を起こすことには躊躇いが生じてしまう。
 水柯の方から電話がかかってこないものか、と虫のいいことを考えていたが、帰宅して三時間強――水柯からのコンタクトは何もない。
「絶対、水柯が悪いんだけどな」
 諦め悪く呟きながら、樹里は人気のないリビングを見回した。
 今現在、田端家には樹里の他に誰もいない。
 父も母も仕事重視の人間であり、滅多に帰宅しないからである。
 巨大な家の中で、樹里だけが生活を営んでいるに等しい状態だ。
 物心ついた時からずっとそうだったので、今更寂寥を感じたりはしない。
 ただ、自分が育った家だというのにそこに蔓延る空気が大嫌いだった。
 忌々しささえ覚える。
 樹里は、この場にいない《あの女》のことを考えて嫌悪に顔を歪めた。
 母親――サラ・エドワーズ。
 簡潔に言い表せば『家庭を全く顧みず、自己の利益を追求することに執念を抱いている女性』だ。
「僕を産みたくないと言った、あの女……」
 誰もいないリビングを見据え、樹里はきつく唇を噛み締めた。




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Wed
2009.05.27[23:00]
 両親が結婚したのは、父の忍が三十三歳、サラが二十一歳の時だったと聞いている。
 サラが十八歳の時、忍の経営するモデルクラブに移籍してきたことが契機だった。
 プラチナブロンドと翡翠色の双眸を持つ、美しい英国少女。
 忍は一目逢った瞬間、サラに強く惹かれたのだという。
 二十代前半まで自身もモデルを生業としていた忍は、サラの裡に烈々と輝く魂を――モデルとしての素質を見出し、後に個人的にも惹かれてゆく。
 サラは己れの美貌と才幹、そして忍からの惜しみない援助を糧に、瞬く間にトップモデルの座に登り詰めた。
 デザイナーズブランドのマヌカン、宝飾品や化粧品・香水のイメージモデルなど、超一流と名のつく様々な仕事が彼女の元に流れ込んできた。
 彼女は若くして人々からの称讃と支持を得、地位や名誉や栄光を一手に握ったのだ。
 二十一歳の時、サラは忍の子供を身籠もる。
 それを機に二人は結婚。
 しかし、それさえもサラの計算――己れの地位を揺るぎないものとするための策略だったのだという。
 彼女がトップモデルの座を維持してゆくためには、まだ確固たる後ろ盾が必要だったのだ。
 田端忍という業界最大手のモデルクラブのオーナーが。
 サラにとって忍はモデル界で這い上がってゆくための道具でしかなかったのだ。
 二人の間に愛情はなかった。
 忍からサラへの一方通行の想いは存在したが、その逆は一時として有り得なかったのだ。
 樹里を出産した時、サラは忍に残酷な告白をしたのだという。
『子供なんて産みたくなかった。あなたを繋ぎ止めておくために、仕方なく産んだのよ』
 それが彼女の言い分だった。
 そこで初めてサラに利用されていたことを悟った忍は、妻の自分に対する愛情が全て偽りだったことを忘れるように仕事に精励した。
 一方サラは、夫が自分に興味を示さなくなったことを『これ幸い』と、若い男性モデルを取っ替え引っ替えし、恋愛に事欠くことがなかった。
 三十歳を目前にして、サラは独立。
 忍への当てつけのように新たなモデルクラブを設立した。
 以後、二人の仲はますます疎遠になり――今に至る。




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Wed
2009.05.27[23:03]
 ――この家は腐臭に満ちている。
 その腐敗臭には、サラ・エドワーズという魔女の妖しげな芳香が調合されていた。
 樹里は父から聞きかじった今までの経緯を思い出して、不快さに眉根を寄せた。
 サラは、樹里が幼い頃から平気で忍以外の男を家に連れ込む女だった。
 ――あの女は魔女だ。
 サラ以外の女性も、彼女と同じ魔性のように感じられてならない。
 女は汚い。
 狡賢く醜い――そして裏切る。
 そこから樹里の女嫌いは始まったのだ。
 女は魔物だ。
 近寄れば、男は喰い尽くされてしまう。
 だから接近してはいけないし、女を傍に寄せてもいけないのだ。
 樹里はサラを母親だと認めたことはない。
 彼女を激しく憎んでさえいる。
 決して口に出しては言わないが、忍は日一日とサラに似てゆく樹里を目にすることが苦痛のようだった。
 そのせいなのか、あまり家に寄りつかない。
 たまに帰ってきても、樹里の顔を正面から見ようとはしなかった。
 サラに酷似する容貌が災いし、樹里と父の間には奇妙な壁が立ちはだかってしまったのだ。
 母親の愛情を知らないのも、女性に嫌悪を抱くようになったのも、父親から扱いに困窮されているのも、何もかも――全てサラのせいだ。
 サラのように艶めかしく、淫志の強い魔女が傍にいなければ、忍も自分ももっと楽になれるかもしれないのに……。
 ――生まれてこなければよかった。
 そうであれば、忍は気兼ねせずにサラと離婚できたのかもしれない。
 樹里という息子が存在するばかりに、忍はサラとの偽りの夫婦生活を演じ続けなければならないのだ。
「とっくに離婚していても、おかしくないのにね」
 苦悩の塊を吐き出すように深い溜息をつく。
「あんな女、大嫌いだ。あの女の分身のような自分は――もっと嫌いだ」
 虚しい呟きが唇から滑り落ちる。
 しかし、その言葉を受け止めてくれる者もはね除けてくれる者もいない。
 見てくれだけは豪華なこの家の実体は、朽ち果てた廃墟だ。
「あの女のことなんて、どうでもいい。水柯に電話しなきゃ」
 ふと受話器を掴む手が目について、樹里は本来の目的を思い出した。
 今は、放蕩の極みを尽くしている母親のことよりも、辛抱強く自分を支えてくれる幼なじみのことを第一に考えなければならない。
 受話器に触れている手に力を込め、持ち上げる。
 ピンポーン、ピンポーン。
 貴籐家の番号をプッシュしかけた時、来訪者を告げるインターホンが鳴り響いた。




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