◆ウォーターガーデンに響くララバイ 【長編・完結】
▼作品傾向:ファンタジックホラー・学園・怪談・幼なじみ・美少年・愛憎▼
「九月九日、その日が月のない夜ならば中庭の噴水から水の妖かしが出現する」
毎年九月九日午後六時以降、聖華学園は封鎖される。
漫画ヲタクの主人公・水柯は、翌日〆切りの原稿を取りに行くために幼なじみの樹里とともに封鎖された学園に忍び込むことになる。更にクラスメイトの充と直杉を加えた一行が、夜の学園で目にしたモノは――
学園に残された伝説を巡るファンタジー。ほんのりホラーテイスト。
【INDEX】 ※各章最初のページに飛びます。各話ごとにリンク済み。
◇序 1 2
◇1.伝説の日 1 2 3 4 5 6
◇2.謎の一斉下校日 1 2 3 4 5
◇3.憂鬱な夜 1 2 3 4 5 6 7
◇4.学園封鎖 1 2 3 4
◇5.武道館の怪異 1 2 3 4 5
◇6.閉ざされた水域 1 2 3 4
◇7.母の嘆き 1 2 3 4 5 6 7 8
◇8.残酷なゆりかご 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
◇9.生徒会長 桐生蒔柯 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
◇10.水の奏でる子守唄 1 2 3 4 5 6 7 8 9
◇跋 1
▼作品傾向:ファンタジックホラー・学園・怪談・幼なじみ・美少年・愛憎▼
「九月九日、その日が月のない夜ならば中庭の噴水から水の妖かしが出現する」
毎年九月九日午後六時以降、聖華学園は封鎖される。
漫画ヲタクの主人公・水柯は、翌日〆切りの原稿を取りに行くために幼なじみの樹里とともに封鎖された学園に忍び込むことになる。更にクラスメイトの充と直杉を加えた一行が、夜の学園で目にしたモノは――
学園に残された伝説を巡るファンタジー。ほんのりホラーテイスト。
【INDEX】 ※各章最初のページに飛びます。各話ごとにリンク済み。
◇序 1 2
◇1.伝説の日 1 2 3 4 5 6
◇2.謎の一斉下校日 1 2 3 4 5
◇3.憂鬱な夜 1 2 3 4 5 6 7
◇4.学園封鎖 1 2 3 4
◇5.武道館の怪異 1 2 3 4 5
◇6.閉ざされた水域 1 2 3 4
◇7.母の嘆き 1 2 3 4 5 6 7 8
◇8.残酷なゆりかご 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
◇9.生徒会長 桐生蒔柯 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
◇10.水の奏でる子守唄 1 2 3 4 5 6 7 8 9
◇跋 1
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わたしはもうすぐ母になる。
昏い校舎を彷徨いながら、少女は満面の笑みを浮かべた。
照明のない廊下も軋りを立てる古い木の床も、今の少女を脅かす存在ではない。
少女は臆することなく、人気のない夜の校舎を歩き続けた。
角を曲がり、旧校舎一階の奥へと突き進む。
長い廊下の果て――階段脇にある中庭へと続く扉の前でようやく足を止めた。
扉に填め込まれた硝子から中庭が見える。
淡い月光を受けて、巨大な噴水が仄白く輝いていた。
わたしは母になる。
少女は至福の笑みを湛え、己れの腹部に片手を添えた。
制服の上からでもはっきりと解る膨らみ。胎内に宿る小さな生命の鼓動が手を介して伝わってくる。
ここに、愛する人とわたしの子供がいる。
少女は愛しさを込めて腹をさすった。
唇からは自然とハミングが洩れる。
柔らかく、そして温かさを感じさせる旋律。
ゆりかごの中で優しく揺られているような安息を、胎内に宿る我が子へと与えてあげられるはずだ。
これは子守唄。
我が子に捧げるためだけに、少女が創った子守唄なのだ。
この世にたった一つしかない存在していない調べを、少女は心を込めて紡ぎ続けた。
わたしは愛する人の子供を産む。
もうすぐ母になるのだ。
少女は歓びを噛み締めながら、扉の把手へ手を伸ばした。
その時、暗闇で何かがチカッと瞬いた――懐中電灯の光だ。
少女は即座に歌うのを止め、ひどく緩慢な動作で光源を振り返った。
「こんな時間に何をしてるんだ?」
数学教師・持田は、宿直の勤めとして深夜の校舎を巡回していた。
その最中、思いがけず唄を耳にしたのだ。
美しい歌声に導かれるようにして、持田は旧校舎へとやって来た。
そして、一階の廊下で女生徒の姿を発見したのである。
不審に思った持田が懐中電灯で少女を照らすと、彼女はゆっくりとこちらを顧みた。
「……た、館林くん」
少女の顔を確認した途端、電流に似た衝撃が全身を駆け巡った。
掠れた声が喉の奥から洩れる。
自然と顔が強張り、懐中電灯を持つ手がブルブルと震えだした。
闇に浮かび上がる少女の顔には、確かに見覚えがある。
間違いなく、この学園の生徒だ。だが――
「まさか、本当に館林くんなのか」
持田は驚愕と戦慄の相俟った眼差しで少女を凝視した。
「わたしの赤ちゃん……」
不意に少女の顔が歪む。
立ち竦む持田の眼前で、大きく膨らんでいた少女の腹部が徐々に萎んでいった。
窪んだ腹を撫でる少女の双眸から、つと涙が零れ落ちる。
「わたしの赤ちゃんは、どこ? あの人とわたしの赤ちゃんを返して」
震える声で呟き、少女は持田から顔を背けた。
「館林くん。君なのか? 君が――」
「あの人の子供を返して」
持田の呼びかけを無視して、少女が中庭へと続く扉に両手を添える。
刹那、少女の姿は空気に溶けるようにして消滅した。
「ああ、館林くん」
持田はその場に崩れ落ちた。
喘ぐような声が唇から滑り落ちる。
「どうしてなんだ。君は――」
疾うの昔に死んでいるのに……。

* NEXT * INDEX

昏い校舎を彷徨いながら、少女は満面の笑みを浮かべた。
照明のない廊下も軋りを立てる古い木の床も、今の少女を脅かす存在ではない。
少女は臆することなく、人気のない夜の校舎を歩き続けた。
角を曲がり、旧校舎一階の奥へと突き進む。
長い廊下の果て――階段脇にある中庭へと続く扉の前でようやく足を止めた。
扉に填め込まれた硝子から中庭が見える。
淡い月光を受けて、巨大な噴水が仄白く輝いていた。
わたしは母になる。
少女は至福の笑みを湛え、己れの腹部に片手を添えた。
制服の上からでもはっきりと解る膨らみ。胎内に宿る小さな生命の鼓動が手を介して伝わってくる。
ここに、愛する人とわたしの子供がいる。
少女は愛しさを込めて腹をさすった。
唇からは自然とハミングが洩れる。
柔らかく、そして温かさを感じさせる旋律。
ゆりかごの中で優しく揺られているような安息を、胎内に宿る我が子へと与えてあげられるはずだ。
これは子守唄。
我が子に捧げるためだけに、少女が創った子守唄なのだ。
この世にたった一つしかない存在していない調べを、少女は心を込めて紡ぎ続けた。
わたしは愛する人の子供を産む。
もうすぐ母になるのだ。
少女は歓びを噛み締めながら、扉の把手へ手を伸ばした。
その時、暗闇で何かがチカッと瞬いた――懐中電灯の光だ。
少女は即座に歌うのを止め、ひどく緩慢な動作で光源を振り返った。
「こんな時間に何をしてるんだ?」
数学教師・持田は、宿直の勤めとして深夜の校舎を巡回していた。
その最中、思いがけず唄を耳にしたのだ。
美しい歌声に導かれるようにして、持田は旧校舎へとやって来た。
そして、一階の廊下で女生徒の姿を発見したのである。
不審に思った持田が懐中電灯で少女を照らすと、彼女はゆっくりとこちらを顧みた。
「……た、館林くん」
少女の顔を確認した途端、電流に似た衝撃が全身を駆け巡った。
掠れた声が喉の奥から洩れる。
自然と顔が強張り、懐中電灯を持つ手がブルブルと震えだした。
闇に浮かび上がる少女の顔には、確かに見覚えがある。
間違いなく、この学園の生徒だ。だが――
「まさか、本当に館林くんなのか」
持田は驚愕と戦慄の相俟った眼差しで少女を凝視した。
「わたしの赤ちゃん……」
不意に少女の顔が歪む。
立ち竦む持田の眼前で、大きく膨らんでいた少女の腹部が徐々に萎んでいった。
窪んだ腹を撫でる少女の双眸から、つと涙が零れ落ちる。
「わたしの赤ちゃんは、どこ? あの人とわたしの赤ちゃんを返して」
震える声で呟き、少女は持田から顔を背けた。
「館林くん。君なのか? 君が――」
「あの人の子供を返して」
持田の呼びかけを無視して、少女が中庭へと続く扉に両手を添える。
刹那、少女の姿は空気に溶けるようにして消滅した。
「ああ、館林くん」
持田はその場に崩れ落ちた。
喘ぐような声が唇から滑り落ちる。
「どうしてなんだ。君は――」
疾うの昔に死んでいるのに……。
* NEXT * INDEX
雲一つない青空が広がっている。
秋の兆しを強く感じさせる澄み渡った空の下、渋い緑色の群れが列を成して進んでいた。
東京都の西に位置するM市では、毎朝毎夕お目にかかれる光景である。
緑色の群れは、独特の制服に身を包んだ十代の少年少女たち。
彼らの目指す場所は、市街地の中心部にある私立聖華学園。
来年創立六十周年を迎える伝統ある名門校である。
貴籐水柯(きとう みずえ)は、肩の両側に垂らしたお下げを揺らしながら、生徒の群れの中を軽快な足取りで進んでいた。
今朝は心も歩調も軽い。
昨日発売の少女マンガ誌で、大好きな作品が最終回を迎えた。
その衝撃的な結末と読後にジワジワと押し寄せてきた感動に、水柯の胸は未だ昂ぶっているのだ。
マンガをこよなく愛する水柯にとって、素晴らしい作品に出逢えることは至上の幸せなのである。
そんなわけで、今日は目醒めた時から頗る機嫌がよかった。
聖華学園を目指す生徒たちの眠そうな顔を尻目に、水柯は元気よく闊歩していた。
晴れた空と晴れた気分――あまりの心地よさに、思わず鼻唄が飛び出す。
曲名も歌詞も解らないが、気分が昂揚すると幼い頃から自然と口をついて出る唄だ。
多分、母親あたりが『胎教のため』とか言いながら、水柯が胎児の頃から聴かせていた曲なのだろう。
だから高校二年生になった今でも、深く心に根づいているのかもしれない。
ハミングを続けながら、聖華学園の巨大な正門を潜り抜ける。
校舎正面にある生徒玄関が見えたところで、ふと水柯は足を止めた。
玄関付近に、人の流れが滞っている場所を発見したのだ。
一部の生徒が立ち止まり、みな同じ方向を見つめながら何やら騒ついている。
「たっ、田端先輩!」
不意に甲高い少女の声が校庭に響いた。
その一言に、水柯の心臓はドクリと脈打った。
鼻唄を止めて、人だかりへ視線を馳せる。
無意識にヒクヒクと口元が引きつった。
この学園で田端という姓を持つ人間は、水柯の知る限り幼なじみの田端樹里一人しかいない。
必然的に、樹里が登校時の校庭で何事かをしでかしているという結論に至る。
「ったく、朝から何やってんだか」
水柯はフレームレス眼鏡の位置を片手で直すと、人だかり目がけてダッシュした。

* NEXT * INDEX * BACK

秋の兆しを強く感じさせる澄み渡った空の下、渋い緑色の群れが列を成して進んでいた。
東京都の西に位置するM市では、毎朝毎夕お目にかかれる光景である。
緑色の群れは、独特の制服に身を包んだ十代の少年少女たち。
彼らの目指す場所は、市街地の中心部にある私立聖華学園。
来年創立六十周年を迎える伝統ある名門校である。
貴籐水柯(きとう みずえ)は、肩の両側に垂らしたお下げを揺らしながら、生徒の群れの中を軽快な足取りで進んでいた。
今朝は心も歩調も軽い。
昨日発売の少女マンガ誌で、大好きな作品が最終回を迎えた。
その衝撃的な結末と読後にジワジワと押し寄せてきた感動に、水柯の胸は未だ昂ぶっているのだ。
マンガをこよなく愛する水柯にとって、素晴らしい作品に出逢えることは至上の幸せなのである。
そんなわけで、今日は目醒めた時から頗る機嫌がよかった。
聖華学園を目指す生徒たちの眠そうな顔を尻目に、水柯は元気よく闊歩していた。
晴れた空と晴れた気分――あまりの心地よさに、思わず鼻唄が飛び出す。
曲名も歌詞も解らないが、気分が昂揚すると幼い頃から自然と口をついて出る唄だ。
多分、母親あたりが『胎教のため』とか言いながら、水柯が胎児の頃から聴かせていた曲なのだろう。
だから高校二年生になった今でも、深く心に根づいているのかもしれない。
ハミングを続けながら、聖華学園の巨大な正門を潜り抜ける。
校舎正面にある生徒玄関が見えたところで、ふと水柯は足を止めた。
玄関付近に、人の流れが滞っている場所を発見したのだ。
一部の生徒が立ち止まり、みな同じ方向を見つめながら何やら騒ついている。
「たっ、田端先輩!」
不意に甲高い少女の声が校庭に響いた。
その一言に、水柯の心臓はドクリと脈打った。
鼻唄を止めて、人だかりへ視線を馳せる。
無意識にヒクヒクと口元が引きつった。
この学園で田端という姓を持つ人間は、水柯の知る限り幼なじみの田端樹里一人しかいない。
必然的に、樹里が登校時の校庭で何事かをしでかしているという結論に至る。
「ったく、朝から何やってんだか」
水柯はフレームレス眼鏡の位置を片手で直すと、人だかり目がけてダッシュした。
* NEXT * INDEX * BACK
群がる野次馬たちを押し退けて前に進む。
野次馬の最前列までやって来た瞬間、水柯の気分のよさは一気に吹き飛んだ。
「田端先輩、好きです。つき合って下さい!」
ギャラリーと化した生徒たちの輪の中心で、一人の少女が勢いよく頭を下げる。
頭を下げられた相手は、興味なさげに少女を見返した。
少女を見る双眸は宝石のような翡翠色をしており、その目に軽くかかる髪は見事なプラチナブロンドだった。
朝陽を受けてキラキラと輝く髪を目にした途端、水柯の顔はまたしても引きつれた。
見世物になっているのは、紛れもなく幼なじみの田端樹里だったのだ。
あの髪と瞳と恐ろしく整った顔立ちでは、見間違えようがない。
「イヤだね」
一拍の間を措き、樹里が酷薄に告げる。
転瞬、野次馬の中から女生徒たちのどよめきがわき上がった。
「あの子、樹里先輩に告白してるわよ」
「バカよね。相手にされるわけないじゃない」
「田端先輩の女嫌い、知らないんじゃないの」
そんな類の囁きを耳にしながら、水柯は更に顔をしかめた。
女生徒たちの言う通り、樹里は女嫌いなのだ。
それも上に『無類の』とつくほどである。
イギリス人の血を引く樹里は、眩い白金髪と翡翠色の双眸を生まれながらにして持っていた。
加えて彼は、モデルであった母親譲りの美貌をも持ち合わせている。
綺麗な弧を描く眉に、切れ長で涼しげな感じのする双眸。
スッと筋が通っている高い鼻梁。
色白で、手足がスラリと長い均整のとれた身体。
そんな美形を周囲が放っておくわけもなく、入学以来、樹里に告白する女子は後を絶たない。
だが、その全てを樹里は悉く無視していた。
瞬く間に『田端樹里=女嫌い』の噂が流出したが、それでも世の中には勇気を振り絞って告白してくる女の子がいるものなのだ。
「あたし、先輩のことが好きなんです」
「僕は好きじゃない」
冷ややかな声と視線で、樹里が少女を拒絶する。
少女は金縛りにでも遭ったかのように硬直し、唇を震わせた。
その直後、
「こんな朝っぱらから何してんだよ、樹里」
緊迫した場にそぐわぬ陽気な声が高らかと響き、長身の影が颯爽と姿を現した。
栗色の髪を持つハンサムな少年だ。
その、口元にいつも微笑を刻んだような少年の顔を見て、水柯はギョッとした。
間の悪い時に、間の悪い男が出現したものである。
水柯は引きつりを通り越して完全に凍りついてしまった顔で、長身の少年を眺めた。
少年は、樹里の親友である園田充。
樹里とは対照的に自他ともに認める女好きである。
こんな場面に充が首を突っ込んで、状況が改善された例しはない。
「充には関係ない」
水柯が悪い予感を覚えながら事の成り行きを見守っていると、樹里がチラと充を一瞥し、ぞんざいに応じた。
それだけで充は事態を察したのか、口の端を軽く歪めて笑う。
「なるほどねぇ。いつものようにあっさりフッちゃったわけだ。けど、そんなに冷たくするなよ。この子、泣いちゃうよ」
「僕は、イヤなものはイヤだからね」
樹里が興味の欠片も窺えない眼差しで少女を見遣る。
少女の顔がサッと青ざめた。
充が嗜めるような視線を樹里に走らせ、次に満面の笑顔で少女の顔を覗き込む。
「君もそんなに思い詰めないで。可愛い顔が台無しだよ。それに、樹里がこんな性格なのは重々承知していたはずだよね」
「それは……そうですけど」
「玉砕覚悟で告白して、君はフラれた」
「そ、そんなストレートに言わなくても」
「でも、現実にフラれたんだ。だったらさ、樹里のことはさっさと諦めて、俺とつき合わない? 俺、どんな女にも優しいよ」
充の言葉に、少女の瞳が大きく見開かれる。
その双眸から透明な雫が零れ落ちた。
「ひ、酷い……。酷すぎます! 田端先輩も園田先輩もサイテーです!」
精一杯の捨て台詞を残し、少女は身を翻した。
そのまま脇目も振らずに猛スピードで校舎へと突進してゆく。
「樹里が悪い」
「充が余計なこと言うからだろ」
充と樹里が、互いに責任を転嫁するように顔を見合わせる。
その瞬間、今まで傍観していた水柯の頭で何かがプチッと切れた。
――乙女の夢と恋心を無惨に打ち砕くなんて、許せない!
水柯は込み上げてきた怒りに任せて憤然と足を踏み出した。

* NEXT * INDEX * BACK
野次馬の最前列までやって来た瞬間、水柯の気分のよさは一気に吹き飛んだ。
「田端先輩、好きです。つき合って下さい!」
ギャラリーと化した生徒たちの輪の中心で、一人の少女が勢いよく頭を下げる。
頭を下げられた相手は、興味なさげに少女を見返した。
少女を見る双眸は宝石のような翡翠色をしており、その目に軽くかかる髪は見事なプラチナブロンドだった。
朝陽を受けてキラキラと輝く髪を目にした途端、水柯の顔はまたしても引きつれた。
見世物になっているのは、紛れもなく幼なじみの田端樹里だったのだ。
あの髪と瞳と恐ろしく整った顔立ちでは、見間違えようがない。
「イヤだね」
一拍の間を措き、樹里が酷薄に告げる。
転瞬、野次馬の中から女生徒たちのどよめきがわき上がった。
「あの子、樹里先輩に告白してるわよ」
「バカよね。相手にされるわけないじゃない」
「田端先輩の女嫌い、知らないんじゃないの」
そんな類の囁きを耳にしながら、水柯は更に顔をしかめた。
女生徒たちの言う通り、樹里は女嫌いなのだ。
それも上に『無類の』とつくほどである。
イギリス人の血を引く樹里は、眩い白金髪と翡翠色の双眸を生まれながらにして持っていた。
加えて彼は、モデルであった母親譲りの美貌をも持ち合わせている。
綺麗な弧を描く眉に、切れ長で涼しげな感じのする双眸。
スッと筋が通っている高い鼻梁。
色白で、手足がスラリと長い均整のとれた身体。
そんな美形を周囲が放っておくわけもなく、入学以来、樹里に告白する女子は後を絶たない。
だが、その全てを樹里は悉く無視していた。
瞬く間に『田端樹里=女嫌い』の噂が流出したが、それでも世の中には勇気を振り絞って告白してくる女の子がいるものなのだ。
「あたし、先輩のことが好きなんです」
「僕は好きじゃない」
冷ややかな声と視線で、樹里が少女を拒絶する。
少女は金縛りにでも遭ったかのように硬直し、唇を震わせた。
その直後、
「こんな朝っぱらから何してんだよ、樹里」
緊迫した場にそぐわぬ陽気な声が高らかと響き、長身の影が颯爽と姿を現した。
栗色の髪を持つハンサムな少年だ。
その、口元にいつも微笑を刻んだような少年の顔を見て、水柯はギョッとした。
間の悪い時に、間の悪い男が出現したものである。
水柯は引きつりを通り越して完全に凍りついてしまった顔で、長身の少年を眺めた。
少年は、樹里の親友である園田充。
樹里とは対照的に自他ともに認める女好きである。
こんな場面に充が首を突っ込んで、状況が改善された例しはない。
「充には関係ない」
水柯が悪い予感を覚えながら事の成り行きを見守っていると、樹里がチラと充を一瞥し、ぞんざいに応じた。
それだけで充は事態を察したのか、口の端を軽く歪めて笑う。
「なるほどねぇ。いつものようにあっさりフッちゃったわけだ。けど、そんなに冷たくするなよ。この子、泣いちゃうよ」
「僕は、イヤなものはイヤだからね」
樹里が興味の欠片も窺えない眼差しで少女を見遣る。
少女の顔がサッと青ざめた。
充が嗜めるような視線を樹里に走らせ、次に満面の笑顔で少女の顔を覗き込む。
「君もそんなに思い詰めないで。可愛い顔が台無しだよ。それに、樹里がこんな性格なのは重々承知していたはずだよね」
「それは……そうですけど」
「玉砕覚悟で告白して、君はフラれた」
「そ、そんなストレートに言わなくても」
「でも、現実にフラれたんだ。だったらさ、樹里のことはさっさと諦めて、俺とつき合わない? 俺、どんな女にも優しいよ」
充の言葉に、少女の瞳が大きく見開かれる。
その双眸から透明な雫が零れ落ちた。
「ひ、酷い……。酷すぎます! 田端先輩も園田先輩もサイテーです!」
精一杯の捨て台詞を残し、少女は身を翻した。
そのまま脇目も振らずに猛スピードで校舎へと突進してゆく。
「樹里が悪い」
「充が余計なこと言うからだろ」
充と樹里が、互いに責任を転嫁するように顔を見合わせる。
その瞬間、今まで傍観していた水柯の頭で何かがプチッと切れた。
――乙女の夢と恋心を無惨に打ち砕くなんて、許せない!
水柯は込み上げてきた怒りに任せて憤然と足を踏み出した。
* NEXT * INDEX * BACK
「あんたたち、二人とも悪いわよ!」
ズカズカと少年たちに歩み寄り、鋭い眼光で睨めつける。
「朝から何バカなことやってるのよ。みっともないわね」
「な、何だよ、水柯」
樹里が、唐突に現れた幼なじみに驚いたように僅かに後ずさる。
「女の子を泣かせるなんて、最悪。あんな応え方ないでしょ。幼なじみとして、顔から火が出るほど恥ずかしかったわ」
「一々うるさいぞ、このマンガオタク」
「マンガを好きで何が悪いの? わたしは近い未来、プロの漫画家になる人間よ!」
水柯はギュッと拳を握り締め、語気も荒く言い返した。
確かに水柯は、マンガ同好会に所属するほどの『マンガ大好き人間』だ。
青春と情熱の全てをマンガに注ぎ込んでいる、と断言しても過言ではない。
だが、それと今の論点は別次元の問題だし、如何に幼なじみといえどもマンガを馬鹿にするのは許せない。
漫画家を目指す水柯の夢をけなすような発言も到底いただけるものではない。
「おまえが漫画家になれるわけないだろ」
「絶対なってやるわよ!」
「まあまあ、二人とも落ち着いて。話がズレてるんだけど」
充が、今にもとっ組み合いを始めそうな水柯と樹里の間に割って入る。
「そうだったわ。――樹里、あんた、また女の子をフッたわね」
充に指摘されて、水柯は慌てて我に返った。
改めて、厳しい視線を樹里に注ぐ。
「それがどうかした?」
「信じられない神経してるわよね」
「みたいだね」
樹里が悪びれもせずに肩を聳やかす。
水柯は呆れ混じりに盛大な溜息をついてみせた。
それから視線を充に移す。
「充くんも女の子を煽っちゃダメよ。いくら充くんが女の子に優しくてもね、さっきのは逆効果なんだから」
「……了解、水柯ちゃん」
充が渋々と頷く。
しかし、こちらも反省しているようには全く見えなかった。
顔には相変わらず微笑が張りついている。
「まったく、あんたたちときたら最悪の二人組ね!」
水柯は小さく舌打ちを鳴らすと、今まで以上に苛烈な眼差しで二人を睨みつけた。
「聖華学園二年B組、田端樹里。無類の女嫌い。今年に入ってフッた女の数は、さっきのを入れて四十七人。同じく二年B組、園田充。無類の女好き。今年に入ってつき合った女の数は、四十八人」
「おっ、俺の方が一人多い。俺の勝ちだな」
口笛を鳴らし、充が愉しげに笑う。
「充くん!」
すかさず水柯が叱咤の声を飛ばすと、充は微笑を苦笑へと変化させた。
「女嫌いと女好き――こんな二人が親友だなんて信じられないわね。あんたたちの共通点といったら、どっちも『酷い女泣かせ』って、とんでもないものしかないんだから。ホンット、女の敵だわ!」
「安心しろ。僕は水柯を女と見なしてないから」
樹里が淡然と告げる。
水柯は眦を吊り上げて樹里を見返した。
「それ、どういう意味よ」
「そのまんまの意味だよ。――行こう、充」
樹里は水柯を無視するように充を促し、歩き始める。
従順に充がその隣に並んだ。
「ちょっと待ちなさいよ!」
水柯は怒声を放ちながら、ろくでなし二人組の後を追った。
さっきまで晴々としていた心を、あの二人に返してもらいたい気分だった。

* NEXT * INDEX * BACK
ズカズカと少年たちに歩み寄り、鋭い眼光で睨めつける。
「朝から何バカなことやってるのよ。みっともないわね」
「な、何だよ、水柯」
樹里が、唐突に現れた幼なじみに驚いたように僅かに後ずさる。
「女の子を泣かせるなんて、最悪。あんな応え方ないでしょ。幼なじみとして、顔から火が出るほど恥ずかしかったわ」
「一々うるさいぞ、このマンガオタク」
「マンガを好きで何が悪いの? わたしは近い未来、プロの漫画家になる人間よ!」
水柯はギュッと拳を握り締め、語気も荒く言い返した。
確かに水柯は、マンガ同好会に所属するほどの『マンガ大好き人間』だ。
青春と情熱の全てをマンガに注ぎ込んでいる、と断言しても過言ではない。
だが、それと今の論点は別次元の問題だし、如何に幼なじみといえどもマンガを馬鹿にするのは許せない。
漫画家を目指す水柯の夢をけなすような発言も到底いただけるものではない。
「おまえが漫画家になれるわけないだろ」
「絶対なってやるわよ!」
「まあまあ、二人とも落ち着いて。話がズレてるんだけど」
充が、今にもとっ組み合いを始めそうな水柯と樹里の間に割って入る。
「そうだったわ。――樹里、あんた、また女の子をフッたわね」
充に指摘されて、水柯は慌てて我に返った。
改めて、厳しい視線を樹里に注ぐ。
「それがどうかした?」
「信じられない神経してるわよね」
「みたいだね」
樹里が悪びれもせずに肩を聳やかす。
水柯は呆れ混じりに盛大な溜息をついてみせた。
それから視線を充に移す。
「充くんも女の子を煽っちゃダメよ。いくら充くんが女の子に優しくてもね、さっきのは逆効果なんだから」
「……了解、水柯ちゃん」
充が渋々と頷く。
しかし、こちらも反省しているようには全く見えなかった。
顔には相変わらず微笑が張りついている。
「まったく、あんたたちときたら最悪の二人組ね!」
水柯は小さく舌打ちを鳴らすと、今まで以上に苛烈な眼差しで二人を睨みつけた。
「聖華学園二年B組、田端樹里。無類の女嫌い。今年に入ってフッた女の数は、さっきのを入れて四十七人。同じく二年B組、園田充。無類の女好き。今年に入ってつき合った女の数は、四十八人」
「おっ、俺の方が一人多い。俺の勝ちだな」
口笛を鳴らし、充が愉しげに笑う。
「充くん!」
すかさず水柯が叱咤の声を飛ばすと、充は微笑を苦笑へと変化させた。
「女嫌いと女好き――こんな二人が親友だなんて信じられないわね。あんたたちの共通点といったら、どっちも『酷い女泣かせ』って、とんでもないものしかないんだから。ホンット、女の敵だわ!」
「安心しろ。僕は水柯を女と見なしてないから」
樹里が淡然と告げる。
水柯は眦を吊り上げて樹里を見返した。
「それ、どういう意味よ」
「そのまんまの意味だよ。――行こう、充」
樹里は水柯を無視するように充を促し、歩き始める。
従順に充がその隣に並んだ。
「ちょっと待ちなさいよ!」
水柯は怒声を放ちながら、ろくでなし二人組の後を追った。
さっきまで晴々としていた心を、あの二人に返してもらいたい気分だった。
* NEXT * INDEX * BACK
「まだ話は終わってないわよ!」
生徒玄関に到着したところで、水柯はようやく二人に追いついた。
聖華学園の校舎は上空から俯瞰すると、凹の形をしている。
正門から向かって左手に当たるL字型の部分が旧校舎、反対側が新校舎という造りなのだ。
線対称を成すL字型の新旧両校舎の繋ぎ目――校舎正面に生徒玄関は位置していた。
「うるさいぞ。ついてくるな」
「仕方ないでしょ、同じクラスなんだから」
鬱陶しげに振り返る樹里に、水柯は憮然と抗議した。
それほど邪険に扱われる所以はないし、そもそも同学年同クラスで『ついてくるな』というのが無理な話だ。
「そうそう。行く先は一緒なんだから無茶言うなよ、樹里。さっ、行こうか水柯ちゃん」
珍しく充が樹里の意見を退け、彼の武器とも言える柔和な笑顔を水柯に向けてくる。
「うわっ、充くん、優しい!」
水柯は顔を輝かせ、弾んだ足取りで充の隣に肩を並べた。
「水柯ちゃんは可愛いからね。特別だよ」
「充くんも女に手が早いことを除けば、最高のフェミニストよね」
「ったく、何言ってんだか……。勝手に意気投合するなよ」
ブツブツと不満を洩らす樹里を敢えて無視し、水柯は玄関から廊下へと身を移した。
朝の廊下は生徒たちでごった返している。
どこを見ても渋い緑色で埋め尽くされていた。
二年生の教室は新校舎にある。
水柯たちがそちらへ足を向けかけた瞬間、
「キャアッ! 徳川先輩よ」
突如として緑の群れがどよめいた。
「朝からツイてるわ!」
「直杉(なおすぎ)センパイ、おはようございまーす!」
女生徒たちの黄色い歓声が廊下を揺るがし始める。
水柯はその凄まじさに驚き、思わず足を止めてしまった。
目をしばたたかせながら周囲に首を巡らせる。
「徳川先輩、素敵!」
「ああ、いつ見ても凛々しいわ」
「あたしも先輩の顔見たーい!」
少女たちの声は次第に増大し、生徒の大部分がその騒々しさに足留めを食らっていた。
「格好良すぎて、頭がクラクラするわ」
「徳川先輩、こっち向いて下さい!」
悲鳴に近い歓声は、徐々に三人の方へ接近してくる。
「徳川か……」
樹里が旧校舎方面の廊下を見つめ、不服げに呟く。
ほぼ同時に、生徒たちが一斉に廊下の両脇に身体を寄せ、道を開けた。
「相変わらず派手ね」
開かれた廊下の中央を颯爽と歩く人物を確認し、水柯は感嘆の声を洩らした。
毅然と前を見据え、一人の人物が廊下を渡ってくる。
頭の高い位置で一つに束ねられた癖のない黒髪が目を惹く。
身に纏っているのは制服ではなく、白い袴だった。
無表情に近い顔は、凛然としていて美しい。
廊下を素足で歩く姿は典雅な雰囲気を醸し出していた。
女子が騒ぐのも頷けるような美貌を誇る麗人――徳川直杉。
水柯たちの同級生であり、二年生でありながら弓道部の主将を務める人物だった。

* NEXT * INDEX * BACK
生徒玄関に到着したところで、水柯はようやく二人に追いついた。
聖華学園の校舎は上空から俯瞰すると、凹の形をしている。
正門から向かって左手に当たるL字型の部分が旧校舎、反対側が新校舎という造りなのだ。
線対称を成すL字型の新旧両校舎の繋ぎ目――校舎正面に生徒玄関は位置していた。
「うるさいぞ。ついてくるな」
「仕方ないでしょ、同じクラスなんだから」
鬱陶しげに振り返る樹里に、水柯は憮然と抗議した。
それほど邪険に扱われる所以はないし、そもそも同学年同クラスで『ついてくるな』というのが無理な話だ。
「そうそう。行く先は一緒なんだから無茶言うなよ、樹里。さっ、行こうか水柯ちゃん」
珍しく充が樹里の意見を退け、彼の武器とも言える柔和な笑顔を水柯に向けてくる。
「うわっ、充くん、優しい!」
水柯は顔を輝かせ、弾んだ足取りで充の隣に肩を並べた。
「水柯ちゃんは可愛いからね。特別だよ」
「充くんも女に手が早いことを除けば、最高のフェミニストよね」
「ったく、何言ってんだか……。勝手に意気投合するなよ」
ブツブツと不満を洩らす樹里を敢えて無視し、水柯は玄関から廊下へと身を移した。
朝の廊下は生徒たちでごった返している。
どこを見ても渋い緑色で埋め尽くされていた。
二年生の教室は新校舎にある。
水柯たちがそちらへ足を向けかけた瞬間、
「キャアッ! 徳川先輩よ」
突如として緑の群れがどよめいた。
「朝からツイてるわ!」
「直杉(なおすぎ)センパイ、おはようございまーす!」
女生徒たちの黄色い歓声が廊下を揺るがし始める。
水柯はその凄まじさに驚き、思わず足を止めてしまった。
目をしばたたかせながら周囲に首を巡らせる。
「徳川先輩、素敵!」
「ああ、いつ見ても凛々しいわ」
「あたしも先輩の顔見たーい!」
少女たちの声は次第に増大し、生徒の大部分がその騒々しさに足留めを食らっていた。
「格好良すぎて、頭がクラクラするわ」
「徳川先輩、こっち向いて下さい!」
悲鳴に近い歓声は、徐々に三人の方へ接近してくる。
「徳川か……」
樹里が旧校舎方面の廊下を見つめ、不服げに呟く。
ほぼ同時に、生徒たちが一斉に廊下の両脇に身体を寄せ、道を開けた。
「相変わらず派手ね」
開かれた廊下の中央を颯爽と歩く人物を確認し、水柯は感嘆の声を洩らした。
毅然と前を見据え、一人の人物が廊下を渡ってくる。
頭の高い位置で一つに束ねられた癖のない黒髪が目を惹く。
身に纏っているのは制服ではなく、白い袴だった。
無表情に近い顔は、凛然としていて美しい。
廊下を素足で歩く姿は典雅な雰囲気を醸し出していた。
女子が騒ぐのも頷けるような美貌を誇る麗人――徳川直杉。
水柯たちの同級生であり、二年生でありながら弓道部の主将を務める人物だった。
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直杉の後ろを、二十人ほどの女子たちが憧憬に瞳を潤ませながらゾロゾロと付き従っている。
歓呼の声は、それらの女子から発せられているのだ。
「フン。ここは宝塚じゃないんだぞ」
直杉に群がる女子をあからさまに軽視しながら、樹里が忌々しげに鼻を鳴らした。
それを承けて、充が苦い笑みを浮かべる。
「直杉だって不本意だろうさ。女たちが勝手に付き纏ってるだけだろうし。歴とした女なのに大変だな、あいつも」
そう、徳川直杉は女なのだ。
直杉は、M市屈指の名旧家である徳川家の嫡子として、この世に生を受けた。
偏屈で頑固な祖父が、彼女が生まれる際に『名前は男でも女でも《直杉》だ』と言い通したため、彼女には男らしい名前がつけられたのである。
名前の効果なのか、直杉は名家のお嬢様だというのにお嬢様らしくは育たなかった。
華道や茶道よりも武道を好む気質の持ち主なのだ。
学園では弓道部に所属しているが、他の武道も一通り会得していると噂されている。
武芸に秀で、かつ中性的な容姿を持つ直杉に群がる少女の数は、日に日に増える一方であった。本人の望む望まないは別として。
「ナオちゃん、おはよう!」
近寄ってくる直杉に向かって、水柯は元気よく手を振った。
こちらに気づいた直杉が、悠然と歩み寄ってくる。
熱烈な直杉信奉者の女子たちは、落胆したように足を止めた。
それでも熱い視線を直杉に注ぐことは止めない。
「袴なんか履いちゃって、どうしたの?」
袴姿の直杉を物珍しげに眺めながら、水柯は小首を傾げた。
「日曜に隣の陵蘭高校と親善試合がある。少し練習しておこうと思ってな」
「嫌味な奴だな。練習する必要なんて全然ないくせに」
樹里が仏頂面で直杉を見遣り、揶揄を込めた言葉を投げつける。
「それは私の力量を評価してくれているのか、田端。ならば、今の言葉は賛辞として受け取っておくが」
「ケナしてんだよ」
樹里がソッポを向く。
「樹里って、ナオちゃんに冷たいよね」
二人のやり取りを聞いて、水柯は溜息をついた。
声には、樹里の刺々しい態度に対する非難が自然と滲み出てしまう。
直杉は水柯の友人だし、樹里にとってもクラスメイトだ。
もう少し樹里の方から歩み寄ってもいいのではないか、と水柯は常々思う。
だが、樹里にはそんな心遣いなど微塵もないようだった。
「樹里は女なら誰にでも冷たいんだよ。女の子には最大限に優しくする義務が、男にはあるのにな」
充が唇の端を歪めながら樹里の顔を覗き込む。
「充の考え方には賛同できないし、僕は水柯と徳川を女だと思ったことは一度もないね」
「手厳しいことで。でも逆に、樹里の評価の中では高ランクだってことだ、お二人さん」
「素直に喜んでいいものかどうか、複雑な心境だな」
直杉が無表情のまま首を捻る。
「わたし、ちっとも嬉しくないわよ」
水柯は頬を膨らませ、恨みがましく樹里を睨めつけた。
「うるさいな。――早く制服に着替えてこいよ、徳川。ただでさえ目立つのに、いつまでもそんな格好してるなよ」
集中非難を浴びたことにムッとしたのか、樹里が直杉に理不尽な文句を叩きつける。
そうかと思うと彼は急に身を転じ、一人でさっさと新校舎の方へと歩き出してしまった。
「オイ、待てよ!」
充が慌てて樹里を追いかける。
水柯は直杉を見上げ、お手上げだというように肩を竦めてみせた。

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歓呼の声は、それらの女子から発せられているのだ。
「フン。ここは宝塚じゃないんだぞ」
直杉に群がる女子をあからさまに軽視しながら、樹里が忌々しげに鼻を鳴らした。
それを承けて、充が苦い笑みを浮かべる。
「直杉だって不本意だろうさ。女たちが勝手に付き纏ってるだけだろうし。歴とした女なのに大変だな、あいつも」
そう、徳川直杉は女なのだ。
直杉は、M市屈指の名旧家である徳川家の嫡子として、この世に生を受けた。
偏屈で頑固な祖父が、彼女が生まれる際に『名前は男でも女でも《直杉》だ』と言い通したため、彼女には男らしい名前がつけられたのである。
名前の効果なのか、直杉は名家のお嬢様だというのにお嬢様らしくは育たなかった。
華道や茶道よりも武道を好む気質の持ち主なのだ。
学園では弓道部に所属しているが、他の武道も一通り会得していると噂されている。
武芸に秀で、かつ中性的な容姿を持つ直杉に群がる少女の数は、日に日に増える一方であった。本人の望む望まないは別として。
「ナオちゃん、おはよう!」
近寄ってくる直杉に向かって、水柯は元気よく手を振った。
こちらに気づいた直杉が、悠然と歩み寄ってくる。
熱烈な直杉信奉者の女子たちは、落胆したように足を止めた。
それでも熱い視線を直杉に注ぐことは止めない。
「袴なんか履いちゃって、どうしたの?」
袴姿の直杉を物珍しげに眺めながら、水柯は小首を傾げた。
「日曜に隣の陵蘭高校と親善試合がある。少し練習しておこうと思ってな」
「嫌味な奴だな。練習する必要なんて全然ないくせに」
樹里が仏頂面で直杉を見遣り、揶揄を込めた言葉を投げつける。
「それは私の力量を評価してくれているのか、田端。ならば、今の言葉は賛辞として受け取っておくが」
「ケナしてんだよ」
樹里がソッポを向く。
「樹里って、ナオちゃんに冷たいよね」
二人のやり取りを聞いて、水柯は溜息をついた。
声には、樹里の刺々しい態度に対する非難が自然と滲み出てしまう。
直杉は水柯の友人だし、樹里にとってもクラスメイトだ。
もう少し樹里の方から歩み寄ってもいいのではないか、と水柯は常々思う。
だが、樹里にはそんな心遣いなど微塵もないようだった。
「樹里は女なら誰にでも冷たいんだよ。女の子には最大限に優しくする義務が、男にはあるのにな」
充が唇の端を歪めながら樹里の顔を覗き込む。
「充の考え方には賛同できないし、僕は水柯と徳川を女だと思ったことは一度もないね」
「手厳しいことで。でも逆に、樹里の評価の中では高ランクだってことだ、お二人さん」
「素直に喜んでいいものかどうか、複雑な心境だな」
直杉が無表情のまま首を捻る。
「わたし、ちっとも嬉しくないわよ」
水柯は頬を膨らませ、恨みがましく樹里を睨めつけた。
「うるさいな。――早く制服に着替えてこいよ、徳川。ただでさえ目立つのに、いつまでもそんな格好してるなよ」
集中非難を浴びたことにムッとしたのか、樹里が直杉に理不尽な文句を叩きつける。
そうかと思うと彼は急に身を転じ、一人でさっさと新校舎の方へと歩き出してしまった。
「オイ、待てよ!」
充が慌てて樹里を追いかける。
水柯は直杉を見上げ、お手上げだというように肩を竦めてみせた。
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「田端は相も変わらず、か」
樹里と充の姿が人混みに消えた直後、ふと直杉が呟いた。
「ごめんね、ナオちゃん」
「水柯が謝ることではない。あれの女嫌悪症は、今に始まったことではないからな」
「わたしたちを女と見なしてないなら、普通に接してくれてもいいのにね。その辺が矛盾してるのよ、樹里は」
水柯は不満げに唇を尖らせた。
それから気持ちを切り換えるように軽く頭を振り、笑顔で直杉に向き直る。
「ところで、今度の日曜って何日だっけ?」
「十四日だが」
「じゃあ、樹里と試合観に行くね」
「無理しなくていいぞ。田端は嫌がるだろう」
「いいのいいの。たまには無理矢理連れ出して、他人と触れ合ってもらわなきゃダメだわ、あれは。そのうち女嫌いどころか人間嫌いに陥りそうなんだもん」
「無きにしも非ず――だから怖いな、田端の場合」
「そういうこと。今日が九日だから、あと五日ね。それまで樹里を説得しとくわ。――っと、あれ……今日って九日だっけ?」
自分の言葉に急に違和感を覚えて、水柯は数度瞬きを繰り返した。
《九日》という響きが妙に心に引っかかったのだ。
昏い影がサッと脳裏をよぎったような、そんな不吉な感触が芽生える。
「確かに今日は九月九日だが」
「何だか縁起が悪そうな数字並びね。まあ、今日のことはいいんだけど――」
水柯は渋面を湛え、口ごもった。
何か、大切なことを忘れているような気がしてならない。
《九日》という単語は、まだ胸中にわだかまっている。
九月九日――今日は特別な日ではなかっただろうか?
だが、思い出せない。
引っかかりは覚えるものの記憶を上手く引き出せずに、水柯はもどかしさを感じた。
「どうかしたのか?」
顔をしかめていると、不審に思ったのか直杉が尋ねてきた。
水柯は慌ててかぶりを振り、九月九日という日付を頭の隅に追いやった。
「ううん、何でもない。それより、明日はわたしの誕生日なんだけど……樹里、きっと覚えてないんだろうな。去年だって忘れてたし」
咄嗟に胸につかえる別の不安を吐露する。
明日は、水柯の十七回目の誕生日なのだ。
水柯としては大好きな幼なじみに祝ってほしいのが本音だが、当の本人は頗る女嫌いときている。
女性に関する記憶や情報を片っ端から削除していくような人物なのだ。
水柯の誕生日を覚えている確率はゼロに近い。
去年の誕生日も全く気づいてもらえなかった。
当然、一昨年も一昨々年も同様だ。
度重なる前例が水柯の心を弱気にさせていた。
「田端は本当に女泣かせだな」
「あっ、誤解しないでよ! わたし、別に樹里のことなんか……。樹里はただの幼なじみだもん」
水柯は狼狽そのものの体で、あたふたと言葉を連ねた。
「そう弁明する辺りが怪しいぞ」
「と、とにかく何でもないのよ! ナオちゃん、早く着替えておいでね。わたし、先に教室に行ってるから」
水柯は矢継ぎ早に言葉を捲し立て、逃げるように身を翻した。
直杉に自分の心を見透かされたことに羞恥を感じた。
同時に、樹里への隠しきれない恋心に胸が鈍い痛みを発する。
――成就する見込みのない恋だ。
そう己れに言い聞かせ、頭に浮かぶ幼なじみの顔を懸命に振り払いながらひた走る。
脳裏で樹里の顔が霧散した途端、先刻の奇妙な不安がフッと甦ってきた。
九月九日。
中庭。
噴水。
立入禁止――伝説。
意味不明な言葉の断片ばかりが、取り留めもなく頭に浮かんでは消えてゆく。
纏まりのない思考に、水柯は険しく眉根を寄せた。
――今日は何の日だったかしら?
*
「ただの幼なじみ。何でもない――か。水柯も意外と不器用だな」
徳川直杉は水柯の後ろ姿を見つめながら、思案するように顎に手をかけた。
「知り合って一年以上になるが、知れば知るほど奇妙な三人だ。極度の女嫌いであり、友人の園田にしか心を開かない田端。女好きでありながら、過保護なまでに田端の面倒をみる園田。マンガオタクを自称し、恋愛に無関心を装っている水柯。水柯はまあ、田端への恋愛感情を本人に悟られぬようにしているだけだろうが――」
一旦言葉を止めると、直杉は双眸に怜悧な光を閃かせた。
ここにはいない少年二人の姿を脳裏に描き、口角に冷笑を刻み込む。
「あとの二人は役者だな。田端は女が嫌いなわけではなく、女を恐れている。その恐怖心を包み隠すために、女嫌いを演じている。そして園田は――園田の方が実は女嫌いだな。あれは女を憎んでいる。博愛主義を持論としているようだが、憎悪すべき女を弄んでは捨てて、心の中で笑っているタイプだ」
そこまで述べて、直杉は自嘲の笑みとともに言葉を打ち切った。
「あの三人を冷静に分析し、独り呟く私もかなり奇妙だがな」
直杉は水柯から視線を引き剥がすと、背後の旧校舎を振り返った。
すぐに、水柯の『今日って九日だっけ?』という言葉が甦ってくる。
「九月九日――水妖(すいよう)伝説か。馬鹿馬鹿しい」
直杉はそっと瞼を伏せ、皮肉げに唇を歪めた。
「2.謎の一斉下校日」へ続く

* NEXT * INDEX * BACK
樹里と充の姿が人混みに消えた直後、ふと直杉が呟いた。
「ごめんね、ナオちゃん」
「水柯が謝ることではない。あれの女嫌悪症は、今に始まったことではないからな」
「わたしたちを女と見なしてないなら、普通に接してくれてもいいのにね。その辺が矛盾してるのよ、樹里は」
水柯は不満げに唇を尖らせた。
それから気持ちを切り換えるように軽く頭を振り、笑顔で直杉に向き直る。
「ところで、今度の日曜って何日だっけ?」
「十四日だが」
「じゃあ、樹里と試合観に行くね」
「無理しなくていいぞ。田端は嫌がるだろう」
「いいのいいの。たまには無理矢理連れ出して、他人と触れ合ってもらわなきゃダメだわ、あれは。そのうち女嫌いどころか人間嫌いに陥りそうなんだもん」
「無きにしも非ず――だから怖いな、田端の場合」
「そういうこと。今日が九日だから、あと五日ね。それまで樹里を説得しとくわ。――っと、あれ……今日って九日だっけ?」
自分の言葉に急に違和感を覚えて、水柯は数度瞬きを繰り返した。
《九日》という響きが妙に心に引っかかったのだ。
昏い影がサッと脳裏をよぎったような、そんな不吉な感触が芽生える。
「確かに今日は九月九日だが」
「何だか縁起が悪そうな数字並びね。まあ、今日のことはいいんだけど――」
水柯は渋面を湛え、口ごもった。
何か、大切なことを忘れているような気がしてならない。
《九日》という単語は、まだ胸中にわだかまっている。
九月九日――今日は特別な日ではなかっただろうか?
だが、思い出せない。
引っかかりは覚えるものの記憶を上手く引き出せずに、水柯はもどかしさを感じた。
「どうかしたのか?」
顔をしかめていると、不審に思ったのか直杉が尋ねてきた。
水柯は慌ててかぶりを振り、九月九日という日付を頭の隅に追いやった。
「ううん、何でもない。それより、明日はわたしの誕生日なんだけど……樹里、きっと覚えてないんだろうな。去年だって忘れてたし」
咄嗟に胸につかえる別の不安を吐露する。
明日は、水柯の十七回目の誕生日なのだ。
水柯としては大好きな幼なじみに祝ってほしいのが本音だが、当の本人は頗る女嫌いときている。
女性に関する記憶や情報を片っ端から削除していくような人物なのだ。
水柯の誕生日を覚えている確率はゼロに近い。
去年の誕生日も全く気づいてもらえなかった。
当然、一昨年も一昨々年も同様だ。
度重なる前例が水柯の心を弱気にさせていた。
「田端は本当に女泣かせだな」
「あっ、誤解しないでよ! わたし、別に樹里のことなんか……。樹里はただの幼なじみだもん」
水柯は狼狽そのものの体で、あたふたと言葉を連ねた。
「そう弁明する辺りが怪しいぞ」
「と、とにかく何でもないのよ! ナオちゃん、早く着替えておいでね。わたし、先に教室に行ってるから」
水柯は矢継ぎ早に言葉を捲し立て、逃げるように身を翻した。
直杉に自分の心を見透かされたことに羞恥を感じた。
同時に、樹里への隠しきれない恋心に胸が鈍い痛みを発する。
――成就する見込みのない恋だ。
そう己れに言い聞かせ、頭に浮かぶ幼なじみの顔を懸命に振り払いながらひた走る。
脳裏で樹里の顔が霧散した途端、先刻の奇妙な不安がフッと甦ってきた。
九月九日。
中庭。
噴水。
立入禁止――伝説。
意味不明な言葉の断片ばかりが、取り留めもなく頭に浮かんでは消えてゆく。
纏まりのない思考に、水柯は険しく眉根を寄せた。
――今日は何の日だったかしら?
*
「ただの幼なじみ。何でもない――か。水柯も意外と不器用だな」
徳川直杉は水柯の後ろ姿を見つめながら、思案するように顎に手をかけた。
「知り合って一年以上になるが、知れば知るほど奇妙な三人だ。極度の女嫌いであり、友人の園田にしか心を開かない田端。女好きでありながら、過保護なまでに田端の面倒をみる園田。マンガオタクを自称し、恋愛に無関心を装っている水柯。水柯はまあ、田端への恋愛感情を本人に悟られぬようにしているだけだろうが――」
一旦言葉を止めると、直杉は双眸に怜悧な光を閃かせた。
ここにはいない少年二人の姿を脳裏に描き、口角に冷笑を刻み込む。
「あとの二人は役者だな。田端は女が嫌いなわけではなく、女を恐れている。その恐怖心を包み隠すために、女嫌いを演じている。そして園田は――園田の方が実は女嫌いだな。あれは女を憎んでいる。博愛主義を持論としているようだが、憎悪すべき女を弄んでは捨てて、心の中で笑っているタイプだ」
そこまで述べて、直杉は自嘲の笑みとともに言葉を打ち切った。
「あの三人を冷静に分析し、独り呟く私もかなり奇妙だがな」
直杉は水柯から視線を引き剥がすと、背後の旧校舎を振り返った。
すぐに、水柯の『今日って九日だっけ?』という言葉が甦ってくる。
「九月九日――水妖(すいよう)伝説か。馬鹿馬鹿しい」
直杉はそっと瞼を伏せ、皮肉げに唇を歪めた。
「2.謎の一斉下校日」へ続く
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授業課程を全てこなし、ホームルームが終了した直後、貴籐水柯は勢いよく席を立った。
鞄を片手に樹里の席へと歩み寄る。
「たまには一緒に帰ろう」
にこやかに樹里に声をかける。
家までの道中、何とか話題を明日の誕生日へと巧く運べないものか、と考えたのだ。
だが、その魂胆は樹里の冷徹な眼差しの前に呆気なく潰えた。
「イヤだね」
机に頬杖をついたまま、樹里は如何にも面倒臭そうに水柯を見上げたのだ。
「いいじゃない。家、隣なんだから」
「イヤなものはイヤだね。――充、帰ろう」
樹里は水柯を冷たく突き放しておいて、後ろの席の充を振り返った。
「わたしはダメでも充くんはいいわけ?」
「まあまあ、水柯ちゃん」
頬を膨らませる水柯に、充が困ったように微笑む。
彼は鞄を掴んで席を立つと、樹里に悪戯っぽい視線を投げた。
「悪いな。俺、これからデート」
「は? 彼女、海外旅行中って言ってなかったっけ? ……また女換えたのか」
呆れと嫌悪の相俟った樹里の視線が充に注がれる。
充は笑顔でそれを受け止めた。
「換えたわけじゃないさ。旅行中の彼女とも、ちゃんとつき合ってる。今日デートするのは、前の彼女」
「それ、世間一般では二股って言うんじゃない? じゃなきゃ、浮気よ」
水柯は白い目で充を眺めた。
充の自由奔放な女性関係にはほとほと呆れてしまう。
「どっちでもいいよ。二人とも俺のことが好きだっていうんだからさ。向こうが勝手に好きになったんだ。俺のことが許せないなら、向こうから勝手に別れてくれればいい」
「そんなこと、あっさり笑顔で言われてもねぇ……。今の彼女のこと好きじゃないの?」
「好きだよ。つき合ってる子、みんなね」
充は笑顔を絶やさずにサラリと告げる。
水柯と樹里の口から同時に溜息が洩れた。
「充くんは、すぐはぐらかすんだから」
「あまり悪行重ねるなよ」
「あっ、樹里には言われたくないな。何せ、水柯ちゃんによると同レベルだからね。俺とおまえの女泣かせは。――じゃ、また明日な。おっと、直杉もな!」
充は少し離れた席にいる直杉に向かって片手を振ると、そのまま猛ダッシュで教室を飛び出していった。

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鞄を片手に樹里の席へと歩み寄る。
「たまには一緒に帰ろう」
にこやかに樹里に声をかける。
家までの道中、何とか話題を明日の誕生日へと巧く運べないものか、と考えたのだ。
だが、その魂胆は樹里の冷徹な眼差しの前に呆気なく潰えた。
「イヤだね」
机に頬杖をついたまま、樹里は如何にも面倒臭そうに水柯を見上げたのだ。
「いいじゃない。家、隣なんだから」
「イヤなものはイヤだね。――充、帰ろう」
樹里は水柯を冷たく突き放しておいて、後ろの席の充を振り返った。
「わたしはダメでも充くんはいいわけ?」
「まあまあ、水柯ちゃん」
頬を膨らませる水柯に、充が困ったように微笑む。
彼は鞄を掴んで席を立つと、樹里に悪戯っぽい視線を投げた。
「悪いな。俺、これからデート」
「は? 彼女、海外旅行中って言ってなかったっけ? ……また女換えたのか」
呆れと嫌悪の相俟った樹里の視線が充に注がれる。
充は笑顔でそれを受け止めた。
「換えたわけじゃないさ。旅行中の彼女とも、ちゃんとつき合ってる。今日デートするのは、前の彼女」
「それ、世間一般では二股って言うんじゃない? じゃなきゃ、浮気よ」
水柯は白い目で充を眺めた。
充の自由奔放な女性関係にはほとほと呆れてしまう。
「どっちでもいいよ。二人とも俺のことが好きだっていうんだからさ。向こうが勝手に好きになったんだ。俺のことが許せないなら、向こうから勝手に別れてくれればいい」
「そんなこと、あっさり笑顔で言われてもねぇ……。今の彼女のこと好きじゃないの?」
「好きだよ。つき合ってる子、みんなね」
充は笑顔を絶やさずにサラリと告げる。
水柯と樹里の口から同時に溜息が洩れた。
「充くんは、すぐはぐらかすんだから」
「あまり悪行重ねるなよ」
「あっ、樹里には言われたくないな。何せ、水柯ちゃんによると同レベルだからね。俺とおまえの女泣かせは。――じゃ、また明日な。おっと、直杉もな!」
充は少し離れた席にいる直杉に向かって片手を振ると、そのまま猛ダッシュで教室を飛び出していった。
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→ BACK
水柯は充が消えたドアに目を向け、肩をすぼめた。
自然と直杉と視線がかち合う。
「なまじ美男子に生まれてしまうと苦労が絶えないものだな。園田も田端も」
直杉が率直な見解とも嫌味ともとれる発言をしながら、こちらへやってくる。
すかさず樹里が彼女を上目遣いに眺め、皮肉を放った。
「徳川もな」
「ナオちゃんは美男子じゃなくて美少女よ!確かに、男装の麗人めいたところはあるけどね。あっ、でも、樹里とナオちゃんを並べたら、どっちが男か女か判らないかも」
水柯は樹里と直杉を交互に見遣った。
二人とも至極端整な顔立ちをしているから、髪型や服装次第では男女どちらの性別にも変身できるような気がする。
「そうだ! 今度二人をモデルにして、可愛い少年とハンサムな少女のラブロマンスでもマンガにしようかな」
「頼むから止めてくれ。それに、そのネタ、ありきたりじゃないか?」
妄想世界に魂を奪われつつある水柯を見咎めて、樹里が心底嫌そうに言葉を口にする。
「ほっといてよ。樹里にマンガのこと、あれこれ言われたくなーい」
水柯が唇を尖らせて抗議すると、樹里からは呆れた眼差しが返ってきた。
そんな二人を見て、直杉が微笑する。
「そのマンガ、出来上がったら是非読ませてもらいたいものだな」
「オイ、水柯がその気になるから社交辞令でも言うなよ。例えマンガでも徳川とロマンスなんて冗談じゃない」
ギョッとしたように樹里が目を丸める。
「創作なのだし、構わないではないか。水柯に抗議するのは、完成した作品を読んでからでもいいだろう。――では、私は部活があるので失礼させてもらうぞ」
樹里の不満を軽く受け流すと、直杉は流麗な動作で踵を返した。
「部活って――今日は九月九日だぞ」
樹里が訝しげに眉根を寄せる。
九月九日。
樹里の口から飛び出した言葉に、水柯はハッと目を見開いた。
心臓が大きく脈を打つ。
今朝感じたのと同種の胸騒ぎを覚えた。
水柯は不安に表情を翳らせ、樹里を見遣った。
「ねえ、今日って何の日――」
問いかけを発したのと同時に、校内放送のチャイムがスピーカーから流れ出した。
クラスメイトたちの視線が、黒板脇に設えられたスピーカーへと集中する。
『お知らせです。今日は一斉下校日です。生徒の皆さんは午後四時までに速やかに下校して下さい。なお午後六時以降、当学園は完全に封鎖されますので、忘れ物等ないように気をつけて下さい。繰り返します――』
放送部員の無機質なアナウンスがスピーカーから発せられた。
「あっ、そうか! 九月九日、水妖伝説だ」
不意に、水柯は全てに納得がいってパンッと両手を叩き合わせた。
朝から胸中にわだかまっていた、もやもやした黒い霧のようなものが瞬く間に消え失せる。
「今日は伝説の日だったのね」
「伝説というか、単なる噂だけどね。誰も水妖なんて見たことないんだから」
樹里が素っ気なく告げる。その口調から、伝説を全く信じていないことが窺えた。
「毎年九月九日、その日が月のない夜ならば、中庭の噴水から水の化け物が出てくる――信じるに値しない下らぬ伝承だな」
直杉も端から伝説を信用していないらしく、否定的な見解を述べる。
水柯は頷きで同意を示した。
樹里や直杉の言う通り、馬鹿げた噂だ。
信憑性が全くない。
幼稚な怪談か質の悪いお伽話の類だ。
そもそも、学園側が伝説を真に受けていること自体おかしいのだ。
真実味のない噂話に対して、学園封鎖という徹底した手段をとる必要性を見出せない。
「うちの学園では心霊現象が多発してるらしいけど、そんなのどこの学校にでもあることだろ。学園の七不思議とかはさ。一々相手にしてるのは、この学園ぐらいだよ」
「うむ。幽霊が出没するという噂は多々あるようだな」
「――幽霊?」
水柯は首を傾げた。
常日頃からマンガに意識を奪われているので、女の子たちが好むような噂話には疎いのだ。
「九月に入ると旧校舎での幽霊目撃談が急増するそうだ。誰もいないはずの美術室から女の啜り泣きが聞こえてきたり、廊下に赤子の泣き声が響いたりするらしい。昔、旧校舎で自害した女生徒の霊魂が彷徨っているとかなんとか……。どの学校にでもありそうな、如何にもな怪談だ」
眉唾話だ――と言いたげに、直杉が唇の端を吊り上げる。
冷笑が美顔を彩った。
「まあ、噂がどうあれ、今日が一斉下校日なのは事実だ。僕たちは学園側の指示通り、四時には校舎を出なきゃならなんいだよ。それでも部活してくのか、徳川」
樹里が鬱陶しげに前髪を片手で掻き上げながら、直杉を見上げる。
「試合が近いからな。それに心配には及ばない。六時までは顧問に許可を取ってある」
「そこまでして練習する必要はないと思うけどなぁ」
水柯は思わず率直な意見を述べていた。
直杉の弓道の腕前は抜群なのだ。
親善試合に備えて殊更鍛錬する必要もないはずだ。
「特に練習したいわけでもない。ただ少し、一人になって精神集中したいだけだ。幸い今日は一斉下校日。群がる見物人もいないしな」
「ナオちゃん、いつも女の子に囲まれてるもんね。確かに、毎日あの調子で見学に来られちゃ練習に身が入らないよね」
「彼女たちに悪意があるわけではないし、練習に支障を来すわけでもない。だが時折、一人静かに的に向かいたくなるのだよ」
「やっぱり単にギャラリーがうざいだけじゃないか」
言い訳めいた発言をする直杉に、樹里が揶揄混じりの言葉を投げつける。
途端、直杉の口元に自嘲気味な微笑が閃いた。
「そうかもしれぬな。――とにかく許可された時間は短い。悪いが、私はこれで失礼させてもらうぞ」
直杉の視線が壁時計に流される。
時刻は午後三時四十分。
それを確認するなり、彼女は軽やかな足取りで教室を出て行ってしまった。
*

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自然と直杉と視線がかち合う。
「なまじ美男子に生まれてしまうと苦労が絶えないものだな。園田も田端も」
直杉が率直な見解とも嫌味ともとれる発言をしながら、こちらへやってくる。
すかさず樹里が彼女を上目遣いに眺め、皮肉を放った。
「徳川もな」
「ナオちゃんは美男子じゃなくて美少女よ!確かに、男装の麗人めいたところはあるけどね。あっ、でも、樹里とナオちゃんを並べたら、どっちが男か女か判らないかも」
水柯は樹里と直杉を交互に見遣った。
二人とも至極端整な顔立ちをしているから、髪型や服装次第では男女どちらの性別にも変身できるような気がする。
「そうだ! 今度二人をモデルにして、可愛い少年とハンサムな少女のラブロマンスでもマンガにしようかな」
「頼むから止めてくれ。それに、そのネタ、ありきたりじゃないか?」
妄想世界に魂を奪われつつある水柯を見咎めて、樹里が心底嫌そうに言葉を口にする。
「ほっといてよ。樹里にマンガのこと、あれこれ言われたくなーい」
水柯が唇を尖らせて抗議すると、樹里からは呆れた眼差しが返ってきた。
そんな二人を見て、直杉が微笑する。
「そのマンガ、出来上がったら是非読ませてもらいたいものだな」
「オイ、水柯がその気になるから社交辞令でも言うなよ。例えマンガでも徳川とロマンスなんて冗談じゃない」
ギョッとしたように樹里が目を丸める。
「創作なのだし、構わないではないか。水柯に抗議するのは、完成した作品を読んでからでもいいだろう。――では、私は部活があるので失礼させてもらうぞ」
樹里の不満を軽く受け流すと、直杉は流麗な動作で踵を返した。
「部活って――今日は九月九日だぞ」
樹里が訝しげに眉根を寄せる。
九月九日。
樹里の口から飛び出した言葉に、水柯はハッと目を見開いた。
心臓が大きく脈を打つ。
今朝感じたのと同種の胸騒ぎを覚えた。
水柯は不安に表情を翳らせ、樹里を見遣った。
「ねえ、今日って何の日――」
問いかけを発したのと同時に、校内放送のチャイムがスピーカーから流れ出した。
クラスメイトたちの視線が、黒板脇に設えられたスピーカーへと集中する。
『お知らせです。今日は一斉下校日です。生徒の皆さんは午後四時までに速やかに下校して下さい。なお午後六時以降、当学園は完全に封鎖されますので、忘れ物等ないように気をつけて下さい。繰り返します――』
放送部員の無機質なアナウンスがスピーカーから発せられた。
「あっ、そうか! 九月九日、水妖伝説だ」
不意に、水柯は全てに納得がいってパンッと両手を叩き合わせた。
朝から胸中にわだかまっていた、もやもやした黒い霧のようなものが瞬く間に消え失せる。
「今日は伝説の日だったのね」
「伝説というか、単なる噂だけどね。誰も水妖なんて見たことないんだから」
樹里が素っ気なく告げる。その口調から、伝説を全く信じていないことが窺えた。
「毎年九月九日、その日が月のない夜ならば、中庭の噴水から水の化け物が出てくる――信じるに値しない下らぬ伝承だな」
直杉も端から伝説を信用していないらしく、否定的な見解を述べる。
水柯は頷きで同意を示した。
樹里や直杉の言う通り、馬鹿げた噂だ。
信憑性が全くない。
幼稚な怪談か質の悪いお伽話の類だ。
そもそも、学園側が伝説を真に受けていること自体おかしいのだ。
真実味のない噂話に対して、学園封鎖という徹底した手段をとる必要性を見出せない。
「うちの学園では心霊現象が多発してるらしいけど、そんなのどこの学校にでもあることだろ。学園の七不思議とかはさ。一々相手にしてるのは、この学園ぐらいだよ」
「うむ。幽霊が出没するという噂は多々あるようだな」
「――幽霊?」
水柯は首を傾げた。
常日頃からマンガに意識を奪われているので、女の子たちが好むような噂話には疎いのだ。
「九月に入ると旧校舎での幽霊目撃談が急増するそうだ。誰もいないはずの美術室から女の啜り泣きが聞こえてきたり、廊下に赤子の泣き声が響いたりするらしい。昔、旧校舎で自害した女生徒の霊魂が彷徨っているとかなんとか……。どの学校にでもありそうな、如何にもな怪談だ」
眉唾話だ――と言いたげに、直杉が唇の端を吊り上げる。
冷笑が美顔を彩った。
「まあ、噂がどうあれ、今日が一斉下校日なのは事実だ。僕たちは学園側の指示通り、四時には校舎を出なきゃならなんいだよ。それでも部活してくのか、徳川」
樹里が鬱陶しげに前髪を片手で掻き上げながら、直杉を見上げる。
「試合が近いからな。それに心配には及ばない。六時までは顧問に許可を取ってある」
「そこまでして練習する必要はないと思うけどなぁ」
水柯は思わず率直な意見を述べていた。
直杉の弓道の腕前は抜群なのだ。
親善試合に備えて殊更鍛錬する必要もないはずだ。
「特に練習したいわけでもない。ただ少し、一人になって精神集中したいだけだ。幸い今日は一斉下校日。群がる見物人もいないしな」
「ナオちゃん、いつも女の子に囲まれてるもんね。確かに、毎日あの調子で見学に来られちゃ練習に身が入らないよね」
「彼女たちに悪意があるわけではないし、練習に支障を来すわけでもない。だが時折、一人静かに的に向かいたくなるのだよ」
「やっぱり単にギャラリーがうざいだけじゃないか」
言い訳めいた発言をする直杉に、樹里が揶揄混じりの言葉を投げつける。
途端、直杉の口元に自嘲気味な微笑が閃いた。
「そうかもしれぬな。――とにかく許可された時間は短い。悪いが、私はこれで失礼させてもらうぞ」
直杉の視線が壁時計に流される。
時刻は午後三時四十分。
それを確認するなり、彼女は軽やかな足取りで教室を出て行ってしまった。
*
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*
充と直杉に去られ、結局、水柯は希望通りに樹里と下校することになった。
久々に樹里と一緒に帰宅できる喜びに、水柯は密かに胸を高鳴らせながら教室を後にした。
しかし、廊下に出た瞬間――
「おっ、貴籐(きとう)じゃないか。ちょっと待て」
背後から呼び止められてしまったのである。
立ち止まり、背後を顧みると、数学教師の持田がこちらへ歩み寄ってくるところだった。
持田は五十代前半の、気のよさそうな面持ちをした男だ。
生徒たちの評判も悪くはない。
「何をやらかしたんだよ?」
樹里が舌打ちを鳴らし、水柯に非難の眼差しを投げてくる。
水柯は『解んない』と首を竦めてみせてから、持田を強張った顔で見つめた。
穏和な教師のことは嫌いではないが、彼の担当する数学という学術がとても苦手だった。
テストの結果は、いつも赤点かギリギリセーフという惨々たるものなのだ。
「中間テストに向けて、ちゃんと勉強してるか?」
「は、はい。してます、してます!」
持田の問いかけに、水柯は必要以上に力強く頷いた。
「今度赤点を取ったら、追試は免れんぞ」
「解ってます。そうならないために、ママ――っと、母に教えてもらってますから」
持田の用件が大事ではないことに安堵し、水柯は笑顔で応じた。
次に赤点を取ったとしても落第するわけではないのだ。
追試を受けるだけでいいなら戦々恐々することもない。
「おお、そうだったな。桐生くんは元気かな? それに貴籐先生も」
持田が昔日を懐かしむように、普段から柔和な顔を更に和らげる。
『桐生』というのは、水柯の母――蒔柯(まきえ)の旧姓だ。
『貴籐先生』というのは、父の貴籐聡のことを指している。
「はい。父も母も元気ですよ」
「そうか。懐かしいな。もう十七、八年も経ってしまうな。桐生くんが生徒会長で、貴籐先生がこの学園の美術教諭だったのは。才色兼備の生徒会長と新任教師の恋愛は、当時の学園に大論争と大騒動を巻き起こしたもんだ」
「はぁ。完璧にスキャンダル……ですもんね。そうして生まれてきたわたしとしては、どうコメントしていいのか解りませんけれど」
水柯は、恥ずかしさと困惑が混在するような曖昧な笑みを浮かべた。
母の蒔柯は、聖華学園に在籍していたことがあるのだ。
しかも、生徒会長を務めていた。
二年の時に、新しく赴任してきた美術教師・貴籐聡と瞬く間に恋に落ち――在学中に水柯を妊娠したのだという。
子供を産む決心をした蒔柯は、二年の三学期終了と同時に学園を退学している。
聡の方も学園を騒がせた責任をとって教職を離れた。
その後、二人は入籍し、水柯が生まれたのである。

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充と直杉に去られ、結局、水柯は希望通りに樹里と下校することになった。
久々に樹里と一緒に帰宅できる喜びに、水柯は密かに胸を高鳴らせながら教室を後にした。
しかし、廊下に出た瞬間――
「おっ、貴籐(きとう)じゃないか。ちょっと待て」
背後から呼び止められてしまったのである。
立ち止まり、背後を顧みると、数学教師の持田がこちらへ歩み寄ってくるところだった。
持田は五十代前半の、気のよさそうな面持ちをした男だ。
生徒たちの評判も悪くはない。
「何をやらかしたんだよ?」
樹里が舌打ちを鳴らし、水柯に非難の眼差しを投げてくる。
水柯は『解んない』と首を竦めてみせてから、持田を強張った顔で見つめた。
穏和な教師のことは嫌いではないが、彼の担当する数学という学術がとても苦手だった。
テストの結果は、いつも赤点かギリギリセーフという惨々たるものなのだ。
「中間テストに向けて、ちゃんと勉強してるか?」
「は、はい。してます、してます!」
持田の問いかけに、水柯は必要以上に力強く頷いた。
「今度赤点を取ったら、追試は免れんぞ」
「解ってます。そうならないために、ママ――っと、母に教えてもらってますから」
持田の用件が大事ではないことに安堵し、水柯は笑顔で応じた。
次に赤点を取ったとしても落第するわけではないのだ。
追試を受けるだけでいいなら戦々恐々することもない。
「おお、そうだったな。桐生くんは元気かな? それに貴籐先生も」
持田が昔日を懐かしむように、普段から柔和な顔を更に和らげる。
『桐生』というのは、水柯の母――蒔柯(まきえ)の旧姓だ。
『貴籐先生』というのは、父の貴籐聡のことを指している。
「はい。父も母も元気ですよ」
「そうか。懐かしいな。もう十七、八年も経ってしまうな。桐生くんが生徒会長で、貴籐先生がこの学園の美術教諭だったのは。才色兼備の生徒会長と新任教師の恋愛は、当時の学園に大論争と大騒動を巻き起こしたもんだ」
「はぁ。完璧にスキャンダル……ですもんね。そうして生まれてきたわたしとしては、どうコメントしていいのか解りませんけれど」
水柯は、恥ずかしさと困惑が混在するような曖昧な笑みを浮かべた。
母の蒔柯は、聖華学園に在籍していたことがあるのだ。
しかも、生徒会長を務めていた。
二年の時に、新しく赴任してきた美術教師・貴籐聡と瞬く間に恋に落ち――在学中に水柯を妊娠したのだという。
子供を産む決心をした蒔柯は、二年の三学期終了と同時に学園を退学している。
聡の方も学園を騒がせた責任をとって教職を離れた。
その後、二人は入籍し、水柯が生まれたのである。
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「もう二十年近く前の出来事だ。今は、貴籐先生と桐生くんが幸せなら、それでいい」
持田は『つまらないことを口走った』と後悔したのか、気遣わしげな眼差しを水柯に送ってきた。
「両親もわたしも幸せですよ」
水柯は朗らかな笑みを持田に返した。
「幸せ、か……。それなら心配はない。当時を知る教師は、今では私だけだ。あの事件の真相は私だけの胸に秘めておけば――」
「先生?」
急に持田がブツブツと独り言を唱えだしたので、水柯は怪訝に思い眉をひそめた。
水柯の呼びかけに驚いたように、持田がハッと息を呑む。
一瞬、『しまった』というような表情が浮かんだが、それはすぐにいつもの穏やかな笑みへと変化した。
「いやいや、すまない。時の流れに、何というかな……寂寥を感じただけだよ」
取り繕うような持田の笑顔に、水柯は大きく首を捻った。
何だか釈然としない。
だが持田は、水柯に詮索の隙を与えまいというように素早く話題を切り換えた。
「それよりも貴籐、ちゃんと桐生くんに勉強をみてもらえよ」
「うっ……」
痛いところを突かれて、水柯は喉に息を詰まらせた。
勉学のことを持ち出されると弱い。
「蒔柯さんは頭脳明晰だっていうのに、どうして水柯はマンガオタクなのかな」
追い打ちをかけるように、隣で樹里がボソッと嫌味を放つ。
とうとう水柯は言葉そのものを失ってしまった。
横目で樹里を睨みながら、恨みがましく押し黙っていると、
「まあ、頑張れよ。人間、やってできないことはないさ」
持田が励ますように水柯の肩を叩いた。
「けど、水柯の場合はどうかな?」
「樹里!」
水柯は、味方をしてくれる気は毛頭なさそうな樹里の脇腹を思いっ切り肘で突いてやった。
樹里の端整な顔に意地悪な笑みが広がる。
「まっ、水柯が留年しても僕には関係ないけどね」
「そう苛めるな、田端。――おっと、今日は一斉下校日だったな。呼び止めて悪かった。もう帰っていいぞ」
持田が樹里に苦笑を向けてから、軽く片手を挙げる。
「あっ、その一斉下校日の件なんですけど」
不意に、樹里が思い出したように告げた。
「先生、聖華に三十年近くいるんですよね?」
「そうだなぁ。もう、そんなになるか」
持田が苦笑を引っ込め、フッと遠い目で虚空を見つめる。
「水妖伝説って、昔からあったんですか?」
「いきなり、どうしたのよ」
水柯はしかめっ面で樹里を見上げた。
つい先ほど、教室で『下らない伝承だ』と話していたばかりなのに、またその話題が樹里の口から上ったのが不思議だったのだ。
「いや、何となく。別に深い意味はない」
樹里がヒョイと肩を聳やかす。
どうやら本当にただの思いつきで口に出してみたらしい。
「水妖伝説か。私が赴任した時には、既に噂はあったな」
「へえ。この学園、昔から怪談を信じ込む風潮があったんですね」
「あまり認めたくないが、奇々怪々な現象が頻発しているのは事実だ。私も宿直の時に、幽霊らしきものを視たことがある」
「幽霊らしきもの、か……」
樹里が口元を歪める。
彼は怪奇現象の類を全く信じない質なのだ。
「水妖伝説は確証のない噂だ。だが、私が赴任して十数年経った頃、謎の死を遂げた生徒が幾人かいるんだよ。その中には、九月十日の朝、中庭で発見された遺体もある」
持田の顔に昏い翳りが射す。
当時のことを顧みて、いたたまれなくなったのだろう。
持田の話を聞いて、水柯は背筋に悪寒が走るのを感じた。
九月十日の朝に発見――それは、その生徒が九日の夜に亡くなったことを意味していないだろうか……。
「嘘……。それも噂ですよね?」
「亡くなった生徒がいるのは真実なんだよ。おそらく、伝説の真偽を確かめようと遊び半分で学園に忍び込み、そこで何か事故に見舞われたのだろう」
「忍び込んだ生徒たちはみんな死んだ――死人は何も語らないし、生き証人もいない。つまり、伝説が正しいのかどうか、これまで誰にも判断できていないってことですよね」
樹里が眉間に皺を寄せながら、猜疑に満ちた眼差しを持田へ注ぐ。
「その通りだ。伝説に信憑性はない。だがそれ以後も、好奇心に駆られるのか真偽を確かめようとする生徒が時折いてな、彼らの全ては還らぬ人となった。そんなわけで伝説がどうあれ、学園側は九月九日の一斉下校と夜間学園封鎖に踏み切らなくてはいけなくなったのだよ。まあ、二十一世紀になった今、生徒がオカルトじみた伝説を真に受けることはないと思うが……。それだけが幸いだな」
持田は一息に語り、話に終止符を打つように大きな溜息をついた。
「さあ、もういいだろう。生徒は四時までには下校しなきゃならないからな。おまえたちも早く帰宅するといい。――それじゃあ、また明日な」
簡素に別れの挨拶を述べ、持田は背を返すと立ち去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、
「帰ろうか、樹里」
水柯は樹里の制服をツンツンと引っ張った。
「そうだね。帰るか」
樹里が緩慢に頷く。
それを合図に、二人は長い廊下を歩き始めた。
「全くのデタラメってわけでもなさそうだな、水妖伝説」
肩にかかるプラチナブロンドを片手ではね除けながら、樹里がポツリと呟く。
「伝説なんて、わたしたちには関係ないわよ。それに、水の妖怪なんているはずないもん」
「漫画家志望なのに、夢がないな」
「わたしはロマンチストだけど、自分の目で見たもの以外の存在は信じないのよ」
「フンッ、はったりロマンチストが」
他人を小馬鹿にしたように鼻を鳴らす樹里に、水柯は得意気に微笑んでみせた。
「はったりでも何でもいいのよ。わたしが尋常ならざるものの存在を信じなくても、他に信じる人は沢山いるわ。わたしは、その人たちのためにマンガで夢を与えてあげるのよ。それが、わたしの天命なの」
「ご大層なことで」
樹里が冷笑を湛える。
明らかに水柯の言葉を真剣に受け止めていない態度だ。
すかさず水柯は抗議しようと口を開きかけたが、すぐに思い留まった。
だらしなく半開きになった唇を慌てて引き結ぶ。
ここで反撃しても、延々と不毛な嫌味合戦に突入するだけだ。
可能な限り、それは避けたかった。
樹里と険悪な仲になりたいわけではない。
寧ろ、その逆だ。
昔から位置づけられている《幼なじみ》という枠から抜け出てみたい。
もっと樹里の傍に行きたい。
常に、心の奥底でそう切望している。
だが、その願いは水柯の心に熱を注ぐのと同時に、恐怖をも呼び起こすのだ。
樹里の全てを欲し、しかしそれが叶わなかった時――今まで築き上げてきた絆が壊れてしまうような気がしてならない。
失うのが怖い。
だから、今に至るまで想いを打ち明けることができずにいた。
水柯は廊下を歩きながら、幼なじみの横顔をそっと盗み見た。
樹里の宝石のような双眸は前を見据えている――自分に向けられることはない。
不意に、それが永遠の決まり事のような錯覚に陥って、水柯の胸は締めつけられるような痛みを発した。
*

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持田は『つまらないことを口走った』と後悔したのか、気遣わしげな眼差しを水柯に送ってきた。
「両親もわたしも幸せですよ」
水柯は朗らかな笑みを持田に返した。
「幸せ、か……。それなら心配はない。当時を知る教師は、今では私だけだ。あの事件の真相は私だけの胸に秘めておけば――」
「先生?」
急に持田がブツブツと独り言を唱えだしたので、水柯は怪訝に思い眉をひそめた。
水柯の呼びかけに驚いたように、持田がハッと息を呑む。
一瞬、『しまった』というような表情が浮かんだが、それはすぐにいつもの穏やかな笑みへと変化した。
「いやいや、すまない。時の流れに、何というかな……寂寥を感じただけだよ」
取り繕うような持田の笑顔に、水柯は大きく首を捻った。
何だか釈然としない。
だが持田は、水柯に詮索の隙を与えまいというように素早く話題を切り換えた。
「それよりも貴籐、ちゃんと桐生くんに勉強をみてもらえよ」
「うっ……」
痛いところを突かれて、水柯は喉に息を詰まらせた。
勉学のことを持ち出されると弱い。
「蒔柯さんは頭脳明晰だっていうのに、どうして水柯はマンガオタクなのかな」
追い打ちをかけるように、隣で樹里がボソッと嫌味を放つ。
とうとう水柯は言葉そのものを失ってしまった。
横目で樹里を睨みながら、恨みがましく押し黙っていると、
「まあ、頑張れよ。人間、やってできないことはないさ」
持田が励ますように水柯の肩を叩いた。
「けど、水柯の場合はどうかな?」
「樹里!」
水柯は、味方をしてくれる気は毛頭なさそうな樹里の脇腹を思いっ切り肘で突いてやった。
樹里の端整な顔に意地悪な笑みが広がる。
「まっ、水柯が留年しても僕には関係ないけどね」
「そう苛めるな、田端。――おっと、今日は一斉下校日だったな。呼び止めて悪かった。もう帰っていいぞ」
持田が樹里に苦笑を向けてから、軽く片手を挙げる。
「あっ、その一斉下校日の件なんですけど」
不意に、樹里が思い出したように告げた。
「先生、聖華に三十年近くいるんですよね?」
「そうだなぁ。もう、そんなになるか」
持田が苦笑を引っ込め、フッと遠い目で虚空を見つめる。
「水妖伝説って、昔からあったんですか?」
「いきなり、どうしたのよ」
水柯はしかめっ面で樹里を見上げた。
つい先ほど、教室で『下らない伝承だ』と話していたばかりなのに、またその話題が樹里の口から上ったのが不思議だったのだ。
「いや、何となく。別に深い意味はない」
樹里がヒョイと肩を聳やかす。
どうやら本当にただの思いつきで口に出してみたらしい。
「水妖伝説か。私が赴任した時には、既に噂はあったな」
「へえ。この学園、昔から怪談を信じ込む風潮があったんですね」
「あまり認めたくないが、奇々怪々な現象が頻発しているのは事実だ。私も宿直の時に、幽霊らしきものを視たことがある」
「幽霊らしきもの、か……」
樹里が口元を歪める。
彼は怪奇現象の類を全く信じない質なのだ。
「水妖伝説は確証のない噂だ。だが、私が赴任して十数年経った頃、謎の死を遂げた生徒が幾人かいるんだよ。その中には、九月十日の朝、中庭で発見された遺体もある」
持田の顔に昏い翳りが射す。
当時のことを顧みて、いたたまれなくなったのだろう。
持田の話を聞いて、水柯は背筋に悪寒が走るのを感じた。
九月十日の朝に発見――それは、その生徒が九日の夜に亡くなったことを意味していないだろうか……。
「嘘……。それも噂ですよね?」
「亡くなった生徒がいるのは真実なんだよ。おそらく、伝説の真偽を確かめようと遊び半分で学園に忍び込み、そこで何か事故に見舞われたのだろう」
「忍び込んだ生徒たちはみんな死んだ――死人は何も語らないし、生き証人もいない。つまり、伝説が正しいのかどうか、これまで誰にも判断できていないってことですよね」
樹里が眉間に皺を寄せながら、猜疑に満ちた眼差しを持田へ注ぐ。
「その通りだ。伝説に信憑性はない。だがそれ以後も、好奇心に駆られるのか真偽を確かめようとする生徒が時折いてな、彼らの全ては還らぬ人となった。そんなわけで伝説がどうあれ、学園側は九月九日の一斉下校と夜間学園封鎖に踏み切らなくてはいけなくなったのだよ。まあ、二十一世紀になった今、生徒がオカルトじみた伝説を真に受けることはないと思うが……。それだけが幸いだな」
持田は一息に語り、話に終止符を打つように大きな溜息をついた。
「さあ、もういいだろう。生徒は四時までには下校しなきゃならないからな。おまえたちも早く帰宅するといい。――それじゃあ、また明日な」
簡素に別れの挨拶を述べ、持田は背を返すと立ち去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、
「帰ろうか、樹里」
水柯は樹里の制服をツンツンと引っ張った。
「そうだね。帰るか」
樹里が緩慢に頷く。
それを合図に、二人は長い廊下を歩き始めた。
「全くのデタラメってわけでもなさそうだな、水妖伝説」
肩にかかるプラチナブロンドを片手ではね除けながら、樹里がポツリと呟く。
「伝説なんて、わたしたちには関係ないわよ。それに、水の妖怪なんているはずないもん」
「漫画家志望なのに、夢がないな」
「わたしはロマンチストだけど、自分の目で見たもの以外の存在は信じないのよ」
「フンッ、はったりロマンチストが」
他人を小馬鹿にしたように鼻を鳴らす樹里に、水柯は得意気に微笑んでみせた。
「はったりでも何でもいいのよ。わたしが尋常ならざるものの存在を信じなくても、他に信じる人は沢山いるわ。わたしは、その人たちのためにマンガで夢を与えてあげるのよ。それが、わたしの天命なの」
「ご大層なことで」
樹里が冷笑を湛える。
明らかに水柯の言葉を真剣に受け止めていない態度だ。
すかさず水柯は抗議しようと口を開きかけたが、すぐに思い留まった。
だらしなく半開きになった唇を慌てて引き結ぶ。
ここで反撃しても、延々と不毛な嫌味合戦に突入するだけだ。
可能な限り、それは避けたかった。
樹里と険悪な仲になりたいわけではない。
寧ろ、その逆だ。
昔から位置づけられている《幼なじみ》という枠から抜け出てみたい。
もっと樹里の傍に行きたい。
常に、心の奥底でそう切望している。
だが、その願いは水柯の心に熱を注ぐのと同時に、恐怖をも呼び起こすのだ。
樹里の全てを欲し、しかしそれが叶わなかった時――今まで築き上げてきた絆が壊れてしまうような気がしてならない。
失うのが怖い。
だから、今に至るまで想いを打ち明けることができずにいた。
水柯は廊下を歩きながら、幼なじみの横顔をそっと盗み見た。
樹里の宝石のような双眸は前を見据えている――自分に向けられることはない。
不意に、それが永遠の決まり事のような錯覚に陥って、水柯の胸は締めつけられるような痛みを発した。
*
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→ BACK
*
生徒玄関から校庭へと足を踏み入れた途端、無意識に唇がハミングを刻んだ。
いつもの曲目の解らぬ唄だ。
樹里と一緒に帰れる喜びに、水柯の心は少なからず弾んでいた。
貴籐家と田端家は隣同士だというのに、水柯と樹里が登下校をともにすることは滅多にない。
小学校までは常に一緒だったが、中学に上がったのを境に樹里が嫌がり始めたのだ。
いわゆる思春期というやつだったのだろう。
たとえ幼なじみといえども、女子と二人で登下校することに激しい抵抗を覚えたようだ。
高校生になって幾らか樹里の態度は軟化したが、こうして肩を並べて歩くことは稀だった。
だから自然と胸が躍った。
渋い緑色の群れに混ざり、校庭を進む。
正門の前に達したところで、樹里が足を止めた。
「それ、いつも歌ってるよな。何の唄?」
「えっ? あっ、わたしも知らない。物心ついた時には歌ってたみたいなんだけど……」
唐突に訊かれ、水柯は戸惑った。
記憶のページを過去へと向かって捲ってみるが、唄に関する想い出も知識も見当たらなかった。
ただ、子供の頃から口ずさんでいたことだけは覚えている。
「知らないで毎日歌ってるのか。変な奴だな」
樹里が呆れ混じりに告げる。
直後、乾いた風が水柯の頬と髪をサッと撫でた。
同様にして樹里のプラチナブロンドを風がさらい、幻想的に宙へ舞わせる。
「風が強いな」
揺らいだ髪を片手で押さえ、樹里が形の良い顎を上向かせた。
西に傾きつつある陽の光が眩しかったのか、双眸が閉ざされる。
次に瞼が持ち上がった時、翡翠色の虹彩は陽光を反射させ、宝玉そのもののように煌めいた。
――綺麗。
水柯は見慣れているはずの幼なじみの顔に、思わず見惚れてしまった。
時々樹里は、同じ人間とは思えぬほどの苛烈な輝きを発することがある。
彼の裡から不意打ちのように放たれる光輝。
神々しささえ感じさせる樹里の姿は、水柯に純粋な驚嘆を与える。
それと同時に、払拭できぬ寂寥感をも水柯の心の中に産み落としてゆくのだ。
樹里の内面から発せられる冷たい輝きの正体を、水柯は知悉している。
孤独と孤高だ。
樹里には他人を魅了し、惹きつける力が宿っている。
だが、それと同じくらいの強さで、他人を自分に近寄らせない、という相反する力をも彼は持ち合わせていた。
「僕の顔に何かついてる?」
ふと、天を仰いでいた樹里の視線が水柯の顔の位置まで落とされる。
視線が合致した瞬間、水柯は急に自分の考えていたことに羞恥を覚えた。
取り繕うように笑顔を造る。
「樹里は綺麗だなと思って」
「何だよ、今更」
「わたしが触れちゃいけないぐらい綺麗。血は争えない、って本当ね。サラさんも怖いくらいの美人だけど、樹里はもっと――」
何気なくそこまで口にして、水柯は慌てて口を噤んだ。
失敗に気づいたのだ。
決して口外してはならない言葉を口走ってしまった。
しかし、一度口から飛び出してしまった言葉はもう取り戻せない――取り消せない。
気まずさに固唾を呑んで樹里を見上げると、彼の双眸に硬質的な輝きが灯った。
樹里の全身を仄暗い怒気が包み込むのを目の当たりにして、水柯は己れの過ちを痛感した。
「僕は、この顔も髪も――僕の身体の全てを綺麗だなんて思ったことは一度もない」
抑揚の欠片もない淡然とした声。
樹里の心が深く傷つけられ、それゆえに彼が激怒していることを表していた。
「あの女の血が流れているものなんて、何一つ要らなかった。あの女からは何も――細胞の一つさえ受け継ぎたくはなかったんだよ」
樹里の瞳に憎悪の炎が迸る。
「あの女の話はするな」
冷ややかに吐き捨て、樹里は唇を堅く引き結んだ。
感情を露呈してしまったことを隠蔽するように水柯から顔を逸らし、俊敏に身を翻す。
そのまま彼は、脇目も振らずに正門を潜り抜けて行ってしまった。
「樹里……!」
樹里を追いかけようとして、水柯は愕然とした。
足が動かなかったのだ。
自分を拒絶する樹里の背中が怖い。
金縛りに遭ったような焦燥と恐怖に駆られながら、水柯は遠ざかる樹里の後ろ姿を眺めていた。
大切な幼なじみに対して、思慮することなく爆弾発言をしてしまったことが、ひどく悔やまれる。
『サラさん』
軽々しく唇に乗せてはいけない名前――樹里に対する禁句だ。
熟知していたはずなのに、迂闊にも愚行を犯してしまった。
サラ・エドワーズ――本名・田端サラ。
樹里の極度の女嫌いは、彼の母親に起因するというのに……。
去り行く幼なじみの姿が、涙で潤んだ視界の中で溶けるようにして消える。
水柯は眼鏡を外し、零れ落ちる寸前だった涙を指で拭った。
「サイテー」
自分自身を端的に詰り、水柯は色を失った唇を痛いほど噛み締めた。
「3.憂鬱な夜」へ続く

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生徒玄関から校庭へと足を踏み入れた途端、無意識に唇がハミングを刻んだ。
いつもの曲目の解らぬ唄だ。
樹里と一緒に帰れる喜びに、水柯の心は少なからず弾んでいた。
貴籐家と田端家は隣同士だというのに、水柯と樹里が登下校をともにすることは滅多にない。
小学校までは常に一緒だったが、中学に上がったのを境に樹里が嫌がり始めたのだ。
いわゆる思春期というやつだったのだろう。
たとえ幼なじみといえども、女子と二人で登下校することに激しい抵抗を覚えたようだ。
高校生になって幾らか樹里の態度は軟化したが、こうして肩を並べて歩くことは稀だった。
だから自然と胸が躍った。
渋い緑色の群れに混ざり、校庭を進む。
正門の前に達したところで、樹里が足を止めた。
「それ、いつも歌ってるよな。何の唄?」
「えっ? あっ、わたしも知らない。物心ついた時には歌ってたみたいなんだけど……」
唐突に訊かれ、水柯は戸惑った。
記憶のページを過去へと向かって捲ってみるが、唄に関する想い出も知識も見当たらなかった。
ただ、子供の頃から口ずさんでいたことだけは覚えている。
「知らないで毎日歌ってるのか。変な奴だな」
樹里が呆れ混じりに告げる。
直後、乾いた風が水柯の頬と髪をサッと撫でた。
同様にして樹里のプラチナブロンドを風がさらい、幻想的に宙へ舞わせる。
「風が強いな」
揺らいだ髪を片手で押さえ、樹里が形の良い顎を上向かせた。
西に傾きつつある陽の光が眩しかったのか、双眸が閉ざされる。
次に瞼が持ち上がった時、翡翠色の虹彩は陽光を反射させ、宝玉そのもののように煌めいた。
――綺麗。
水柯は見慣れているはずの幼なじみの顔に、思わず見惚れてしまった。
時々樹里は、同じ人間とは思えぬほどの苛烈な輝きを発することがある。
彼の裡から不意打ちのように放たれる光輝。
神々しささえ感じさせる樹里の姿は、水柯に純粋な驚嘆を与える。
それと同時に、払拭できぬ寂寥感をも水柯の心の中に産み落としてゆくのだ。
樹里の内面から発せられる冷たい輝きの正体を、水柯は知悉している。
孤独と孤高だ。
樹里には他人を魅了し、惹きつける力が宿っている。
だが、それと同じくらいの強さで、他人を自分に近寄らせない、という相反する力をも彼は持ち合わせていた。
「僕の顔に何かついてる?」
ふと、天を仰いでいた樹里の視線が水柯の顔の位置まで落とされる。
視線が合致した瞬間、水柯は急に自分の考えていたことに羞恥を覚えた。
取り繕うように笑顔を造る。
「樹里は綺麗だなと思って」
「何だよ、今更」
「わたしが触れちゃいけないぐらい綺麗。血は争えない、って本当ね。サラさんも怖いくらいの美人だけど、樹里はもっと――」
何気なくそこまで口にして、水柯は慌てて口を噤んだ。
失敗に気づいたのだ。
決して口外してはならない言葉を口走ってしまった。
しかし、一度口から飛び出してしまった言葉はもう取り戻せない――取り消せない。
気まずさに固唾を呑んで樹里を見上げると、彼の双眸に硬質的な輝きが灯った。
樹里の全身を仄暗い怒気が包み込むのを目の当たりにして、水柯は己れの過ちを痛感した。
「僕は、この顔も髪も――僕の身体の全てを綺麗だなんて思ったことは一度もない」
抑揚の欠片もない淡然とした声。
樹里の心が深く傷つけられ、それゆえに彼が激怒していることを表していた。
「あの女の血が流れているものなんて、何一つ要らなかった。あの女からは何も――細胞の一つさえ受け継ぎたくはなかったんだよ」
樹里の瞳に憎悪の炎が迸る。
「あの女の話はするな」
冷ややかに吐き捨て、樹里は唇を堅く引き結んだ。
感情を露呈してしまったことを隠蔽するように水柯から顔を逸らし、俊敏に身を翻す。
そのまま彼は、脇目も振らずに正門を潜り抜けて行ってしまった。
「樹里……!」
樹里を追いかけようとして、水柯は愕然とした。
足が動かなかったのだ。
自分を拒絶する樹里の背中が怖い。
金縛りに遭ったような焦燥と恐怖に駆られながら、水柯は遠ざかる樹里の後ろ姿を眺めていた。
大切な幼なじみに対して、思慮することなく爆弾発言をしてしまったことが、ひどく悔やまれる。
『サラさん』
軽々しく唇に乗せてはいけない名前――樹里に対する禁句だ。
熟知していたはずなのに、迂闊にも愚行を犯してしまった。
サラ・エドワーズ――本名・田端サラ。
樹里の極度の女嫌いは、彼の母親に起因するというのに……。
去り行く幼なじみの姿が、涙で潤んだ視界の中で溶けるようにして消える。
水柯は眼鏡を外し、零れ落ちる寸前だった涙を指で拭った。
「サイテー」
自分自身を端的に詰り、水柯は色を失った唇を痛いほど噛み締めた。
「3.憂鬱な夜」へ続く
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貴籐水柯の自宅は、聖華学園から徒歩十分ほどの距離――M市中心部から僅かに逸れた位置に存在していた。
通りに面した二階建ての洋風家屋。
一階の表半分は蒔柯が営む書店、裏半分には貴籐家の玄関、家族の共有空間であるリビングやキッチンなどが配されている。
二階には家族の私室と客室を有していた。
学園から帰宅した水柯は、自室の机に向かって空虚な刻を何時間も過ごしていた。
「はぁ……」
口から洩れるのは重苦しい溜息ばかりである。
脳裏には幼なじみの姿がこびりついている。
自分の不用意な発言で、大好きな樹里の心を抉ってしまった事実がたまらなく辛い。
「わたしって、樹里を傷つけることに関しては天才的な能力を発揮するのかしら」
昔から、いつだってそうだった。
水柯の率直な言動は、時として傷つきやすい樹里の心を土足で踏みにじり、追い詰めてしまう。
そんなことをしたいわけではないのに、結果として彼に傷を与えてしまうのだ。
これまでも何度か樹里を本気で怒らせてしまい、二人の間に深い亀裂を生じさせたことがある。
その裂傷を治療し、快復させるには並々ならぬ努力と誠意が必要であるのことを過去の出来事から学んでいたはずなのに……。
「意外と学習能力ないのね、わたし。ああ、あの時、充くんがいてくれればなぁ」
水柯は机に頬杖をつき、その上に置かれた携帯電話へと視線を落とした。
樹里に電話しようとして、何度も手に持っては机上に戻したものである。
幾度か園田充の携帯ナンバーをディスプレイに表示しては、かけるのを躊躇ってもいた。
正直、水柯は充の女癖の悪さに不快感を持っている。
だが、彼の軽率を装った行為や軽口の影に隠された、樹里に対する本気の態度だけは高く評価していた。
園田充は、己れの本心を不真面目な態度の中に包み隠してしまうことを得意とする人物である――と、水柯は判断を下している。
他人に自分の心を悟られるが極端に嫌なのだろうが、樹里に相対している時だけはその本音が垣間見えることがあるのだ。
それだけ充が樹里を特別に想っているということだ。
同時に、彼は直杉とともに樹里と対等に接することのできる稀少な人物でもあった。
「やっぱり充くんに相談しようかな」
水柯は携帯電話に手を伸ばしかけ、それに触れる直前にピタリと動きを停止させた。
「ダメダメ。デートだって言ってたじゃない。邪魔しちゃ悪いわ。それに樹里、充くんの部屋に転がり込んでるかもしれないし」
充は聖華学園に近い場所にあるマンションで一人暮らしをしているのだ。
その理由を水柯は知らないが、合い鍵を持っている樹里が時折そこへ遊びに行っているのは知っていた。
水柯はまた溜息を吐き出しながら立ち上がり、カーテンを閉めるために窓際へ移動した。
否が応でも隣接する豪華な洋館が視界に飛び込んでくる。田端樹里の住む家だ。
「樹里、家にいるんだ」
田端家の照明は灯っている。
この時間、隣家に在宅しているのは樹里だけだ。
水柯はカーテンに手をかけたまま、しばし隣家を眺めた。
直接謝罪に行けばいいのだろうが、今の水柯にはその勇気がなかった。
今日幾度目になるか解らない溜息をついた時、突如としてヴェルディの『椿姫』が鳴り響いた。
携帯電話の着信音だ。

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通りに面した二階建ての洋風家屋。
一階の表半分は蒔柯が営む書店、裏半分には貴籐家の玄関、家族の共有空間であるリビングやキッチンなどが配されている。
二階には家族の私室と客室を有していた。
学園から帰宅した水柯は、自室の机に向かって空虚な刻を何時間も過ごしていた。
「はぁ……」
口から洩れるのは重苦しい溜息ばかりである。
脳裏には幼なじみの姿がこびりついている。
自分の不用意な発言で、大好きな樹里の心を抉ってしまった事実がたまらなく辛い。
「わたしって、樹里を傷つけることに関しては天才的な能力を発揮するのかしら」
昔から、いつだってそうだった。
水柯の率直な言動は、時として傷つきやすい樹里の心を土足で踏みにじり、追い詰めてしまう。
そんなことをしたいわけではないのに、結果として彼に傷を与えてしまうのだ。
これまでも何度か樹里を本気で怒らせてしまい、二人の間に深い亀裂を生じさせたことがある。
その裂傷を治療し、快復させるには並々ならぬ努力と誠意が必要であるのことを過去の出来事から学んでいたはずなのに……。
「意外と学習能力ないのね、わたし。ああ、あの時、充くんがいてくれればなぁ」
水柯は机に頬杖をつき、その上に置かれた携帯電話へと視線を落とした。
樹里に電話しようとして、何度も手に持っては机上に戻したものである。
幾度か園田充の携帯ナンバーをディスプレイに表示しては、かけるのを躊躇ってもいた。
正直、水柯は充の女癖の悪さに不快感を持っている。
だが、彼の軽率を装った行為や軽口の影に隠された、樹里に対する本気の態度だけは高く評価していた。
園田充は、己れの本心を不真面目な態度の中に包み隠してしまうことを得意とする人物である――と、水柯は判断を下している。
他人に自分の心を悟られるが極端に嫌なのだろうが、樹里に相対している時だけはその本音が垣間見えることがあるのだ。
それだけ充が樹里を特別に想っているということだ。
同時に、彼は直杉とともに樹里と対等に接することのできる稀少な人物でもあった。
「やっぱり充くんに相談しようかな」
水柯は携帯電話に手を伸ばしかけ、それに触れる直前にピタリと動きを停止させた。
「ダメダメ。デートだって言ってたじゃない。邪魔しちゃ悪いわ。それに樹里、充くんの部屋に転がり込んでるかもしれないし」
充は聖華学園に近い場所にあるマンションで一人暮らしをしているのだ。
その理由を水柯は知らないが、合い鍵を持っている樹里が時折そこへ遊びに行っているのは知っていた。
水柯はまた溜息を吐き出しながら立ち上がり、カーテンを閉めるために窓際へ移動した。
否が応でも隣接する豪華な洋館が視界に飛び込んでくる。田端樹里の住む家だ。
「樹里、家にいるんだ」
田端家の照明は灯っている。
この時間、隣家に在宅しているのは樹里だけだ。
水柯はカーテンに手をかけたまま、しばし隣家を眺めた。
直接謝罪に行けばいいのだろうが、今の水柯にはその勇気がなかった。
今日幾度目になるか解らない溜息をついた時、突如としてヴェルディの『椿姫』が鳴り響いた。
携帯電話の着信音だ。
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――樹里かもしれない!
咄嗟にそう思い、水柯は机へと駆け戻った。
ディスプレイに表示される着信番号と名前を確認しもせずに、早速通話ボタンを押す。
「もっ、もしもし、樹里!」
甲高い声で応じると、電話の向こう側で一瞬奇妙な沈黙があった。
『……田端じゃなくて悪かったわね。残念ながら、あたしよ。ア・イ・ザ・ワでーす』
憮然とした声が受話口から流れてくる。
友人――相沢夕香の声だった。
「何だ、夕香か」
相手を確かめずに電話に出た自分が悪いのだが、ついつい落胆の声が零れてしまう。
『あんたの王子様じゃなくてホンットに申し訳ないけど、それはあたしのせいじゃないからね。――で、どうよ。順調に進んでる?』
「は? 何のこと?」
唐突に夕香が口調を改めたので、水柯は電話片手に小首を傾げた。
彼女の質問の意図が全く解せなかった。
『何って――マンガよ、マンガ。同好会の会誌、明日が〆切じゃない』
「あっ! 忘れてた……」
水柯は愕然と目を見開いた。
夕香は水柯と同じマンガ同好会に所属しているのだ。
同好会では年四回、会員のマンガを載せた会誌を発行することになっている。
明日は『秋の号』の原稿〆切日なのだ。
放課後、全員の原稿が回収され、印刷会社に入稿することが既に決定されている。
〆切破りをしたら、会長にどんな大目玉を食らうことか……。
考えて、水柯はゾッとした。
会長に叱られるのも怖いが、それ以上に自分の作品が会誌に載せてもらえないことの方が怖い。
より多くの人に自分のマンガを読んでもらうには、会誌に掲載させてもらうのも一つの手段なのだ。
そのチャンスを逃すなんて愚行の極みだ。
『忘れてた? ってことは、まだ仕上げに取りかかってないわけね……』
「こ、これから頑張るわよ。徹夜してでも仕上げるわ。〆切と徹夜が怖くて、漫画家が務まるもんですか! んじゃ、わたし、早速作業に励むから――またね、夕香」
『まっ、健闘を祈るわ。それじゃあね』
「うん。電話してくれて、ありがとう」
心からの感謝を述べて、水柯は電話を切った。
樹里のことに意識を奪われていて、マンガのことをすっかり失念していた。
夕香が連絡をくれなければ、気づくのにもっと時間を要しただろう。
水柯は、今回の会誌に十六ページの短編を載せることになっている。
既にペン入れとベタ塗りは終了している。
後は背景を処理し、スクリーントーンを貼り、パソコンで作成した台詞を切り貼りするだけだ。
水柯は机上のデジタル時計に視線を馳せた。
時刻は午後七時二十五分を示している。
「よし。間に合うわ」
己れを鼓舞するように力強く頷き、水柯は通学用の鞄を手に取った。
そんなに焦る必要もない、と多少の余裕を持ちながら鞄を開ける。
刹那――
「――――!」
水柯は我が目を疑った。
ショックのあまり全身からサーッと血の気が引いてゆく。
「うっ……嘘でしょ!」
悲鳴に近い叫びをあげながら、慌てて鞄の中身を机にぶちまける。
その中に、原稿を入れたブルーのクリアケースはなかった。
「学校に忘れてきたの? し、信じられない。わたしのバカ。バカバカ、大バカ!」
水柯は己れの失態を激しく罵った。
自分の頬を片手で叩きながら、散らばった鞄の中身を凝視する。
だがやはり、プラスティック製のクリアケースは見当たらない。
「今日は部活がなかったから、忘れてきたとすれば教室ね」
唇をわなわなと震わせながら、水柯は自分の不甲斐なさを呪った。
〆切直前なのに原稿を忘れてくるなんて醜態もいいとろだ。
漫画家志望者としてあるまじき失敗だ。
「フフ……フフフフ。仕方ないわね」
水柯は真っ白になりかけた精神を必死に現実に繋ぎ止め、不気味な笑みを浮かべた。
こうなったら、漫画家志望者の意地とプライドにかけて原稿を取りに行くしかない。
「そう、しょうがないのよ。非常事態だもん」
水柯は空になった鞄に財布と携帯電話を放り込んだ。
身を屈めて机の下に常備してある懐中電灯を取り出すと、それも鞄に詰め込む。
鞄を肩からたすき掛けにして垂らし、最後に机の抽斗を開けた。
そこには、銀色に輝く鍵が二本潜んでいた。
「ママ、ゴメンね。悪いことに使うわけじゃないから許して」
水柯は鍵に向かって両手を合わせてから、キーホルダーに填められた鍵を掴み取った。
二つの鍵は聖華学園新旧両校舎のマスターキーなのだ。
退学する際に、蒔柯が記念品として貰ってきたのだという。
『生徒会長の特権ね』と、蒔柯は笑いながら鍵を見せてくれたことがある。
その時、水柯は『つまり盗んできたのね』と母の行動を苦々しく思った。
だが後日、何か使い道があるかもしれないと思い直し、母に内緒で合い鍵を造っておいたのである。
まさか、それを本当に活用する時が訪れるとは想像もしていなかったが……。
「鍵をつけ替えたって話は聞かないし、多分まだ使えるわよね。よーし、万事オッケー。――いざ出陣!」
鍵を鞄に忍ばせると、水柯は決意に瞳を燃え上がらせて勢いよく身を翻した。

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咄嗟にそう思い、水柯は机へと駆け戻った。
ディスプレイに表示される着信番号と名前を確認しもせずに、早速通話ボタンを押す。
「もっ、もしもし、樹里!」
甲高い声で応じると、電話の向こう側で一瞬奇妙な沈黙があった。
『……田端じゃなくて悪かったわね。残念ながら、あたしよ。ア・イ・ザ・ワでーす』
憮然とした声が受話口から流れてくる。
友人――相沢夕香の声だった。
「何だ、夕香か」
相手を確かめずに電話に出た自分が悪いのだが、ついつい落胆の声が零れてしまう。
『あんたの王子様じゃなくてホンットに申し訳ないけど、それはあたしのせいじゃないからね。――で、どうよ。順調に進んでる?』
「は? 何のこと?」
唐突に夕香が口調を改めたので、水柯は電話片手に小首を傾げた。
彼女の質問の意図が全く解せなかった。
『何って――マンガよ、マンガ。同好会の会誌、明日が〆切じゃない』
「あっ! 忘れてた……」
水柯は愕然と目を見開いた。
夕香は水柯と同じマンガ同好会に所属しているのだ。
同好会では年四回、会員のマンガを載せた会誌を発行することになっている。
明日は『秋の号』の原稿〆切日なのだ。
放課後、全員の原稿が回収され、印刷会社に入稿することが既に決定されている。
〆切破りをしたら、会長にどんな大目玉を食らうことか……。
考えて、水柯はゾッとした。
会長に叱られるのも怖いが、それ以上に自分の作品が会誌に載せてもらえないことの方が怖い。
より多くの人に自分のマンガを読んでもらうには、会誌に掲載させてもらうのも一つの手段なのだ。
そのチャンスを逃すなんて愚行の極みだ。
『忘れてた? ってことは、まだ仕上げに取りかかってないわけね……』
「こ、これから頑張るわよ。徹夜してでも仕上げるわ。〆切と徹夜が怖くて、漫画家が務まるもんですか! んじゃ、わたし、早速作業に励むから――またね、夕香」
『まっ、健闘を祈るわ。それじゃあね』
「うん。電話してくれて、ありがとう」
心からの感謝を述べて、水柯は電話を切った。
樹里のことに意識を奪われていて、マンガのことをすっかり失念していた。
夕香が連絡をくれなければ、気づくのにもっと時間を要しただろう。
水柯は、今回の会誌に十六ページの短編を載せることになっている。
既にペン入れとベタ塗りは終了している。
後は背景を処理し、スクリーントーンを貼り、パソコンで作成した台詞を切り貼りするだけだ。
水柯は机上のデジタル時計に視線を馳せた。
時刻は午後七時二十五分を示している。
「よし。間に合うわ」
己れを鼓舞するように力強く頷き、水柯は通学用の鞄を手に取った。
そんなに焦る必要もない、と多少の余裕を持ちながら鞄を開ける。
刹那――
「――――!」
水柯は我が目を疑った。
ショックのあまり全身からサーッと血の気が引いてゆく。
「うっ……嘘でしょ!」
悲鳴に近い叫びをあげながら、慌てて鞄の中身を机にぶちまける。
その中に、原稿を入れたブルーのクリアケースはなかった。
「学校に忘れてきたの? し、信じられない。わたしのバカ。バカバカ、大バカ!」
水柯は己れの失態を激しく罵った。
自分の頬を片手で叩きながら、散らばった鞄の中身を凝視する。
だがやはり、プラスティック製のクリアケースは見当たらない。
「今日は部活がなかったから、忘れてきたとすれば教室ね」
唇をわなわなと震わせながら、水柯は自分の不甲斐なさを呪った。
〆切直前なのに原稿を忘れてくるなんて醜態もいいとろだ。
漫画家志望者としてあるまじき失敗だ。
「フフ……フフフフ。仕方ないわね」
水柯は真っ白になりかけた精神を必死に現実に繋ぎ止め、不気味な笑みを浮かべた。
こうなったら、漫画家志望者の意地とプライドにかけて原稿を取りに行くしかない。
「そう、しょうがないのよ。非常事態だもん」
水柯は空になった鞄に財布と携帯電話を放り込んだ。
身を屈めて机の下に常備してある懐中電灯を取り出すと、それも鞄に詰め込む。
鞄を肩からたすき掛けにして垂らし、最後に机の抽斗を開けた。
そこには、銀色に輝く鍵が二本潜んでいた。
「ママ、ゴメンね。悪いことに使うわけじゃないから許して」
水柯は鍵に向かって両手を合わせてから、キーホルダーに填められた鍵を掴み取った。
二つの鍵は聖華学園新旧両校舎のマスターキーなのだ。
退学する際に、蒔柯が記念品として貰ってきたのだという。
『生徒会長の特権ね』と、蒔柯は笑いながら鍵を見せてくれたことがある。
その時、水柯は『つまり盗んできたのね』と母の行動を苦々しく思った。
だが後日、何か使い道があるかもしれないと思い直し、母に内緒で合い鍵を造っておいたのである。
まさか、それを本当に活用する時が訪れるとは想像もしていなかったが……。
「鍵をつけ替えたって話は聞かないし、多分まだ使えるわよね。よーし、万事オッケー。――いざ出陣!」
鍵を鞄に忍ばせると、水柯は決意に瞳を燃え上がらせて勢いよく身を翻した。
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「あら、出かけるの?」
一階に下りた途端、運悪く蒔柯に呼び止められた。
書店の方はアルバイトに任せ、休憩でもしに自宅に戻ってきたのだろう。
リビング前の廊下でバッタリ出会してしまった。
持田の言葉にもあったように、蒔柯は娘の水柯から見ても美しい女性だった。
三十代半ばに突入した現在でも、聡明さを窺わせる容姿は何ら損なわれていない。
「ちょっと隣に行ってくる」
水柯は簡素に応じた。
『聖華に行く』と正直に答えることは躊躇われた。
それに隣に行くというのは、決して虚言ではない。
「夕食は?」
「隣で適当に食べる」
「了解。樹里くんに迷惑かけないようにね。――あっ、私も水柯について行こうかしら? 最近、樹里くんに逢ってないしね」
水柯は母の言葉にギョッとしながら、口元を引きつらせて彼女を見返した。
「ダメ。ママにはお店があるでしょ。何より、邪魔しないで。ママったら、わたし以上に樹里に甘いんだもん。母親と樹里を取り合うなんて嫌よ、わたし」
「だって樹里くん、聡さんに似てるんだもの」
「えっ、パパに?」
思いがけない蒔柯の発言に、水柯は驚いて数度瞬きを繰り返した。
「そう。聡さんの若かりし頃にね」
「パパが格好良かったのは認めるけど、樹里には似てないよ」
聡の若い頃の姿は、水柯も写真で見て知っている。
確かに、整った顔立ちの青年だった。
しかし、童顔の聡と英国人の特徴が強く外見に出ている樹里が似ているとは思えなかった。
「髪や瞳の色も顔立ちも違うけれど、不思議と似てるのよね。雰囲気が似てるのかしら? う〜ん、どうしてかしらね」
「知らないわよ、そんなこと。――わたし、もう行くわね」
首を捻る蒔柯に素っ気ない言葉を返し、水柯は玄関へと向かった。
早く原稿を取りに行きたくて心が落ち着かない。
蒔柯とお喋りに時間を費やしている暇はなかった。
「出かけるなら傘を持って行きなさい。天気予報で雨が降るって言ってたわ」
水柯を追って玄関までやって来た蒔柯が、思い出したように告げる。
「要らないわよ。隣に行くだけだもん」
「そうよね。私ったら何を心配しているのかしら……」
ふと、蒔柯の声に溜息が混ざる。
水柯は不審に思って母を顧みた。
蒔柯は水柯を見てはいなかった。
虚ろな眼差しで玄関の一点を眺めている。
「雨――今夜は月のない夜になるのね」
蒔柯が掠れるような声で独り言ちる。
水柯はまじまじと蒔柯の顔を見つめてしまった。
月のない夜――その言葉に嫌な伝説を想起したのだ。
無論、聖華学園に残る水妖伝説だ。
「ねえ、それって水妖伝説のこと?」
「えっ? ああ……ごめんなさい。ちょっとボーッとしちゃって。何の話だったかしら」
蒔柯が急に現実に引き戻されたようにビクッと身体を震わせる。
「ママの時代にも水妖伝説ってあったの?」
母の態度に訝しさを感じながらも、水柯は質問を重ねた。
「あったわね、そんな伝説が。私が生徒会長を務めていた時、女の子が一人、伝説の犠牲になったわ」
「うわっ、ホントに水妖に殺されたの?」
「いえ、そういう意味じゃないわ。あれは……ただの偶然。たまたま九月九日の夜、学園を死に場所に選んだだけだと思うわ。流水は――自殺だったのよ」
「ルミ?」
「その亡くなった人のことよ。館林流水さん。私の同級生だったの」
蒔柯の双眸に暗鬱な翳りが宿る。
館林流水の名を紡ぐ時、唇が震えたように見えた。
「流水の死は伝説とは関係ないわ。飛び降りて落下した場所がちょうど噴水で、しかも九月九日だったから、噂好きの生徒たちが勝手に伝説と結びつけただけよ」
蒔柯の顔に昏い影が落ちる。
過去を反芻して、やるせない気分に陥ったのだろう。
水柯は母の顔を無言で眺めていた。
適切な相槌を見出せない。
「ただの噂よ。水妖なんて、妄想の産物に過ぎないのよ」
水柯の視線を感じたのか、蒔柯は弾かれたように俯き加減だった面を上げた。
「さっ、暗い話はお終い。明日は水柯の誕生日なんだから、ちゃんと樹里くんを誘ってきなさいね」
「う、うん!」
水柯は伝説を脳裏から締め出し、元気よく頷いた。
『うまく誘ってこい』という蒔柯の言葉に力強い励ましを感じた。
明日は誕生日なのだ。
やっぱり大好きな樹里にも自分の生まれた日を祝ってもらいたい。
「じゃ、行って来ます」
両足を靴に突っ込み、蒔柯に笑顔を返す。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
蒔柯の言葉を背に受けながら、水柯は玄関から外界へと飛び出した。
*

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一階に下りた途端、運悪く蒔柯に呼び止められた。
書店の方はアルバイトに任せ、休憩でもしに自宅に戻ってきたのだろう。
リビング前の廊下でバッタリ出会してしまった。
持田の言葉にもあったように、蒔柯は娘の水柯から見ても美しい女性だった。
三十代半ばに突入した現在でも、聡明さを窺わせる容姿は何ら損なわれていない。
「ちょっと隣に行ってくる」
水柯は簡素に応じた。
『聖華に行く』と正直に答えることは躊躇われた。
それに隣に行くというのは、決して虚言ではない。
「夕食は?」
「隣で適当に食べる」
「了解。樹里くんに迷惑かけないようにね。――あっ、私も水柯について行こうかしら? 最近、樹里くんに逢ってないしね」
水柯は母の言葉にギョッとしながら、口元を引きつらせて彼女を見返した。
「ダメ。ママにはお店があるでしょ。何より、邪魔しないで。ママったら、わたし以上に樹里に甘いんだもん。母親と樹里を取り合うなんて嫌よ、わたし」
「だって樹里くん、聡さんに似てるんだもの」
「えっ、パパに?」
思いがけない蒔柯の発言に、水柯は驚いて数度瞬きを繰り返した。
「そう。聡さんの若かりし頃にね」
「パパが格好良かったのは認めるけど、樹里には似てないよ」
聡の若い頃の姿は、水柯も写真で見て知っている。
確かに、整った顔立ちの青年だった。
しかし、童顔の聡と英国人の特徴が強く外見に出ている樹里が似ているとは思えなかった。
「髪や瞳の色も顔立ちも違うけれど、不思議と似てるのよね。雰囲気が似てるのかしら? う〜ん、どうしてかしらね」
「知らないわよ、そんなこと。――わたし、もう行くわね」
首を捻る蒔柯に素っ気ない言葉を返し、水柯は玄関へと向かった。
早く原稿を取りに行きたくて心が落ち着かない。
蒔柯とお喋りに時間を費やしている暇はなかった。
「出かけるなら傘を持って行きなさい。天気予報で雨が降るって言ってたわ」
水柯を追って玄関までやって来た蒔柯が、思い出したように告げる。
「要らないわよ。隣に行くだけだもん」
「そうよね。私ったら何を心配しているのかしら……」
ふと、蒔柯の声に溜息が混ざる。
水柯は不審に思って母を顧みた。
蒔柯は水柯を見てはいなかった。
虚ろな眼差しで玄関の一点を眺めている。
「雨――今夜は月のない夜になるのね」
蒔柯が掠れるような声で独り言ちる。
水柯はまじまじと蒔柯の顔を見つめてしまった。
月のない夜――その言葉に嫌な伝説を想起したのだ。
無論、聖華学園に残る水妖伝説だ。
「ねえ、それって水妖伝説のこと?」
「えっ? ああ……ごめんなさい。ちょっとボーッとしちゃって。何の話だったかしら」
蒔柯が急に現実に引き戻されたようにビクッと身体を震わせる。
「ママの時代にも水妖伝説ってあったの?」
母の態度に訝しさを感じながらも、水柯は質問を重ねた。
「あったわね、そんな伝説が。私が生徒会長を務めていた時、女の子が一人、伝説の犠牲になったわ」
「うわっ、ホントに水妖に殺されたの?」
「いえ、そういう意味じゃないわ。あれは……ただの偶然。たまたま九月九日の夜、学園を死に場所に選んだだけだと思うわ。流水は――自殺だったのよ」
「ルミ?」
「その亡くなった人のことよ。館林流水さん。私の同級生だったの」
蒔柯の双眸に暗鬱な翳りが宿る。
館林流水の名を紡ぐ時、唇が震えたように見えた。
「流水の死は伝説とは関係ないわ。飛び降りて落下した場所がちょうど噴水で、しかも九月九日だったから、噂好きの生徒たちが勝手に伝説と結びつけただけよ」
蒔柯の顔に昏い影が落ちる。
過去を反芻して、やるせない気分に陥ったのだろう。
水柯は母の顔を無言で眺めていた。
適切な相槌を見出せない。
「ただの噂よ。水妖なんて、妄想の産物に過ぎないのよ」
水柯の視線を感じたのか、蒔柯は弾かれたように俯き加減だった面を上げた。
「さっ、暗い話はお終い。明日は水柯の誕生日なんだから、ちゃんと樹里くんを誘ってきなさいね」
「う、うん!」
水柯は伝説を脳裏から締め出し、元気よく頷いた。
『うまく誘ってこい』という蒔柯の言葉に力強い励ましを感じた。
明日は誕生日なのだ。
やっぱり大好きな樹里にも自分の生まれた日を祝ってもらいたい。
「じゃ、行って来ます」
両足を靴に突っ込み、蒔柯に笑顔を返す。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
蒔柯の言葉を背に受けながら、水柯は玄関から外界へと飛び出した。
*
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*
田端樹里は眉間に皺を刻んだ渋い表情で、広いリビングをうろうろと徘徊していた。
「まいったな……」
三十回ほど同じ言葉を繰り返した後、ようやく電話台の前で足を止める。
頭を占めているのは、幼なじみの眼鏡をかけた顔だけだ。
貴籐水柯のショックに凍りついた表情が、脳裏から離れない。
「八つ当たりだよな、やっぱり」
下校時の会話を思い起こしながら、樹里は唸るように呟いた。
母のことを口に出されたので、ついカッとなって不当な非難を浴びせてしまった。
そのことが、喉に刺さった魚の小骨のように気になって仕方がない。
不用意に母のことを口走ったのは、明らかに水柯の過ちだ。
それに対して子供のように感情を露わにし、叱責してしまった自分に激しい羞恥を覚える。
「水柯が悪い。でも、僕も浅慮だったな」
自然と唇から溜息が零れた。
不意に、蛍光灯の光を浴びて眩く輝く白金髪が恨めしく思えてきた。
樹里は上目遣いに前髪を睨み、舌打ちを鳴らした。
それから何度かかぶりを振り、気分を切り換えて電話に手を伸ばす。
水柯との仲を破壊したいわけではない。
彼女は、幼い頃から自分の傍にいてくれた貴重な人物だ。
失うのは嫌だった。
水柯と自分とを繋ぐ橋にひびが入ったのなら、早急にそれを修復するべきなのだ。
頭では解っているが、実際に行動を起こすことには躊躇いが生じてしまう。
水柯の方から電話がかかってこないものか、と虫のいいことを考えていたが、帰宅して三時間強――水柯からのコンタクトは何もない。
「絶対、水柯が悪いんだけどな」
諦め悪く呟きながら、樹里は人気のないリビングを見回した。
今現在、田端家には樹里の他に誰もいない。
父も母も仕事重視の人間であり、滅多に帰宅しないからである。
巨大な家の中で、樹里だけが生活を営んでいるに等しい状態だ。
物心ついた時からずっとそうだったので、今更寂寥を感じたりはしない。
ただ、自分が育った家だというのにそこに蔓延る空気が大嫌いだった。
忌々しささえ覚える。
樹里は、この場にいない《あの女》のことを考えて嫌悪に顔を歪めた。
母親――サラ・エドワーズ。
簡潔に言い表せば『家庭を全く顧みず、自己の利益を追求することに執念を抱いている女性』だ。
「僕を産みたくないと言った、あの女……」
誰もいないリビングを見据え、樹里はきつく唇を噛み締めた。

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田端樹里は眉間に皺を刻んだ渋い表情で、広いリビングをうろうろと徘徊していた。
「まいったな……」
三十回ほど同じ言葉を繰り返した後、ようやく電話台の前で足を止める。
頭を占めているのは、幼なじみの眼鏡をかけた顔だけだ。
貴籐水柯のショックに凍りついた表情が、脳裏から離れない。
「八つ当たりだよな、やっぱり」
下校時の会話を思い起こしながら、樹里は唸るように呟いた。
母のことを口に出されたので、ついカッとなって不当な非難を浴びせてしまった。
そのことが、喉に刺さった魚の小骨のように気になって仕方がない。
不用意に母のことを口走ったのは、明らかに水柯の過ちだ。
それに対して子供のように感情を露わにし、叱責してしまった自分に激しい羞恥を覚える。
「水柯が悪い。でも、僕も浅慮だったな」
自然と唇から溜息が零れた。
不意に、蛍光灯の光を浴びて眩く輝く白金髪が恨めしく思えてきた。
樹里は上目遣いに前髪を睨み、舌打ちを鳴らした。
それから何度かかぶりを振り、気分を切り換えて電話に手を伸ばす。
水柯との仲を破壊したいわけではない。
彼女は、幼い頃から自分の傍にいてくれた貴重な人物だ。
失うのは嫌だった。
水柯と自分とを繋ぐ橋にひびが入ったのなら、早急にそれを修復するべきなのだ。
頭では解っているが、実際に行動を起こすことには躊躇いが生じてしまう。
水柯の方から電話がかかってこないものか、と虫のいいことを考えていたが、帰宅して三時間強――水柯からのコンタクトは何もない。
「絶対、水柯が悪いんだけどな」
諦め悪く呟きながら、樹里は人気のないリビングを見回した。
今現在、田端家には樹里の他に誰もいない。
父も母も仕事重視の人間であり、滅多に帰宅しないからである。
巨大な家の中で、樹里だけが生活を営んでいるに等しい状態だ。
物心ついた時からずっとそうだったので、今更寂寥を感じたりはしない。
ただ、自分が育った家だというのにそこに蔓延る空気が大嫌いだった。
忌々しささえ覚える。
樹里は、この場にいない《あの女》のことを考えて嫌悪に顔を歪めた。
母親――サラ・エドワーズ。
簡潔に言い表せば『家庭を全く顧みず、自己の利益を追求することに執念を抱いている女性』だ。
「僕を産みたくないと言った、あの女……」
誰もいないリビングを見据え、樹里はきつく唇を噛み締めた。
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両親が結婚したのは、父の忍が三十三歳、サラが二十一歳の時だったと聞いている。
サラが十八歳の時、忍の経営するモデルクラブに移籍してきたことが契機だった。
プラチナブロンドと翡翠色の双眸を持つ、美しい英国少女。
忍は一目逢った瞬間、サラに強く惹かれたのだという。
二十代前半まで自身もモデルを生業としていた忍は、サラの裡に烈々と輝く魂を――モデルとしての素質を見出し、後に個人的にも惹かれてゆく。
サラは己れの美貌と才幹、そして忍からの惜しみない援助を糧に、瞬く間にトップモデルの座に登り詰めた。
デザイナーズブランドのマヌカン、宝飾品や化粧品・香水のイメージモデルなど、超一流と名のつく様々な仕事が彼女の元に流れ込んできた。
彼女は若くして人々からの称讃と支持を得、地位や名誉や栄光を一手に握ったのだ。
二十一歳の時、サラは忍の子供を身籠もる。
それを機に二人は結婚。
しかし、それさえもサラの計算――己れの地位を揺るぎないものとするための策略だったのだという。
彼女がトップモデルの座を維持してゆくためには、まだ確固たる後ろ盾が必要だったのだ。
田端忍という業界最大手のモデルクラブのオーナーが。
サラにとって忍はモデル界で這い上がってゆくための道具でしかなかったのだ。
二人の間に愛情はなかった。
忍からサラへの一方通行の想いは存在したが、その逆は一時として有り得なかったのだ。
樹里を出産した時、サラは忍に残酷な告白をしたのだという。
『子供なんて産みたくなかった。あなたを繋ぎ止めておくために、仕方なく産んだのよ』
それが彼女の言い分だった。
そこで初めてサラに利用されていたことを悟った忍は、妻の自分に対する愛情が全て偽りだったことを忘れるように仕事に精励した。
一方サラは、夫が自分に興味を示さなくなったことを『これ幸い』と、若い男性モデルを取っ替え引っ替えし、恋愛に事欠くことがなかった。
三十歳を目前にして、サラは独立。
忍への当てつけのように新たなモデルクラブを設立した。
以後、二人の仲はますます疎遠になり――今に至る。

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サラが十八歳の時、忍の経営するモデルクラブに移籍してきたことが契機だった。
プラチナブロンドと翡翠色の双眸を持つ、美しい英国少女。
忍は一目逢った瞬間、サラに強く惹かれたのだという。
二十代前半まで自身もモデルを生業としていた忍は、サラの裡に烈々と輝く魂を――モデルとしての素質を見出し、後に個人的にも惹かれてゆく。
サラは己れの美貌と才幹、そして忍からの惜しみない援助を糧に、瞬く間にトップモデルの座に登り詰めた。
デザイナーズブランドのマヌカン、宝飾品や化粧品・香水のイメージモデルなど、超一流と名のつく様々な仕事が彼女の元に流れ込んできた。
彼女は若くして人々からの称讃と支持を得、地位や名誉や栄光を一手に握ったのだ。
二十一歳の時、サラは忍の子供を身籠もる。
それを機に二人は結婚。
しかし、それさえもサラの計算――己れの地位を揺るぎないものとするための策略だったのだという。
彼女がトップモデルの座を維持してゆくためには、まだ確固たる後ろ盾が必要だったのだ。
田端忍という業界最大手のモデルクラブのオーナーが。
サラにとって忍はモデル界で這い上がってゆくための道具でしかなかったのだ。
二人の間に愛情はなかった。
忍からサラへの一方通行の想いは存在したが、その逆は一時として有り得なかったのだ。
樹里を出産した時、サラは忍に残酷な告白をしたのだという。
『子供なんて産みたくなかった。あなたを繋ぎ止めておくために、仕方なく産んだのよ』
それが彼女の言い分だった。
そこで初めてサラに利用されていたことを悟った忍は、妻の自分に対する愛情が全て偽りだったことを忘れるように仕事に精励した。
一方サラは、夫が自分に興味を示さなくなったことを『これ幸い』と、若い男性モデルを取っ替え引っ替えし、恋愛に事欠くことがなかった。
三十歳を目前にして、サラは独立。
忍への当てつけのように新たなモデルクラブを設立した。
以後、二人の仲はますます疎遠になり――今に至る。
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――この家は腐臭に満ちている。
その腐敗臭には、サラ・エドワーズという魔女の妖しげな芳香が調合されていた。
樹里は父から聞きかじった今までの経緯を思い出して、不快さに眉根を寄せた。
サラは、樹里が幼い頃から平気で忍以外の男を家に連れ込む女だった。
――あの女は魔女だ。
サラ以外の女性も、彼女と同じ魔性のように感じられてならない。
女は汚い。
狡賢く醜い――そして裏切る。
そこから樹里の女嫌いは始まったのだ。
女は魔物だ。
近寄れば、男は喰い尽くされてしまう。
だから接近してはいけないし、女を傍に寄せてもいけないのだ。
樹里はサラを母親だと認めたことはない。
彼女を激しく憎んでさえいる。
決して口に出しては言わないが、忍は日一日とサラに似てゆく樹里を目にすることが苦痛のようだった。
そのせいなのか、あまり家に寄りつかない。
たまに帰ってきても、樹里の顔を正面から見ようとはしなかった。
サラに酷似する容貌が災いし、樹里と父の間には奇妙な壁が立ちはだかってしまったのだ。
母親の愛情を知らないのも、女性に嫌悪を抱くようになったのも、父親から扱いに困窮されているのも、何もかも――全てサラのせいだ。
サラのように艶めかしく、淫志の強い魔女が傍にいなければ、忍も自分ももっと楽になれるかもしれないのに……。
――生まれてこなければよかった。
そうであれば、忍は気兼ねせずにサラと離婚できたのかもしれない。
樹里という息子が存在するばかりに、忍はサラとの偽りの夫婦生活を演じ続けなければならないのだ。
「とっくに離婚していても、おかしくないのにね」
苦悩の塊を吐き出すように深い溜息をつく。
「あんな女、大嫌いだ。あの女の分身のような自分は――もっと嫌いだ」
虚しい呟きが唇から滑り落ちる。
しかし、その言葉を受け止めてくれる者もはね除けてくれる者もいない。
見てくれだけは豪華なこの家の実体は、朽ち果てた廃墟だ。
「あの女のことなんて、どうでもいい。水柯に電話しなきゃ」
ふと受話器を掴む手が目について、樹里は本来の目的を思い出した。
今は、放蕩の極みを尽くしている母親のことよりも、辛抱強く自分を支えてくれる幼なじみのことを第一に考えなければならない。
受話器に触れている手に力を込め、持ち上げる。
ピンポーン、ピンポーン。
貴籐家の番号をプッシュしかけた時、来訪者を告げるインターホンが鳴り響いた。

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その腐敗臭には、サラ・エドワーズという魔女の妖しげな芳香が調合されていた。
樹里は父から聞きかじった今までの経緯を思い出して、不快さに眉根を寄せた。
サラは、樹里が幼い頃から平気で忍以外の男を家に連れ込む女だった。
――あの女は魔女だ。
サラ以外の女性も、彼女と同じ魔性のように感じられてならない。
女は汚い。
狡賢く醜い――そして裏切る。
そこから樹里の女嫌いは始まったのだ。
女は魔物だ。
近寄れば、男は喰い尽くされてしまう。
だから接近してはいけないし、女を傍に寄せてもいけないのだ。
樹里はサラを母親だと認めたことはない。
彼女を激しく憎んでさえいる。
決して口に出しては言わないが、忍は日一日とサラに似てゆく樹里を目にすることが苦痛のようだった。
そのせいなのか、あまり家に寄りつかない。
たまに帰ってきても、樹里の顔を正面から見ようとはしなかった。
サラに酷似する容貌が災いし、樹里と父の間には奇妙な壁が立ちはだかってしまったのだ。
母親の愛情を知らないのも、女性に嫌悪を抱くようになったのも、父親から扱いに困窮されているのも、何もかも――全てサラのせいだ。
サラのように艶めかしく、淫志の強い魔女が傍にいなければ、忍も自分ももっと楽になれるかもしれないのに……。
――生まれてこなければよかった。
そうであれば、忍は気兼ねせずにサラと離婚できたのかもしれない。
樹里という息子が存在するばかりに、忍はサラとの偽りの夫婦生活を演じ続けなければならないのだ。
「とっくに離婚していても、おかしくないのにね」
苦悩の塊を吐き出すように深い溜息をつく。
「あんな女、大嫌いだ。あの女の分身のような自分は――もっと嫌いだ」
虚しい呟きが唇から滑り落ちる。
しかし、その言葉を受け止めてくれる者もはね除けてくれる者もいない。
見てくれだけは豪華なこの家の実体は、朽ち果てた廃墟だ。
「あの女のことなんて、どうでもいい。水柯に電話しなきゃ」
ふと受話器を掴む手が目について、樹里は本来の目的を思い出した。
今は、放蕩の極みを尽くしている母親のことよりも、辛抱強く自分を支えてくれる幼なじみのことを第一に考えなければならない。
受話器に触れている手に力を込め、持ち上げる。
ピンポーン、ピンポーン。
貴籐家の番号をプッシュしかけた時、来訪者を告げるインターホンが鳴り響いた。
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再度、インターホンのチャイムがリビングに谺する。
樹里は受話器を本体に戻し、急いで玄関へと向かった。
――水柯かもしれない。
淡い期待が胸を掠める。玄関に駆けつけた瞬間、ドンドンと乱暴にドアが叩かれた。
「樹里、いるんでしょ!」
ドア越しに馴染みのある声が聞こえてくる。
ドア・スコープを覗くまでもなく、声の主が誰であるか判断できた――貴籐水柯だ。
「いるのは解ってるんだから、早く開けなさいよ」
いつもと変わらぬ威勢のいい声が響く。
樹里が考えるほど、水柯は放課後の諍いを気に病んではいないのかもしれない。
樹里は一度深呼吸してから、ドアに手を伸ばした。
「今、開けるよ」
チェーンとロックを外し、扉を押し開ける。
直後、樹里は双眸を僅かに細めた。
水柯があのことを『気にしていない』などというのは、ひどく身勝手な願望だったらしい。
樹里の顔を見た途端、水柯は狼狽したように目を逸らしたのだ。
「あ、あのね、樹里……」
水柯が慌てて視線を戻す。
樹里の顔色を窺うような、怖々とした上目遣いだった。
「えーっと、夕方のことなんだけど――ゴメンね」
非常に言いにくそうに水柯が言葉を紡ぐ。
「何のことだか解らないね」
そんな水柯を見て、樹里は白々しく肩を竦めた。
些細な諍いなど、さっさと水に流してしまえばいい。
いつまでも引きずり、水柯との仲がこじれるのは御免だった。
「僕には謝られる覚えなんてないよ。それより、蒔柯さんの手料理を持ってきてくれたんじゃないの? 突っ立ってないで入りなよ」
樹里は大きくドアを開き、水柯に微笑を向けた。
瞬時、樹里の真意を察したように水柯の瞳に明るい輝きが灯る。
「うん。でもね、ママの料理はないのよ」
「残念。期待してたんだけどな。まっ、しょうがないか。代わりに水柯が何か作ってくれるんだろ? 蒔柯さんには劣るけど、それで我慢してやるよ」
「うわっ、酷い言い種……。事実なのが、また痛いわね。マンガなら幾らでも華麗な手捌きを披露できるのに、料理ではその手腕を発揮できないのよね。この前なんか、カレーを作ったのに、パパに『ザ・地獄』とか勝手に命名されたし」
水柯が心外そうに唇を尖らせる。
「水柯がどんな料理にでも唐辛子やキムチを大量に投入するから悪いんだろ」
「いや、だって、とりあえず辛くしておけば味を誤魔化せるかな、と……」
「つまり、地獄のような激辛料理を食べる僕は偉い、と」
「そういえば、いつも残さずに食べてくれるわよね。――ハッ、もしかして超激辛党?」
水柯が、今気がついた、というように目をしばたたかせる。
純粋な驚きの目を向けられて、樹里は唇の片側を引きつらせた。
「このっ、マンガオタクが……」
まともに応える気にもなれない。
一体、この幼なじみは十数年間、自分の何を見てきたのだろう……。
急速に気力が萎えた。
「えっ、何よ? よく聞こえなかったんだけど? まっ、いいわ。ゴハンはちゃんと作るけど、その前にお願いがあるの。ちょっと学校までつき合ってほしいんだけど」
「は?」
勝手に自己完結して話題を切り換えた水柯に、樹里は冷ややかな眼差しを向けた。
愛想笑いを湛えている水柯を見て、今度は訝しさに双眸を眇める。
夜に学校へ赴く理由が全く見出せなかったのだ。
「明日、会誌の〆切なんだけど、原稿忘れてきちゃったの」
「……で、僕に取りに行けって?」
「ううん、『つき合って』って言ったでしょ。もちろん、わたしも行くわよ」
「当然だね。――忘れ物なんて間抜けだな」
「自分でも解ってるわよ。大事な原稿を忘れてくるなんて、未来の漫画家としてあるまじき行為だわ」
水柯が悔しげに唇を噛み締める。
心底、自分の愚かさが許せないのだろう。
――とことんマンガオタクだな。
もう一度胸中で吐き捨て、樹里は小さな溜息をついた。
水柯のマンガに対する情熱は凄まじいものがある。
彼女の世界は、常にマンガを中心に回っているのだ。
今だって、原稿を取りに行くが第一の使命で、樹里に謝りに来たのはそのついでだろう……。
「それで、一緒に行ってくれるの?」
無言の樹里を不審に思ったのか、水柯が片方の眉をはね上げる。
「しょうがないから行ってやるよ。水柯だって一応女の子だし、夜道は危険だからね」
「一応――って、何よ?」
「一応は一応だよ。女嫌いの僕としては、かなり寛容で譲歩した言い方だと思うけど」
「ホンット、性根が曲がってるわよね」
「どういたしまして。僕のは生まれつきで、今更矯正なんてできないからね」
「樹里!」
「ハイハイ……。財布と鍵を取ってくるから、ちょっと待ってて」
水柯に鋭い視線を浴びせられ、樹里は肩を聳やかした。
渋々身を翻しかけて、はたと動きを止める。
「――っと、今日って学園封鎖の日じゃないか。行っても、中に入れないよ」
九月九日の夜、学園は完全に封鎖されているのだ。
忘れ物を取りに行くのはいいが、校舎に入る術がないのでは話にもならない。
「大丈夫よ」
水柯がなぜか得意満面に断言する。
彼女は鮮やかな手つきで鞄からある物を取り出した。
「学園のマスターキー!」
水柯の指先で銀色の鍵がキラリと輝いた。
「4.学園封鎖」へ続く

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樹里は受話器を本体に戻し、急いで玄関へと向かった。
――水柯かもしれない。
淡い期待が胸を掠める。玄関に駆けつけた瞬間、ドンドンと乱暴にドアが叩かれた。
「樹里、いるんでしょ!」
ドア越しに馴染みのある声が聞こえてくる。
ドア・スコープを覗くまでもなく、声の主が誰であるか判断できた――貴籐水柯だ。
「いるのは解ってるんだから、早く開けなさいよ」
いつもと変わらぬ威勢のいい声が響く。
樹里が考えるほど、水柯は放課後の諍いを気に病んではいないのかもしれない。
樹里は一度深呼吸してから、ドアに手を伸ばした。
「今、開けるよ」
チェーンとロックを外し、扉を押し開ける。
直後、樹里は双眸を僅かに細めた。
水柯があのことを『気にしていない』などというのは、ひどく身勝手な願望だったらしい。
樹里の顔を見た途端、水柯は狼狽したように目を逸らしたのだ。
「あ、あのね、樹里……」
水柯が慌てて視線を戻す。
樹里の顔色を窺うような、怖々とした上目遣いだった。
「えーっと、夕方のことなんだけど――ゴメンね」
非常に言いにくそうに水柯が言葉を紡ぐ。
「何のことだか解らないね」
そんな水柯を見て、樹里は白々しく肩を竦めた。
些細な諍いなど、さっさと水に流してしまえばいい。
いつまでも引きずり、水柯との仲がこじれるのは御免だった。
「僕には謝られる覚えなんてないよ。それより、蒔柯さんの手料理を持ってきてくれたんじゃないの? 突っ立ってないで入りなよ」
樹里は大きくドアを開き、水柯に微笑を向けた。
瞬時、樹里の真意を察したように水柯の瞳に明るい輝きが灯る。
「うん。でもね、ママの料理はないのよ」
「残念。期待してたんだけどな。まっ、しょうがないか。代わりに水柯が何か作ってくれるんだろ? 蒔柯さんには劣るけど、それで我慢してやるよ」
「うわっ、酷い言い種……。事実なのが、また痛いわね。マンガなら幾らでも華麗な手捌きを披露できるのに、料理ではその手腕を発揮できないのよね。この前なんか、カレーを作ったのに、パパに『ザ・地獄』とか勝手に命名されたし」
水柯が心外そうに唇を尖らせる。
「水柯がどんな料理にでも唐辛子やキムチを大量に投入するから悪いんだろ」
「いや、だって、とりあえず辛くしておけば味を誤魔化せるかな、と……」
「つまり、地獄のような激辛料理を食べる僕は偉い、と」
「そういえば、いつも残さずに食べてくれるわよね。――ハッ、もしかして超激辛党?」
水柯が、今気がついた、というように目をしばたたかせる。
純粋な驚きの目を向けられて、樹里は唇の片側を引きつらせた。
「このっ、マンガオタクが……」
まともに応える気にもなれない。
一体、この幼なじみは十数年間、自分の何を見てきたのだろう……。
急速に気力が萎えた。
「えっ、何よ? よく聞こえなかったんだけど? まっ、いいわ。ゴハンはちゃんと作るけど、その前にお願いがあるの。ちょっと学校までつき合ってほしいんだけど」
「は?」
勝手に自己完結して話題を切り換えた水柯に、樹里は冷ややかな眼差しを向けた。
愛想笑いを湛えている水柯を見て、今度は訝しさに双眸を眇める。
夜に学校へ赴く理由が全く見出せなかったのだ。
「明日、会誌の〆切なんだけど、原稿忘れてきちゃったの」
「……で、僕に取りに行けって?」
「ううん、『つき合って』って言ったでしょ。もちろん、わたしも行くわよ」
「当然だね。――忘れ物なんて間抜けだな」
「自分でも解ってるわよ。大事な原稿を忘れてくるなんて、未来の漫画家としてあるまじき行為だわ」
水柯が悔しげに唇を噛み締める。
心底、自分の愚かさが許せないのだろう。
――とことんマンガオタクだな。
もう一度胸中で吐き捨て、樹里は小さな溜息をついた。
水柯のマンガに対する情熱は凄まじいものがある。
彼女の世界は、常にマンガを中心に回っているのだ。
今だって、原稿を取りに行くが第一の使命で、樹里に謝りに来たのはそのついでだろう……。
「それで、一緒に行ってくれるの?」
無言の樹里を不審に思ったのか、水柯が片方の眉をはね上げる。
「しょうがないから行ってやるよ。水柯だって一応女の子だし、夜道は危険だからね」
「一応――って、何よ?」
「一応は一応だよ。女嫌いの僕としては、かなり寛容で譲歩した言い方だと思うけど」
「ホンット、性根が曲がってるわよね」
「どういたしまして。僕のは生まれつきで、今更矯正なんてできないからね」
「樹里!」
「ハイハイ……。財布と鍵を取ってくるから、ちょっと待ってて」
水柯に鋭い視線を浴びせられ、樹里は肩を聳やかした。
渋々身を翻しかけて、はたと動きを止める。
「――っと、今日って学園封鎖の日じゃないか。行っても、中に入れないよ」
九月九日の夜、学園は完全に封鎖されているのだ。
忘れ物を取りに行くのはいいが、校舎に入る術がないのでは話にもならない。
「大丈夫よ」
水柯がなぜか得意満面に断言する。
彼女は鮮やかな手つきで鞄からある物を取り出した。
「学園のマスターキー!」
水柯の指先で銀色の鍵がキラリと輝いた。
「4.学園封鎖」へ続く
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M市の中心部――聖華学園に通じる大通りをシルバーのポルシェが軽快に走っていた。
運転席でハンドルを握るのは、胸元の大きく開いたワンピースを身に纏った美女である。
彼女はブルーのエナメルが輝く細い指を伸ばして、何気なくカーラジオのスイッチを入れた。
『関東一円では、夜半から明け方にかけて雨になる模様です――』
天気予報を告げるアナウンサーの声が車内に流れる。
「アラ、雨ですって」
朱塗りの唇が艶めかしく動き、女の視線がチラと助手席を掠める。
助手席に身を預けているのは、華々しい顔立ちの少年だ。
「へえ、雨ねぇ」
少年――園田充は気のない相槌を打った。
時刻は午後八時に近い。
放課後、学園を飛び出した充は、年上の彼女――由香里のポルシェに正門前から堂々と乗り込んだ。
由香里の買い物につき合い、食事の席で充のマンションへ向かうことが決定され、現在に至る。
充が一人暮らしをしているマンションは、聖華学園から徒歩五分ほどの場所に位置していた。
必然的に、学園前の通りがマンションへの最短ルートとなる。
「やっぱり、この辺で降ろして」
聖華学園の長い塀に差し掛かったところで、不意に充は告げた。
「今夜は泊まっても平気でしょう?」
「悪い。樹里がいるかもしれない」
充は表情を崩さずに端的に応えた。
由香里も特別顔色を変えたりはしなかった。
無言でブレーキを踏む。
ポルシェが停車したのは、聖華学園正門の真ん前だった。
「女には合い鍵を渡さないのに、樹里くんには渡してるのよね」
由香里が助手席の方へ身を乗り出し、揶揄するように微笑む。
ふと、彼女の目が充を通り越して車外へと向いた。
「真っ暗ね。どうしたの、コレ?」
暗闇に溶け込んでいる聖華学園を見て、由香里は驚いたらしい。
いつものこの時間なら、まだ部活動に励んでいる生徒たちがいて校舎は煌々と輝いている。
だが、今日に限っては校舎から洩れる明かりは一つもなく、校庭の照明も全て落とされていた。
まるで廃校のような有り様だ。
「今夜は封鎖されてるんだ」
「ふーん、おかしな学校ね」
由香里が校舎から視線を外し、再び充を見つめる。
唐突に、彼女の唇が充のそれに重ねられた。
「あのさ、ここ、学校の真っ正面なんだけど」
由香里の唇が離れるのを待ってから、充は苦笑を浮かべた。
「封鎖されてるんでしょ。誰も来ないわよ。部屋に行けないのなら、ここで……。ちょっとスリリングじゃない」
由香里が助手席のシートを倒しながら、充の膝に乗り上がってくる。
「誰も来ないのにスリリングなのか?」
「細かいことは気にしないの」
由香里が微笑み、再度口づけてくる。
細い指が、巧妙に充の制服のボタンを外し始める。
充は彼女の好きなようにさせていた。
特に断る理由もない。
あっという間にボタンが全て外され、由香里の唇が首筋に埋められた。

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運転席でハンドルを握るのは、胸元の大きく開いたワンピースを身に纏った美女である。
彼女はブルーのエナメルが輝く細い指を伸ばして、何気なくカーラジオのスイッチを入れた。
『関東一円では、夜半から明け方にかけて雨になる模様です――』
天気予報を告げるアナウンサーの声が車内に流れる。
「アラ、雨ですって」
朱塗りの唇が艶めかしく動き、女の視線がチラと助手席を掠める。
助手席に身を預けているのは、華々しい顔立ちの少年だ。
「へえ、雨ねぇ」
少年――園田充は気のない相槌を打った。
時刻は午後八時に近い。
放課後、学園を飛び出した充は、年上の彼女――由香里のポルシェに正門前から堂々と乗り込んだ。
由香里の買い物につき合い、食事の席で充のマンションへ向かうことが決定され、現在に至る。
充が一人暮らしをしているマンションは、聖華学園から徒歩五分ほどの場所に位置していた。
必然的に、学園前の通りがマンションへの最短ルートとなる。
「やっぱり、この辺で降ろして」
聖華学園の長い塀に差し掛かったところで、不意に充は告げた。
「今夜は泊まっても平気でしょう?」
「悪い。樹里がいるかもしれない」
充は表情を崩さずに端的に応えた。
由香里も特別顔色を変えたりはしなかった。
無言でブレーキを踏む。
ポルシェが停車したのは、聖華学園正門の真ん前だった。
「女には合い鍵を渡さないのに、樹里くんには渡してるのよね」
由香里が助手席の方へ身を乗り出し、揶揄するように微笑む。
ふと、彼女の目が充を通り越して車外へと向いた。
「真っ暗ね。どうしたの、コレ?」
暗闇に溶け込んでいる聖華学園を見て、由香里は驚いたらしい。
いつものこの時間なら、まだ部活動に励んでいる生徒たちがいて校舎は煌々と輝いている。
だが、今日に限っては校舎から洩れる明かりは一つもなく、校庭の照明も全て落とされていた。
まるで廃校のような有り様だ。
「今夜は封鎖されてるんだ」
「ふーん、おかしな学校ね」
由香里が校舎から視線を外し、再び充を見つめる。
唐突に、彼女の唇が充のそれに重ねられた。
「あのさ、ここ、学校の真っ正面なんだけど」
由香里の唇が離れるのを待ってから、充は苦笑を浮かべた。
「封鎖されてるんでしょ。誰も来ないわよ。部屋に行けないのなら、ここで……。ちょっとスリリングじゃない」
由香里が助手席のシートを倒しながら、充の膝に乗り上がってくる。
「誰も来ないのにスリリングなのか?」
「細かいことは気にしないの」
由香里が微笑み、再度口づけてくる。
細い指が、巧妙に充の制服のボタンを外し始める。
充は彼女の好きなようにさせていた。
特に断る理由もない。
あっという間にボタンが全て外され、由香里の唇が首筋に埋められた。
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「ねえ、充」
徐に由香里が顔を上げる。
「樹里くんと――した?」
続く彼女の質問に、充は絶句した。
次に、驚きとおかしさで吹き出しそうになる。
最後に唖然を通り越して、呆れた。
「アホか、おまえ。勝手に邪推するな」
「だって充、樹里くんのこと好きでしょう」
「そういう『好き』じゃない」
「私が樹里くんと『寝たい』って言ったら、頑なに反対したじゃない」
「誰だって反対するだろ。自分の恋人を親友に差し出すヤツがどこにいる」
充は憮然としながら、由香里の髪に指を巻きつけた。
どこをどう考えたら、そんな結論に達するのか、充には全く理解できなかった。
「充が樹里くんを好きじゃないなら、私に紹介してよ」
「あのなぁ、紹介するまでもなく何度も逢ってるだろ。口説きたいなら勝手にどうぞ――と言いたいところだけど、アイツはダメ」
「やっぱり好きなの?」
「どうして、そこに戻るかな。樹里は女嫌いなんだよ。由香里みたいなタイプは特にね」
「どうして?」
「アイツの母親に似てるから」
「じゃあ、しょうがないわね。男の子って異常に母親に執着するものね」
由香里があっさりと意志を翻す。
恋人の言葉を脳裏で反芻しながら、充は密やかに頬を引きつらせた。
自分に突きつけられた言葉のように感じられて、苦々しさが込み上げてくる。
それを誤魔化すように、充は由香里の唇を指でなぞった。
由香里が艶笑を湛えたまま、その手をそっと押し退ける。
「――で、結局、本当は樹里くんのこと、どう思ってるの?」
「話を戻すな! どうも思ってないよ。俺、今、結構気に入ってる女がいるし」
「アラ、それは私のデータにないわね。どんな子?」
「深窓のお姫様――って、コイツがまた全っ然女らしくないんだな。何考えてるのか解らないし、掴み所もない」
限りなく無表情に近い同級生の顔が脳裏をよぎる。
凛とした態度で何人をもはね除ける、気丈な少女だ。
「私とは正反対ね。よかった。私と似た女だったら、充は私のところに帰ってこないもの。でも、違うのなら構わない。その子に相手にされなかったり、疲れたりしたら、たまには戻ってきてくれるものね、充は」
由香里が満足げに微笑む。
彼女の瞳には真摯な光が宿っていた。
本気で言っているのだ。
「女って面妖なこと考えるよな」
率直な感想を洩らし、充は由香里を抱き寄せてキスした。
由香里の両腕が応えるように充の背中に回される。
「好きよ、充」
耳元で囁かれる甘美な誘い。
充は己れの欲望に忠実になろうと心懸けた。
自分と由香里の位置を素早く逆転させる。
シートに押し倒した由香里に唇を寄せたところで、
「ま、待って!」
突然、由香里にストップをかけられた。
「何だよ。折角気分がノッてきたのに」
充は唇を尖らせた。
ここまできて中断させられるのは、男として不本意だ。
「誰も来ないなんて、嘘ね」
由香里の顔に苦笑が広がる。
彼女が充の後方を指差すので、仕方なく充は振り向いた。
視線の先にはフロントガラス。
そして――
「うわっ、最悪……!」
充は張り裂けんばかりに目を見開いた。
口からは悲鳴じみた叫びが飛び出す。
学園正門前――街灯の下に何者かが佇んでいたのだ。
街灯の明かりに照らされ、向こうからは車内が丸見えだったのかもしれない。
「アララ、災難ねえ」
ひどく愉快そうに告げて、由香里がシートから上体を引き起こす。
彼女は驚愕に強張っている充の顔を両手で捕らえると、外界へ見せつけるように唇を重ねてきた。
充を解放すると、由香里は瞳に悪戯っぽい光を閃かせ、妖冶に微笑んだ。
充の驚きなど歯牙にもかけず、街灯の下に立つ二人の人物に向けて楽しげに片手を振る。
「……嘘だろ」
充は恐る恐る視線をフロントガラスの向こうへ戻した。
錯覚であればいいと思ったが、それは現実としてしっかり存在していた。
街灯の下に立ち尽くす二人組。
それは紛うことなく美貌の親友と、その幼なじみの姿だった。
驚愕と軽蔑の混在する二対の双眸が、充を凝視している。
充の額から冷や汗が滴り落ちた。
*

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徐に由香里が顔を上げる。
「樹里くんと――した?」
続く彼女の質問に、充は絶句した。
次に、驚きとおかしさで吹き出しそうになる。
最後に唖然を通り越して、呆れた。
「アホか、おまえ。勝手に邪推するな」
「だって充、樹里くんのこと好きでしょう」
「そういう『好き』じゃない」
「私が樹里くんと『寝たい』って言ったら、頑なに反対したじゃない」
「誰だって反対するだろ。自分の恋人を親友に差し出すヤツがどこにいる」
充は憮然としながら、由香里の髪に指を巻きつけた。
どこをどう考えたら、そんな結論に達するのか、充には全く理解できなかった。
「充が樹里くんを好きじゃないなら、私に紹介してよ」
「あのなぁ、紹介するまでもなく何度も逢ってるだろ。口説きたいなら勝手にどうぞ――と言いたいところだけど、アイツはダメ」
「やっぱり好きなの?」
「どうして、そこに戻るかな。樹里は女嫌いなんだよ。由香里みたいなタイプは特にね」
「どうして?」
「アイツの母親に似てるから」
「じゃあ、しょうがないわね。男の子って異常に母親に執着するものね」
由香里があっさりと意志を翻す。
恋人の言葉を脳裏で反芻しながら、充は密やかに頬を引きつらせた。
自分に突きつけられた言葉のように感じられて、苦々しさが込み上げてくる。
それを誤魔化すように、充は由香里の唇を指でなぞった。
由香里が艶笑を湛えたまま、その手をそっと押し退ける。
「――で、結局、本当は樹里くんのこと、どう思ってるの?」
「話を戻すな! どうも思ってないよ。俺、今、結構気に入ってる女がいるし」
「アラ、それは私のデータにないわね。どんな子?」
「深窓のお姫様――って、コイツがまた全っ然女らしくないんだな。何考えてるのか解らないし、掴み所もない」
限りなく無表情に近い同級生の顔が脳裏をよぎる。
凛とした態度で何人をもはね除ける、気丈な少女だ。
「私とは正反対ね。よかった。私と似た女だったら、充は私のところに帰ってこないもの。でも、違うのなら構わない。その子に相手にされなかったり、疲れたりしたら、たまには戻ってきてくれるものね、充は」
由香里が満足げに微笑む。
彼女の瞳には真摯な光が宿っていた。
本気で言っているのだ。
「女って面妖なこと考えるよな」
率直な感想を洩らし、充は由香里を抱き寄せてキスした。
由香里の両腕が応えるように充の背中に回される。
「好きよ、充」
耳元で囁かれる甘美な誘い。
充は己れの欲望に忠実になろうと心懸けた。
自分と由香里の位置を素早く逆転させる。
シートに押し倒した由香里に唇を寄せたところで、
「ま、待って!」
突然、由香里にストップをかけられた。
「何だよ。折角気分がノッてきたのに」
充は唇を尖らせた。
ここまできて中断させられるのは、男として不本意だ。
「誰も来ないなんて、嘘ね」
由香里の顔に苦笑が広がる。
彼女が充の後方を指差すので、仕方なく充は振り向いた。
視線の先にはフロントガラス。
そして――
「うわっ、最悪……!」
充は張り裂けんばかりに目を見開いた。
口からは悲鳴じみた叫びが飛び出す。
学園正門前――街灯の下に何者かが佇んでいたのだ。
街灯の明かりに照らされ、向こうからは車内が丸見えだったのかもしれない。
「アララ、災難ねえ」
ひどく愉快そうに告げて、由香里がシートから上体を引き起こす。
彼女は驚愕に強張っている充の顔を両手で捕らえると、外界へ見せつけるように唇を重ねてきた。
充を解放すると、由香里は瞳に悪戯っぽい光を閃かせ、妖冶に微笑んだ。
充の驚きなど歯牙にもかけず、街灯の下に立つ二人の人物に向けて楽しげに片手を振る。
「……嘘だろ」
充は恐る恐る視線をフロントガラスの向こうへ戻した。
錯覚であればいいと思ったが、それは現実としてしっかり存在していた。
街灯の下に立ち尽くす二人組。
それは紛うことなく美貌の親友と、その幼なじみの姿だった。
驚愕と軽蔑の混在する二対の双眸が、充を凝視している。
充の額から冷や汗が滴り落ちた。
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*
二人の級友から鋭い非難の眼差しを浴びせられて、園田充はわざとらしすぎるほどわざとらしい咳払いをした。
つい先ほど、恋人である由香里は『この埋め合わせは必ずしてね』と言い残し、充をポルシェから追い出したのである。
充は去り行くテールランプをしばし茫然と眺めていた。
それから意を決して街灯へ歩み寄ったのだが、そこに佇む田端樹里と貴籐水柯から向けられたのは冷ややかな眼差しだけだった。
「いい加減、その白い目やめてくれないかな」
充は、無言で自分を睨めつけている二人を交互に見遣った。
樹里と水柯の顔には、呆れと蔑みの色が濃く浮き出ている。
「制服、乱れてるぞ」
ようやく樹里が口を開く。
刺々しい口調で指摘されて、充は慌てて制服の乱れを正した。
「充くんの節操なし。キチク。ケダモノ」
「そ、それは、あまりにも酷すぎるんじゃない、水柯ちゃん」
充は口元に引きつった笑みを刻みながら、縋るような眼差しを水柯に向けた。
だが、水柯はあっさりと充を無視した。
目が合った瞬間、思い切り顔を逸らされたのである。
「樹里……」
助けを請うように樹里の傍へ寄る。
しかし、それさえも素っ気なく拒まれてしまった。
「香水臭い。傍に寄るな」
「……二人とも、今更のように白眼視することないだろ。俺がこんなんだって、昔から知ってるくせに。それに、男として利己の欲求を満たそうとするのは当然の行為だろ。据え膳食わぬは男の恥、だ」
「世界中の男が、みんなおまえと同じ思考回路を持ってると思うなよ」
すかさず樹里に釘を刺される。
一拍の間を措き、彼は仰々しく溜息を吐き出した。
「まあ、由香里さんが相手なら気持ちも解らなくはないけど。でも、何も学園前に車を停めることはないだろ。少しは考えろよ」
樹里に迂闊さを責められて、充は悄然と頷いた。
居合わせたのが樹里と水柯だからよかったものの、他の生徒であったなら『園田充漁色列伝』に新たな一ページが加わることになっただろう。
誇大な妄想を含んだ噂が学園中を飛び回るのだ。
想像しただけでもゾッとする。
「キチクの充くんには、時と場所なんて関係ないのよね」
そっぽを向いたまま水柯が嫌味を放つ。
「ちょっと水柯ちゃん。頭に『キチク』ってつけるのは勘弁してよ。学園前に停車したのは偶然なんだし、そもそも文句なら運転してた由香里に言ってほしいね」
充は早々と開き直ることに決め、この場にはいない由香里に責任転嫁する。
更に、一刻でも早く嫌な雰囲気を断ち切ろうと、別の話題を振ることにした。
「ところで、二人の方こそ何してたんだよ。もしかしてデート?」
言った瞬間、水柯の頬がピクリと震えた。

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二人の級友から鋭い非難の眼差しを浴びせられて、園田充はわざとらしすぎるほどわざとらしい咳払いをした。
つい先ほど、恋人である由香里は『この埋め合わせは必ずしてね』と言い残し、充をポルシェから追い出したのである。
充は去り行くテールランプをしばし茫然と眺めていた。
それから意を決して街灯へ歩み寄ったのだが、そこに佇む田端樹里と貴籐水柯から向けられたのは冷ややかな眼差しだけだった。
「いい加減、その白い目やめてくれないかな」
充は、無言で自分を睨めつけている二人を交互に見遣った。
樹里と水柯の顔には、呆れと蔑みの色が濃く浮き出ている。
「制服、乱れてるぞ」
ようやく樹里が口を開く。
刺々しい口調で指摘されて、充は慌てて制服の乱れを正した。
「充くんの節操なし。キチク。ケダモノ」
「そ、それは、あまりにも酷すぎるんじゃない、水柯ちゃん」
充は口元に引きつった笑みを刻みながら、縋るような眼差しを水柯に向けた。
だが、水柯はあっさりと充を無視した。
目が合った瞬間、思い切り顔を逸らされたのである。
「樹里……」
助けを請うように樹里の傍へ寄る。
しかし、それさえも素っ気なく拒まれてしまった。
「香水臭い。傍に寄るな」
「……二人とも、今更のように白眼視することないだろ。俺がこんなんだって、昔から知ってるくせに。それに、男として利己の欲求を満たそうとするのは当然の行為だろ。据え膳食わぬは男の恥、だ」
「世界中の男が、みんなおまえと同じ思考回路を持ってると思うなよ」
すかさず樹里に釘を刺される。
一拍の間を措き、彼は仰々しく溜息を吐き出した。
「まあ、由香里さんが相手なら気持ちも解らなくはないけど。でも、何も学園前に車を停めることはないだろ。少しは考えろよ」
樹里に迂闊さを責められて、充は悄然と頷いた。
居合わせたのが樹里と水柯だからよかったものの、他の生徒であったなら『園田充漁色列伝』に新たな一ページが加わることになっただろう。
誇大な妄想を含んだ噂が学園中を飛び回るのだ。
想像しただけでもゾッとする。
「キチクの充くんには、時と場所なんて関係ないのよね」
そっぽを向いたまま水柯が嫌味を放つ。
「ちょっと水柯ちゃん。頭に『キチク』ってつけるのは勘弁してよ。学園前に停車したのは偶然なんだし、そもそも文句なら運転してた由香里に言ってほしいね」
充は早々と開き直ることに決め、この場にはいない由香里に責任転嫁する。
更に、一刻でも早く嫌な雰囲気を断ち切ろうと、別の話題を振ることにした。
「ところで、二人の方こそ何してたんだよ。もしかしてデート?」
言った瞬間、水柯の頬がピクリと震えた。
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首がもげるのではないかと不安になったほどの勢いで、水柯がこちらを振り仰ぐ。
「なっ、何言ってるのよ! わたしと樹里がデートだなんて、とんでもない。絶対に有り得ないことだわ。変なこと言わないでよ!」
水柯は顔を真っ赤に染めながら憤慨している。
その顕著な反応に、充は思わず吹き出してしまった。
「何、ムキになってるんだよ」
樹里の方は、水柯の猛烈な抗議が理解できない様子で首を捻っている。
充は二人の顔を交互に眺め、おかしさにまた頬を緩めた。
幼なじみという間柄は、時として恋愛感情を麻痺させてしまうのかもしれない。
樹里と水柯を見ていると焦れったくなるが、同時に傍観者としては今後の展開に大いに期待したくもなる。
しばらくは、充の目を楽しませてくれるに違いない。
「変な奴だな」
樹里が、未知の生物を検分するような目つきで水柯を見遣る。
「うるさいわよ、樹里。充くんは笑いすぎ!」
水柯は樹里の視線を鋭くはね除け、笑い続けている充にも叱責の声を飛ばす。
「わたしは忘れ物を取りに来ただけなの」
「僕は、その付き添い」
樹里が充に向かって肩を竦めてみせる。
「忘れ物って――封鎖されてるのに取りに来るほど大切な物なのか?」
充は暗闇に包まれた校舎を見、それから疑惑の眼差しを二人に向けた。
警備員も宿直もいないのに学園に舞い戻ってくるなんて信じられない。
「水柯にとっては生命より大事らしいね。明日〆切の原稿を忘れたんだってさ」
殊更水柯の間抜け振りを強調するように、樹里が応える。
その隣で水柯は、反論したくてもできないのか頬を膨らせませていた。
「へえ。じゃ、俺もお供させてもらおうかな。由香里にフラれて、暇になっちゃったしね。――あっ、でも校舎に入れないのか」
「平気よ。マスターキー持ってきたから」
急に水柯がふくれっ面から笑顔になり、意気揚々と告げる。
「ああ。水柯ちゃんのお母さん、ここの生徒会長やってたんだっけ?」
「そう。ママが退学記念に盗んできたヤツの合い鍵造っておいたの。それがあるから、校舎に入るのは楽勝よ。問題は、この正門ね。さすがに門扉はマスターキーじゃ開けられないだろうし……」
水柯が考え込むように腕を組み、聖華学園の巨大な門を見上げた。
中世ヨーロッパの城門を彷彿させるロマネスク式の荘厳なゲートが、眼前に立ちはだかっている。
門扉の高さは優に四メートルはあった。
「門を開ける必要はないさ。塀を乗り越えればいい」
不安げな水柯に、充は明るく提案した。
門の左右に伸びる白磁のような塀は、門扉よりも低く三メートル弱ほどの高さしかない。
充の身長は一八五センチ。
ジャンプすれば、余裕で手が頂上まで届くのだ。
「意外と簡単なんだよ」
充はそれを実証するために塀に向かって駆け出し、手前で跳躍した。
両手を塀の頂点にかけ、勢いに任せて身体を引き上げる。
いとも容易く塀に乗り上がることに成功した。
「さっ、おいで水柯ちゃん」
幅四十センチの塀の上から会心の笑みを放ち、充は水柯に手を差し出した。
「随分慣れてるのね」
「遅刻する度にやってるから、慣れて当然」
「あまり自慢にならないわね」
苦笑しながら、水柯が手を伸ばしてくる。
充はその手を掴み、水柯を塀の上に引っ張り上げた。
その後に樹里が続く。
こうして三人は、学園敷地内に侵入することに成功したのである。
完全封鎖された敷地内は森閑としており、一種の不気味さを醸し出していた。
夜の闇が、更にそれを増幅させている。
巨大な校舎が、三人を暗黒世界へと誘うかのように待ち構えていた。
その校舎の真上には、燐光を発する月が浮かんでいる。
この時、まだ確かに夜空には上弦の月が輝いていた。
「5.武道館の怪異」へ続く

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「なっ、何言ってるのよ! わたしと樹里がデートだなんて、とんでもない。絶対に有り得ないことだわ。変なこと言わないでよ!」
水柯は顔を真っ赤に染めながら憤慨している。
その顕著な反応に、充は思わず吹き出してしまった。
「何、ムキになってるんだよ」
樹里の方は、水柯の猛烈な抗議が理解できない様子で首を捻っている。
充は二人の顔を交互に眺め、おかしさにまた頬を緩めた。
幼なじみという間柄は、時として恋愛感情を麻痺させてしまうのかもしれない。
樹里と水柯を見ていると焦れったくなるが、同時に傍観者としては今後の展開に大いに期待したくもなる。
しばらくは、充の目を楽しませてくれるに違いない。
「変な奴だな」
樹里が、未知の生物を検分するような目つきで水柯を見遣る。
「うるさいわよ、樹里。充くんは笑いすぎ!」
水柯は樹里の視線を鋭くはね除け、笑い続けている充にも叱責の声を飛ばす。
「わたしは忘れ物を取りに来ただけなの」
「僕は、その付き添い」
樹里が充に向かって肩を竦めてみせる。
「忘れ物って――封鎖されてるのに取りに来るほど大切な物なのか?」
充は暗闇に包まれた校舎を見、それから疑惑の眼差しを二人に向けた。
警備員も宿直もいないのに学園に舞い戻ってくるなんて信じられない。
「水柯にとっては生命より大事らしいね。明日〆切の原稿を忘れたんだってさ」
殊更水柯の間抜け振りを強調するように、樹里が応える。
その隣で水柯は、反論したくてもできないのか頬を膨らせませていた。
「へえ。じゃ、俺もお供させてもらおうかな。由香里にフラれて、暇になっちゃったしね。――あっ、でも校舎に入れないのか」
「平気よ。マスターキー持ってきたから」
急に水柯がふくれっ面から笑顔になり、意気揚々と告げる。
「ああ。水柯ちゃんのお母さん、ここの生徒会長やってたんだっけ?」
「そう。ママが退学記念に盗んできたヤツの合い鍵造っておいたの。それがあるから、校舎に入るのは楽勝よ。問題は、この正門ね。さすがに門扉はマスターキーじゃ開けられないだろうし……」
水柯が考え込むように腕を組み、聖華学園の巨大な門を見上げた。
中世ヨーロッパの城門を彷彿させるロマネスク式の荘厳なゲートが、眼前に立ちはだかっている。
門扉の高さは優に四メートルはあった。
「門を開ける必要はないさ。塀を乗り越えればいい」
不安げな水柯に、充は明るく提案した。
門の左右に伸びる白磁のような塀は、門扉よりも低く三メートル弱ほどの高さしかない。
充の身長は一八五センチ。
ジャンプすれば、余裕で手が頂上まで届くのだ。
「意外と簡単なんだよ」
充はそれを実証するために塀に向かって駆け出し、手前で跳躍した。
両手を塀の頂点にかけ、勢いに任せて身体を引き上げる。
いとも容易く塀に乗り上がることに成功した。
「さっ、おいで水柯ちゃん」
幅四十センチの塀の上から会心の笑みを放ち、充は水柯に手を差し出した。
「随分慣れてるのね」
「遅刻する度にやってるから、慣れて当然」
「あまり自慢にならないわね」
苦笑しながら、水柯が手を伸ばしてくる。
充はその手を掴み、水柯を塀の上に引っ張り上げた。
その後に樹里が続く。
こうして三人は、学園敷地内に侵入することに成功したのである。
完全封鎖された敷地内は森閑としており、一種の不気味さを醸し出していた。
夜の闇が、更にそれを増幅させている。
巨大な校舎が、三人を暗黒世界へと誘うかのように待ち構えていた。
その校舎の真上には、燐光を発する月が浮かんでいる。
この時、まだ確かに夜空には上弦の月が輝いていた。
「5.武道館の怪異」へ続く
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聖華学園内部は、封鎖されているに相応しく人の気配というものが全くなかった。
それどころか無音に近い状態だ。
闇と静寂に包まれた奇妙な世界。
廊下に点在する非常口を示す緑の光芒と火災報知器の赤いランプだけが、世界が深淵の闇と化すのを阻止するようにぼんやりと輝いていた。
「何だか、肝試しみたいね」
貴籐水柯は、懐中電灯を片手に廊下を見回し、微かに眉根を寄せた。
両脇で、田端樹里と園田充が無言で首肯する。
学園を囲む塀を乗り越えた三人は、水柯持参のマスターキーを使用して生徒玄関から内部への侵入を果たした。
無人の校舎に忍び込んだ一行は、そのあまりの静けさに玄関前の廊下で足を止めていた。
毎日通っている学園が、別世界のように感じられる。
水柯は懐中電灯で廊下の左右を照らした。
生徒玄関から向かって右側が新校舎、左側が旧校舎だ。
聖華学園は本来L字型の校舎であった。それが現在の旧校舎に当たる。
二十年前、生徒の増加に伴って校舎の増築が行われた。
旧校舎と線対称になるように新校舎を接続したのである。
そして今のような凹型の校舎に生まれ変わったのだ。
新校舎増築の際、生徒玄関は二つの校舎を結ぶ中間地点に設置し直されている。
また、旧校舎時代に様々な植物を茂らせ、巨大な噴水で生徒たちの目を楽しませていた校庭は、両校舎に囲まれる形となり、今現在は『中庭』と呼称されるようになっていた。
体育館は、旧校舎一階――長い廊下の突き当たりから伸びる渡り廊下によって繋げられている。
更に体育館から伸びるもう一つの渡り廊下の果てには、柔道・剣道・弓道などの武道専用の施設――武道館が存在していた。
聖華学園は巨大な校舎の持ち主なのである。
その広大な空間に取り残されたような寂寥感が、水柯の胸中には芽生えていた。
「あまり気持ちのいいもんじゃないな」
右隣に立つ充が苦笑混じりに告げる。
「まったくだね。どこかの誰かさんが忘れ物なんてアホなことするから」
反対側で樹里が揶揄の言葉を吐いた。
「悪かったわね。さっさと済ませればいいんでしょ。――ホラ、行くわよ」
水柯は樹里を軽く睨むと、教室がある新校舎へ向かうために身を転じた。
だがその直後、
「えっ?」
水柯は物凄い勢いで首を振り向かせ、背後を凝視した。
身を翻す直前、何か見てはならないものを見てしまったような気がしたのだ。
「いきなり立ち止まるなよ」
水柯と接触した樹里が不機嫌に眉をひそめる。
しかし、彼の言葉は水柯の右耳から左耳へと無意味に通り抜けていった。
「い、今……光が見えた」
言い終えないうちに、水柯は新校舎とは正反対の方向――旧校舎へと走り出していた。
「オイ、冗談だろ」
訝しみながらも樹里と充が後に続く。
水柯は、L字型の短い部分に当たる廊下の突き当たりで足を止めた。
廊下の端には上階へと繋がる南階段があり、その隣に大きな飾り窓が一つ存在している。
「ホラ、やっぱり!」
飾り窓を指差し、水柯は声高に叫んだ。
こちら側の壁は校庭の一角に接している。
そこから外に視線を向けると、遠くにオレンジ色の輝きを見出すことができた。
暗い校庭の木々の隙間から光が洩れているのだ。
「あの方角だと――武道館じゃないか?」
充が思案するように目を細める。
「ヤダッ。嘘……何でよ?」
水柯は一気に混乱状態に陥った。
頬を引きつらせながら窓を見つめる。
今宵、学園は完全封鎖されている。
今現在、この校舎内には何者も存在しないはずなのだ。
「まさか水妖伝説じゃないわよね」
咄嗟に忌まわしい伝説が脳裏をよぎった。
「そんなわけないだろ。あれは迷信だよ」
樹里が水柯の意見を一蹴する。
「万が一、迷信じゃなかったら?」
「仮に伝説が真実でも、武道館の明かりとは無関係だよ」
充が窓の脇にある照明のスイッチを押す。
すると一気に世界が光に満たされた。
天井に設えられた蛍光灯が一斉に点灯したのだ。
「伝説に関係あるのは、反対の中庭だしね」
明るくなったところで充が背後を振り返り、親指で中庭側を指し示す。
中庭に面する廊下には、等間隔に飾り窓が並んでいた。
校庭側には教室が造られているが、反対側は庭の景色を楽しめるように窓が連なっているだけなのだ。
中庭に接する一階廊下だけが特殊な造りになっている。
「それに、空にはちゃんと月が出ていたからね。条件が揃わなきゃ伝説も発動しないだろうから、安心しなよ」
諭すような充の言葉で、水柯は敷地内に侵入した時、夜空に浮かぶ月をはっきりと目撃した事実を思い出した。
自然と唇から安堵の吐息が洩れる。
水妖伝説は、月のない夜限定の伝承なのだ。
「あれ? じゃあ、あの光は何なの」
水柯は、安堵と引き換えに新たに浮上してきた疑問に眉根を寄せた。
「単純なことだろ。誰かが消し忘れたんだ」
樹里が呆れた口調で応じるが、水柯は納得できなかった。
武道館の明かりと思しき光芒は、水柯たちが校舎に侵入した直後に灯ったような気がしたのだ。
「そうだとしても、気になるわね。わたし、ちょっと見てくる!」
水柯は早口で告げると、旧校舎の奥へと向かって駆け出した。
気になるものは自分の目で確かめ、異変がないのをチェックしておかないと気が済まない質なのだ。
「勝手な行動するなよ!」
樹里が文句を垂れながらも水柯の後を追う。
必然的に充もそれに続くことになった。
三人はL字型の長い部分に当たる廊下をひた走った。
突き当たりには体育館へと続く渡り廊下があり、中庭側には北階段と中庭への出入口がある。
先頭を走る水柯は、中庭側には目もくれずに細長い渡り廊下へと飛び込んだ。
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体育館の扉は旧校舎のマスターキーで容易に開いた。
その奥にある第二の渡り廊下へと続く扉も同様だった。
武道館へと繋がる細い廊下を歩きながら、水柯は忙しなく周囲を見回していた。
道すがら、目についた照明のスイッチを全部オンにしてきたので懐中電灯は不要なものとなり、今は水柯の手の動きに合わせてブラブラと揺れている。
「やっぱり武道館の明かりだわ」
渡り廊下の窓から外を眺めると、橙色の明かりをはっきりと視野に捉えることができた。
目前に迫った武道館から明かりが洩れている。
水柯は武道館の入口に鍵を差し込んだ。
これも旧校舎のマスターキーで易々と開いた。
扉を押し開け、武道館に足を踏み入れる。
ストンッ!
耳慣れない音が響いたのは、その時だった。
水柯は思わずビクリと身体を震わせた。
「い、今、何か物音がしなかった?」
「したような気がする」
樹里が僅かに表情を強張らせる。
「聞こえちゃったな。で、今更言うのもなんだけど、武道館の照明なら、正門を乗り越えた時点で気づくのが普通じゃないか」
充が言いにくそうに言葉を紡ぐ。
水柯たちが塀をよじ登り、敷地内に侵入した時、学園は暗闇に包まれていた。
武道館は、体育館よりも大きな建造物だ。
そこに明かりが灯っていたなら、必ず目につくはずだ。
学園侵入という悪行のために気持ちが昂揚していたとしても、三人揃って見過ごす可能性はゼロに近いだろう。
「考えてみると、おかしいわよね。しかも、ここは施錠されてたし、真っ暗だし……」
水柯は気味が悪いのを堪えて、武道館の内部に視線を流した。
広大な面積を持つ六角形の武道館。
その内部は、幾つかの道場に分かれている。入ってすぐのところが剣道場。その奥に、柔道・長刀・合気道・空手など様々な道場が配置されているのだ。
水柯たちが今いる剣道場には、闇が漂っていた。
人の気配は感じられない。
「どういうことよ、樹里」
「僕に訊くなよ。僕らが校舎に入った後、どこかの道場の明かりがついたんだろ」
樹里は入口付近から動けずにいる水柯の背中を押し退け、剣道場の奥へと進んだ。
「そんな簡単に言わないでよ。どうして、封鎖されてるのに勝手に照明がつくわけ?」
「勝手に、って……。漫画家だろ。少しは自慢の想像力を働かせろ」
樹里が酷薄に告げ、剣道場の出口――柔道場に続く扉を開けた。
ここも真っ暗だ。
「何よ、教えてくれたっていいじゃない」
「答は単純明快だよ。武道館の中に誰かがいるんだ」
水柯を宥めるように充が説明する。
「誰かって、学園は封鎖されてるのよ。幽霊や化け物だったら、どうするのよ」
「現に俺たちだって忍び込んでるわけだし、他に誰かいたって不思議じゃないよ。ホント、水柯ちゃんは心配性な――」
ストンッ!
突如として、充の声が得体の知れない音に遮断される。
「うわっ、またよ!」
「うるさいぞ。一々喚くな。音は弓道場の方から聞こえた。幽霊かどうか確かめるんだろ、水柯? ――さっ、行くよ」
樹里が邪険に水柯を促す。
充に背中を押される形となった水柯に、反論の余地はなかった。
樹里が駆け出すのに合わせて、水柯と充の歩調も強まる。
弓道場は武道館の最奥に位置している。
道場の一部が外界に露出しているために、一番奥に造られているのだ。
柔道場を右に進み、長刀道場を突っ切ると弓道場に出る。
水柯たちは弓道場へと続く木戸の前まで来て、一旦足を止めた。
「こ、怖いからやめようよ」
「平気だよ」
怯える水柯を無視して、樹里が平然と木戸を引き開ける。
途端、眩い光が視界を奪った。
あまりの眩しさに閉じてしまった瞼を再びはね上げた瞬間、
「――えっ?」
水柯は我が目を疑った。

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その奥にある第二の渡り廊下へと続く扉も同様だった。
武道館へと繋がる細い廊下を歩きながら、水柯は忙しなく周囲を見回していた。
道すがら、目についた照明のスイッチを全部オンにしてきたので懐中電灯は不要なものとなり、今は水柯の手の動きに合わせてブラブラと揺れている。
「やっぱり武道館の明かりだわ」
渡り廊下の窓から外を眺めると、橙色の明かりをはっきりと視野に捉えることができた。
目前に迫った武道館から明かりが洩れている。
水柯は武道館の入口に鍵を差し込んだ。
これも旧校舎のマスターキーで易々と開いた。
扉を押し開け、武道館に足を踏み入れる。
ストンッ!
耳慣れない音が響いたのは、その時だった。
水柯は思わずビクリと身体を震わせた。
「い、今、何か物音がしなかった?」
「したような気がする」
樹里が僅かに表情を強張らせる。
「聞こえちゃったな。で、今更言うのもなんだけど、武道館の照明なら、正門を乗り越えた時点で気づくのが普通じゃないか」
充が言いにくそうに言葉を紡ぐ。
水柯たちが塀をよじ登り、敷地内に侵入した時、学園は暗闇に包まれていた。
武道館は、体育館よりも大きな建造物だ。
そこに明かりが灯っていたなら、必ず目につくはずだ。
学園侵入という悪行のために気持ちが昂揚していたとしても、三人揃って見過ごす可能性はゼロに近いだろう。
「考えてみると、おかしいわよね。しかも、ここは施錠されてたし、真っ暗だし……」
水柯は気味が悪いのを堪えて、武道館の内部に視線を流した。
広大な面積を持つ六角形の武道館。
その内部は、幾つかの道場に分かれている。入ってすぐのところが剣道場。その奥に、柔道・長刀・合気道・空手など様々な道場が配置されているのだ。
水柯たちが今いる剣道場には、闇が漂っていた。
人の気配は感じられない。
「どういうことよ、樹里」
「僕に訊くなよ。僕らが校舎に入った後、どこかの道場の明かりがついたんだろ」
樹里は入口付近から動けずにいる水柯の背中を押し退け、剣道場の奥へと進んだ。
「そんな簡単に言わないでよ。どうして、封鎖されてるのに勝手に照明がつくわけ?」
「勝手に、って……。漫画家だろ。少しは自慢の想像力を働かせろ」
樹里が酷薄に告げ、剣道場の出口――柔道場に続く扉を開けた。
ここも真っ暗だ。
「何よ、教えてくれたっていいじゃない」
「答は単純明快だよ。武道館の中に誰かがいるんだ」
水柯を宥めるように充が説明する。
「誰かって、学園は封鎖されてるのよ。幽霊や化け物だったら、どうするのよ」
「現に俺たちだって忍び込んでるわけだし、他に誰かいたって不思議じゃないよ。ホント、水柯ちゃんは心配性な――」
ストンッ!
突如として、充の声が得体の知れない音に遮断される。
「うわっ、またよ!」
「うるさいぞ。一々喚くな。音は弓道場の方から聞こえた。幽霊かどうか確かめるんだろ、水柯? ――さっ、行くよ」
樹里が邪険に水柯を促す。
充に背中を押される形となった水柯に、反論の余地はなかった。
樹里が駆け出すのに合わせて、水柯と充の歩調も強まる。
弓道場は武道館の最奥に位置している。
道場の一部が外界に露出しているために、一番奥に造られているのだ。
柔道場を右に進み、長刀道場を突っ切ると弓道場に出る。
水柯たちは弓道場へと続く木戸の前まで来て、一旦足を止めた。
「こ、怖いからやめようよ」
「平気だよ」
怯える水柯を無視して、樹里が平然と木戸を引き開ける。
途端、眩い光が視界を奪った。
あまりの眩しさに閉じてしまった瞼を再びはね上げた瞬間、
「――えっ?」
水柯は我が目を疑った。
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「あれ?」
「何だよ」
「馬鹿馬鹿しい」
三人は同時に肩を落とし、吐息していた。
「――む? 何だ、おまえたち」
照明の灯された弓道場に四人目の声が響く。
艶やかな黒髪を頭の高い位置で束ねた人物が、弓矢を構えた姿勢のまま水柯たちにチラと視線を走らせた。
「こんな所で何をしている?」
渋い緑色のスカートと長い髪が、軽く夜風に靡く。
見慣れた制服に聞き慣れた声――
「ナオちゃん!」
思わぬところでクラスメイトと出会し、水柯は嬉々とした叫びをあげた。
徳川直杉――彼女の麗姿が弓道場にあったのだ。
先刻の耳慣れない音は、彼女の放った矢が屋外の的に突き刺さる音だったのだろう。
「何をしているのだ?」
直杉は突然の闖入者に驚いた様子もなく、構えていた弓矢を静かに下ろした。
「それは、こっちのセリフだ」
樹里が忌々しげに舌打ちを鳴らす。
「そうだよ。何やってんだよ、直杉」
充は半ば茫然と直杉を見つめていた。
「私は鍛錬に勤しんでいただけだが」
「六時までのはずだろ?」
樹里が非難の眼差しで直杉を見上げる。
樹里の身長は一七二センチ、直杉は一七四センチ。
僅かに直杉の方が樹里より背が高いのだ。
「六時になって更衣室で着替えている間に、誰もいないものと見なされたらしいのだ。気づけば、武道館の出入口は施錠されていた。仕方がないので練習を続けていたところだ」
直杉は淡々と事実を報告する。
武道館の鍵は、外側からのみ施錠・解錠できる仕組みになっているのだ。
中にいる時に施錠されれば、当然閉じ込められる結果となる。
不便だが、創立以来変わらぬ仕組みだった。
「さっきまで暗かったのは、どうしてだよ?」
「ああ、精神集中のために明かりを消し、しばし暗闇で瞑想していたのだ」
「ったく、人騒がせな奴だな」
「騒がせたつもりはないのだがな。それより、田端たちは如何様にして入ってきたのだ?」
樹里の嫌味に対して、直杉が涼やかな微笑を浮かべる。
「わたし、マスターキーを持ってるから」
水柯は素早く鞄の中から鍵を取り出して見せた。
「理由は知らぬが丁度よい。練習に飽きたら外の木塀を乗り越えて脱出しようと思っていたが、そんな無茶をする必要もなくなったな。私も水柯たちに同行させてもらうとしよう」
言い終えると同時に、直杉は黒髪を靡かせて身を翻した。
流れるような動作で道場を進み、外へと降り立つ。
的に突き刺さった矢を回収しに行ったらしい。
「勝手に同行決めやがって。これだから女って奴は……」
背筋の伸びた直杉の後ろ姿を見据えながら、樹里がブツブツと呟く。
水柯がそんな幼なじみを苦々しい思いで見遣ると、隣で充も苦笑を湛えた。
「一人増えたって構わないだろ」
「僕は自分より背の高い女なんて嫌いだ」
樹里が思い切り眉をひそめる。
「俺は好きだけどな。あれくらいじゃなきゃ、俺と釣り合わないし」
充が意味深に微笑む。
すかさず樹里の鋭利な視線が充に流された。
「相変わらず趣味悪いな」
「おや、ヤキモチかな、可愛い樹里くん」
充が瞳に悪戯な輝きを閃かせ、樹里の肩に手を回して引き寄せる。
横目で充と樹里を眺めながら、水柯はこめかみの辺りを神経質に引きつらせた。
「ハイハイ。離れて、二人とも。それ以上近づいたら、二人をモデルにした恋愛マンガを描いて、学園中に配布するわよ。女子と一部男子に喜ばれることは間違いなしね」
「げっ、それは勘弁してよ。俺、女の子にモテなくなると困るし、男にモテるのはもっと困るから」
「そんなマンガで喜ぶ奴の気が知れないけれど、充と恋愛なんて徳川と同じくらい御免だね」
冷ややかな水柯の宣告に、充が慌てて樹里から手を離し、樹里が不愉快そうに身を引く。
二人の間にできた空間に強引に身を滑り込ませると、水柯は満足げに頷いた。
それから、道場へと引き返してくる直杉に視線を馳せ、顔を綻ばせる。
「ナオちゃんがいてくれてよかった。わたし、すっごく心強いな」
実は、女の子一人という状況が結構心細かったのだ。
不気味な校舎に足を踏み入れた時点で、密かに『同じ境遇の女の子がほしい』と願っていただけに、直杉の同行は殊の外嬉しかった。
もっとも、徳川直杉を普通の『女の子』と称するには些か疑問が残らないでもないが……。
「心強くてよかったな。徳川なら、僕や充より遙かに頼りになるからね」
喜びを露わにする水柯に、樹里が嫌味たっぷりの言葉を浴びせる。
水柯は幼なじみの真意が掴めずに目をしばたたかせ、数秒経ってからニヤリと笑った。
「ねえ樹里、それってヤキモチ?」
その問いかけに対して、樹里はフンと小さく鼻を鳴らしただけだった。
*

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「何だよ」
「馬鹿馬鹿しい」
三人は同時に肩を落とし、吐息していた。
「――む? 何だ、おまえたち」
照明の灯された弓道場に四人目の声が響く。
艶やかな黒髪を頭の高い位置で束ねた人物が、弓矢を構えた姿勢のまま水柯たちにチラと視線を走らせた。
「こんな所で何をしている?」
渋い緑色のスカートと長い髪が、軽く夜風に靡く。
見慣れた制服に聞き慣れた声――
「ナオちゃん!」
思わぬところでクラスメイトと出会し、水柯は嬉々とした叫びをあげた。
徳川直杉――彼女の麗姿が弓道場にあったのだ。
先刻の耳慣れない音は、彼女の放った矢が屋外の的に突き刺さる音だったのだろう。
「何をしているのだ?」
直杉は突然の闖入者に驚いた様子もなく、構えていた弓矢を静かに下ろした。
「それは、こっちのセリフだ」
樹里が忌々しげに舌打ちを鳴らす。
「そうだよ。何やってんだよ、直杉」
充は半ば茫然と直杉を見つめていた。
「私は鍛錬に勤しんでいただけだが」
「六時までのはずだろ?」
樹里が非難の眼差しで直杉を見上げる。
樹里の身長は一七二センチ、直杉は一七四センチ。
僅かに直杉の方が樹里より背が高いのだ。
「六時になって更衣室で着替えている間に、誰もいないものと見なされたらしいのだ。気づけば、武道館の出入口は施錠されていた。仕方がないので練習を続けていたところだ」
直杉は淡々と事実を報告する。
武道館の鍵は、外側からのみ施錠・解錠できる仕組みになっているのだ。
中にいる時に施錠されれば、当然閉じ込められる結果となる。
不便だが、創立以来変わらぬ仕組みだった。
「さっきまで暗かったのは、どうしてだよ?」
「ああ、精神集中のために明かりを消し、しばし暗闇で瞑想していたのだ」
「ったく、人騒がせな奴だな」
「騒がせたつもりはないのだがな。それより、田端たちは如何様にして入ってきたのだ?」
樹里の嫌味に対して、直杉が涼やかな微笑を浮かべる。
「わたし、マスターキーを持ってるから」
水柯は素早く鞄の中から鍵を取り出して見せた。
「理由は知らぬが丁度よい。練習に飽きたら外の木塀を乗り越えて脱出しようと思っていたが、そんな無茶をする必要もなくなったな。私も水柯たちに同行させてもらうとしよう」
言い終えると同時に、直杉は黒髪を靡かせて身を翻した。
流れるような動作で道場を進み、外へと降り立つ。
的に突き刺さった矢を回収しに行ったらしい。
「勝手に同行決めやがって。これだから女って奴は……」
背筋の伸びた直杉の後ろ姿を見据えながら、樹里がブツブツと呟く。
水柯がそんな幼なじみを苦々しい思いで見遣ると、隣で充も苦笑を湛えた。
「一人増えたって構わないだろ」
「僕は自分より背の高い女なんて嫌いだ」
樹里が思い切り眉をひそめる。
「俺は好きだけどな。あれくらいじゃなきゃ、俺と釣り合わないし」
充が意味深に微笑む。
すかさず樹里の鋭利な視線が充に流された。
「相変わらず趣味悪いな」
「おや、ヤキモチかな、可愛い樹里くん」
充が瞳に悪戯な輝きを閃かせ、樹里の肩に手を回して引き寄せる。
横目で充と樹里を眺めながら、水柯はこめかみの辺りを神経質に引きつらせた。
「ハイハイ。離れて、二人とも。それ以上近づいたら、二人をモデルにした恋愛マンガを描いて、学園中に配布するわよ。女子と一部男子に喜ばれることは間違いなしね」
「げっ、それは勘弁してよ。俺、女の子にモテなくなると困るし、男にモテるのはもっと困るから」
「そんなマンガで喜ぶ奴の気が知れないけれど、充と恋愛なんて徳川と同じくらい御免だね」
冷ややかな水柯の宣告に、充が慌てて樹里から手を離し、樹里が不愉快そうに身を引く。
二人の間にできた空間に強引に身を滑り込ませると、水柯は満足げに頷いた。
それから、道場へと引き返してくる直杉に視線を馳せ、顔を綻ばせる。
「ナオちゃんがいてくれてよかった。わたし、すっごく心強いな」
実は、女の子一人という状況が結構心細かったのだ。
不気味な校舎に足を踏み入れた時点で、密かに『同じ境遇の女の子がほしい』と願っていただけに、直杉の同行は殊の外嬉しかった。
もっとも、徳川直杉を普通の『女の子』と称するには些か疑問が残らないでもないが……。
「心強くてよかったな。徳川なら、僕や充より遙かに頼りになるからね」
喜びを露わにする水柯に、樹里が嫌味たっぷりの言葉を浴びせる。
水柯は幼なじみの真意が掴めずに目をしばたたかせ、数秒経ってからニヤリと笑った。
「ねえ樹里、それってヤキモチ?」
その問いかけに対して、樹里はフンと小さく鼻を鳴らしただけだった。
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*
新たに直杉を加えた一行は、再び旧校舎に舞い戻っていた。
旧校舎までの道すがら、直杉には学園に忍び込む羽目になった経緯を話してある。
「水柯は時折ヘマをするからな」
事情を聞き終えた直杉が、無表情のまま素直な感想を述べる。
「ナオちゃんだって、武道館に取り残されてたじゃない」
水柯は頬を膨らせませて抗議した。
直杉の顔にうっすらと笑みらしきものが浮かぶ。
「確かに、私も他人のことは言えぬな。――それはさておき、水柯の原稿を入手すれば学園から出られるのだな?」
直杉が確認の問いを発する。
他の三人は頷きで応じた。
原稿さえ手に入れてしまえば、夜の陰鬱な学園になど用はない。
さっさと用事を済ませてしまおう、というのが皆の同一意見だった。
二年生の教室は、新校舎の三階にある。
何のことはない。そこまで行って原稿を回収すればいいだけのことだ。
水柯は直杉と肩を並べて歩きながら、所在なげに廊下のあちこちに視線を漂わせていた。
照明が灯されているとはいえ、静寂に支配された校舎はやはり気味が悪い。
チカッ。
と、何かが瞬いたのは、廊下の中程まで歩を進めた時だった。
「――――!」
水柯は心臓がドクリと脈打つのを感じた。自然と足が止まる。
――今、光った……。
校舎の内部ではなく外部で。
飾り窓で彩られている中庭側の硝子が輝いたように見えたのだ。
水柯は怖々とそちらへ首を巡らせた。
チカッ……ザバッ!
また青白い光が視界をよぎる。
今度は、ただ光っただけではなかった。
「あっ……う、ええっ!?」
水柯は驚愕に目を剥いた。
中庭の噴水が青白く輝いたのだ。
更に、噴水の水が大きく盛り上がり、螺旋を描きながら噴き上がるのを、水柯はしっかりと目撃してしまった。
全身に悪寒が走る。
水柯は恐怖を押し殺し、窓に駆け寄った。
硝子にへばりつくようにして外を眺める。
しかし噴水はもう輝いてもいなければ、水を噴き上げてもいなかった。
「な、何よ、今の――」
「どうした、水柯?」
水柯の突飛な行動を不審に思ったのか、樹里が疑問を投げかけてくる。
「い、い、今、光ったのよ」
チカッ。
水柯の声に呼応するように、また何かが光った。
直ぐ様、皆の視線が天井に集中する。
今、瞬いたのは廊下の照明だったのだ。
「電気だよ。調子悪いなぁ」
充が天井を見上げたまま不満げにボヤく。
チカッ、チカッ……。
電流を通すのに限界が近づいている電球が幾つかあるらしい。
蛍光灯の光量が不安定になり、不規則に明滅を繰り返しているのだ。
「違う。そうじゃないのよ! 噴水が……中庭の噴水が――」
水柯は先ほどの奇怪な現象を何と表現してよいのか解らずに、窓を指差しながらヨロヨロと後ずさった。
トンッと背中が何かにぶつかる。
それが樹里の胸だと判断できたのは、彼の手が優しく水柯の肩に添えられ、美声が耳をくすぐったからだ。
「噴水の底に照明装置を設置したなんて話は聞かないよ。噴水が光るわけないだろ。第一、夜間は噴水自体が動いていないはずだ」
「で、でも、確かに光ったし、水を噴き上げてたのよ。水音だって――」
水柯は窓を凝視したまま喚いた。
更に言を連ねようとして、ハッと息を呑む。
ポツン……ポツン……。
目前の窓硝子に水滴が落ちてきたのだ。
それは硝子に当たっては弾け、ゆっくりと細い水の筋を作り始める。
「早いな。天気予報では夜半からだって言ってたのに」
充が窓に視線を向け、首を捻る。
「雨か。月が隠されたな」
長い指を硝子に伸ばし、直杉が淡然と囁く。
その一言が、他の三人に落雷のような衝撃をもたらした。

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新たに直杉を加えた一行は、再び旧校舎に舞い戻っていた。
旧校舎までの道すがら、直杉には学園に忍び込む羽目になった経緯を話してある。
「水柯は時折ヘマをするからな」
事情を聞き終えた直杉が、無表情のまま素直な感想を述べる。
「ナオちゃんだって、武道館に取り残されてたじゃない」
水柯は頬を膨らせませて抗議した。
直杉の顔にうっすらと笑みらしきものが浮かぶ。
「確かに、私も他人のことは言えぬな。――それはさておき、水柯の原稿を入手すれば学園から出られるのだな?」
直杉が確認の問いを発する。
他の三人は頷きで応じた。
原稿さえ手に入れてしまえば、夜の陰鬱な学園になど用はない。
さっさと用事を済ませてしまおう、というのが皆の同一意見だった。
二年生の教室は、新校舎の三階にある。
何のことはない。そこまで行って原稿を回収すればいいだけのことだ。
水柯は直杉と肩を並べて歩きながら、所在なげに廊下のあちこちに視線を漂わせていた。
照明が灯されているとはいえ、静寂に支配された校舎はやはり気味が悪い。
チカッ。
と、何かが瞬いたのは、廊下の中程まで歩を進めた時だった。
「――――!」
水柯は心臓がドクリと脈打つのを感じた。自然と足が止まる。
――今、光った……。
校舎の内部ではなく外部で。
飾り窓で彩られている中庭側の硝子が輝いたように見えたのだ。
水柯は怖々とそちらへ首を巡らせた。
チカッ……ザバッ!
また青白い光が視界をよぎる。
今度は、ただ光っただけではなかった。
「あっ……う、ええっ!?」
水柯は驚愕に目を剥いた。
中庭の噴水が青白く輝いたのだ。
更に、噴水の水が大きく盛り上がり、螺旋を描きながら噴き上がるのを、水柯はしっかりと目撃してしまった。
全身に悪寒が走る。
水柯は恐怖を押し殺し、窓に駆け寄った。
硝子にへばりつくようにして外を眺める。
しかし噴水はもう輝いてもいなければ、水を噴き上げてもいなかった。
「な、何よ、今の――」
「どうした、水柯?」
水柯の突飛な行動を不審に思ったのか、樹里が疑問を投げかけてくる。
「い、い、今、光ったのよ」
チカッ。
水柯の声に呼応するように、また何かが光った。
直ぐ様、皆の視線が天井に集中する。
今、瞬いたのは廊下の照明だったのだ。
「電気だよ。調子悪いなぁ」
充が天井を見上げたまま不満げにボヤく。
チカッ、チカッ……。
電流を通すのに限界が近づいている電球が幾つかあるらしい。
蛍光灯の光量が不安定になり、不規則に明滅を繰り返しているのだ。
「違う。そうじゃないのよ! 噴水が……中庭の噴水が――」
水柯は先ほどの奇怪な現象を何と表現してよいのか解らずに、窓を指差しながらヨロヨロと後ずさった。
トンッと背中が何かにぶつかる。
それが樹里の胸だと判断できたのは、彼の手が優しく水柯の肩に添えられ、美声が耳をくすぐったからだ。
「噴水の底に照明装置を設置したなんて話は聞かないよ。噴水が光るわけないだろ。第一、夜間は噴水自体が動いていないはずだ」
「で、でも、確かに光ったし、水を噴き上げてたのよ。水音だって――」
水柯は窓を凝視したまま喚いた。
更に言を連ねようとして、ハッと息を呑む。
ポツン……ポツン……。
目前の窓硝子に水滴が落ちてきたのだ。
それは硝子に当たっては弾け、ゆっくりと細い水の筋を作り始める。
「早いな。天気予報では夜半からだって言ってたのに」
充が窓に視線を向け、首を捻る。
「雨か。月が隠されたな」
長い指を硝子に伸ばし、直杉が淡然と囁く。
その一言が、他の三人に落雷のような衝撃をもたらした。
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月が隠された――月が出ていない。
「ナ、ナオちゃん!」
たまりかねて水柯は大声を張り上げた。
「何か妙なことを言ったか、私は」
「バカ。月が隠された、ってことは――」
充があたふたと言葉を紡ぐ。
「今は『月のない夜』ってことよ! だから、だから……」
水柯の金切り声が廊下に響く。
後に続く言葉は、樹里が引き継いでくれた。
「月のない夜、九月九日――水妖伝説だ」
樹里に指摘され、直杉の双眸にようやく鋭い眼光が閃いた。
「なるほど、水妖伝説か。しかし、私を含め、ここにいる皆はそんな馬鹿げた伝説など信じていないのではなかったか」
他の三人の緊張を歯牙にもかけず、直杉は冷静に言葉を繰り出す。
「信じたくないけど、万が一ってことが――」
水柯の声はまたしても志し半ばで途切れた。
チカッ……チカッ。
廊下の電灯が一斉に点滅し始めたのだ。
チカッ、チカッ。
間隔は次第に忙しなく狭まってゆく。
チカッ、チカッ、チカッ!
急激に暗闇が訪れた。
電球が激しく瞬いた末に、突如として光を灯さなくなったのだ。
しばらく、雨の音だけが聞こえていた。
雨は強くなる様子もなく、しとしとと降り続けている。
「な、何なのよ、これっ!?」
肩に置かれた樹里の手をひしと両手で握り締めながら、水柯は叫んだ。
だが、応える者は誰もいない。
叫びが虚しく闇に吸い込まれた後、
……しくしく……しくしく。
女の啜り泣きのようなものが闇の奥から届けられた。
戦慄が水柯の全身を駆け抜ける。
哀愁を漂わせる啜り泣きは続く。
耳に入ってくるというのではなく、直接脳に響くような泣き声だ。
『わたしは、ここよ。早く見つけて……』
じめじめとした女の声が闇を漂う。
「ふ、ふざけないでよ」
震える唇から情けない声が洩れる。
女の啜り泣きは止まない。
「いやっ……いやよ」
水柯は恐怖が頂点に達するのを自覚した。
――幽霊なんて、水妖なんて信じない!
「いやぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!」
絶叫が暗澹とした廊下に谺した。
「6.閉ざされた水域」へ続く

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「ナ、ナオちゃん!」
たまりかねて水柯は大声を張り上げた。
「何か妙なことを言ったか、私は」
「バカ。月が隠された、ってことは――」
充があたふたと言葉を紡ぐ。
「今は『月のない夜』ってことよ! だから、だから……」
水柯の金切り声が廊下に響く。
後に続く言葉は、樹里が引き継いでくれた。
「月のない夜、九月九日――水妖伝説だ」
樹里に指摘され、直杉の双眸にようやく鋭い眼光が閃いた。
「なるほど、水妖伝説か。しかし、私を含め、ここにいる皆はそんな馬鹿げた伝説など信じていないのではなかったか」
他の三人の緊張を歯牙にもかけず、直杉は冷静に言葉を繰り出す。
「信じたくないけど、万が一ってことが――」
水柯の声はまたしても志し半ばで途切れた。
チカッ……チカッ。
廊下の電灯が一斉に点滅し始めたのだ。
チカッ、チカッ。
間隔は次第に忙しなく狭まってゆく。
チカッ、チカッ、チカッ!
急激に暗闇が訪れた。
電球が激しく瞬いた末に、突如として光を灯さなくなったのだ。
しばらく、雨の音だけが聞こえていた。
雨は強くなる様子もなく、しとしとと降り続けている。
「な、何なのよ、これっ!?」
肩に置かれた樹里の手をひしと両手で握り締めながら、水柯は叫んだ。
だが、応える者は誰もいない。
叫びが虚しく闇に吸い込まれた後、
……しくしく……しくしく。
女の啜り泣きのようなものが闇の奥から届けられた。
戦慄が水柯の全身を駆け抜ける。
哀愁を漂わせる啜り泣きは続く。
耳に入ってくるというのではなく、直接脳に響くような泣き声だ。
『わたしは、ここよ。早く見つけて……』
じめじめとした女の声が闇を漂う。
「ふ、ふざけないでよ」
震える唇から情けない声が洩れる。
女の啜り泣きは止まない。
「いやっ……いやよ」
水柯は恐怖が頂点に達するのを自覚した。
――幽霊なんて、水妖なんて信じない!
「いやぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!」
絶叫が暗澹とした廊下に谺した。
「6.閉ざされた水域」へ続く
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