ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です

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三.狂夜


 冴え冴えとした蒼い月が夜空に浮かんでいる。

 仕事を終えて帰路についた氷上綾は、天を仰ぎ、ふと眉根を寄せた。
 中空では大きな満月が輝いている。
 ――今宵は満月だったかしら?
 ここしばらく曇天が続いていたせいか、久し振りに月を視野に認めたような気がする。なので、急に月が真円を描いたような錯覚に陥り、綾の心は落ち着きをなくした。
 単なる自分の思い違いなのだが、妙に胸がざわめく。
 綾は漠然とした懸念を払拭するように空から視線を引き剥がすと、長い髪を翻して住宅街を歩き始めた。
 程なくして二階建ての自宅へ辿り着く。
 解錠し、玄関ドアを開いた所で綾は一瞬足を止め、片眉を跳ね上げた。
 ――血の匂いがする。
 直ぐさま、鼻腔を不快な香りがくすぐったのだ。
 空気中に微かに漂う血液の匂いが、胸の裡の危惧を増大させる。
 綾はハイヒールを脱ぎ捨て、足早に血の匂いを辿った。どうやら、それはリビングから漂ってきているらしい。
 綾は真摯な眼差しでリビングのドアを睨めつけると、ショルダーバッグを床に投げ捨てた。
 ドアに片手をかけ、もう一方の手を軽やかに翻す。
 己の手の裡に檜扇が出現したのを確かめると、綾は躊躇わずにドアを開き、リビングの中へと飛び込んだ。

 煌々と照った照明の下――現世における母と弟がいた。
 ただし、母親は首筋から血を流しており、弟は母のその首に長く変形した爪を立てているところだった。
 弟の髪は腰の辺りまで伸び、双眸は血のような紅に変じている。
 以前と同じだ。弟は《氷上遼》という借宿から脱して、堂々と表層に出てきてしまったのだ。
「母さんを離しなさい、遼」
 綾は檜扇を弟に向けて容赦なく投じた。
 物凄い勢いで飛んで来た檜扇を躱し、弟が心外そうに綾を振り返る。
「母さんの血を吸ったのか?」
 綾は母の青ざめた顔を眺め、目を眇めた。
 母は意識を失っている。実の息子のあまりの変貌振りに驚愕し、ショックで気絶してしまったのだろう……。
「血を啜ってやろうと思ったところに、姉上が帰って来られた」
 弟が綾の姿を視界に納め、冷ややかな笑みを唇に刻む。
「妾に弟はおらぬ――と、何度言えば理解するのだ?」
 綾は口調を改めると、右手を心臓の上に押し当てた。
「なるほど。姉上は未だ余のしでかしたことを嘆き――怒っておられるのか?」
「……貴様の愚行が妾を糸の檻に閉じ込めているのだ。下らぬ戦に延々とつき合わせおって……! 貴様に《姉上》などと呼ばれるだけで反吐が出る」
 綾は憤りを隠しもせずに、遼であったモノに言葉の刃を向けた。
 弟の顔がほんの一瞬だけ苦痛に歪む。
 だが、彼はすぐにその感情を押し殺し、再び整った顔に冷笑を浮かべた。
「それにしては、この《器》のことは大層可愛がっていたようですが?」
「遼は可愛いが、貴様は塵ほども可愛くなどないわ……! それに、魔王として目醒めた今となっては、最早妾の知る遼は何処にも存在しておらぬ」
「では、余と対極にあるあちらの弟妹のことも等しく憎いのか、姉上?」
「妾には弟も妹もおらぬ」
 冷徹な声音で告げると、綾は瞼を閉ざした。
 深呼吸を一つし、次に瞼を跳ね上げた時、綾の瞳はこの世のものとは思えぬ輝きを放っていた。
 右目が金色、左目が銀色――と、それぞれ異なる虹彩を持っているのだ。
「《白菊(しらぎく)》――」
 綾は低い声で己の裡に喚びかける。
 すると心臓の辺りから金の柄が飛び出した。
 逡巡することなく柄を握り、一息に己の裡から生えたものを抜き取る。
 姿を現したのは、一振りの太刀だ。
「……本気か、姉上?」
 刀を手にした綾を見て、弟が僅かに顔をしかめる。
「遼ではなく、魔王と化した貴様を野放しにしておける訳がなかろう」
「妖鬼族は、中立の立場では?」
「妾もいい加減飽きたのだ。ただひたすらに糸を紡ぎ、書を綴り続けることに。だから、妾は決めたのだ。今生こそ二冊の《妖鬼伝》に《了》の文字を刻んでやろう――と」
 挑戦的に言い放つと、綾は刀を構え直し、弟との間合いを一気に詰めた。
「この器の《遼》という名は、本当は《了》の意という訳か……。余は、生まれ落ちた時から妖魅王の呪をかけられていたのだな。覚醒が遅くなったのも、そのためか?」
「大人しく遼が死す時まで遼の裡で眠っておればよかったものを……!」
 綾は愛刀《白菊》の切っ先を下から上へと跳ね上げた。
 寸でのところで弟がそれを軽やかに躱し、母を手放す。
 床に落下する母の身体を綾は咄嗟に片手で受け止めていた。
 その隙に弟が俊敏に窓際へと移動する。
「――闘わずして逃げるのか?」
 弟が開け放たれた窓の桟に飛び乗るのを見て、綾は慌てて母を床に横たえた。
「血を啜ったこともないこの肉体では、到底姉上には敵わぬ。余もそこまで愚かではない。それに――遙に逢う前に姉上に殺されては、転生した意味がないのでな」
 余裕の笑みを綾に向けると、弟は漆黒の髪を翻して夜の闇へと身を投じた。
 潔く退いた弟に対して舌打ちを鳴らし、綾は窓辺へ駆け寄った。
 冷たい夜風が弟の残り香と共にリビングに吹き込んでくる。
 だが、彼の姿は既に何処にも見当たらなかった。
 つと、窓外を眺めると月が視界に飛び込んでくる。

 天空を彩る満月は、不吉な前兆のように蒼から薄紅へと色を変えていた――


     * 



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2011.05.28 / Top↑
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