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ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です
Thu
2009.07.16[00:52]
 見たことのない海。
 在りえるはずのない海。
 だが、美人は知っていた。
《それ》が《泥海》であることを。
 記憶にないはずの海を、美人の裡の《何か》が確かに識っていた。
 泥海――昏い海。
 全てを生み出し、全てを無に還す、偉大なる海。
 何処に存在しているのか知らないが、妙に懐かしく感じられた。それと同時に、得体の知れない恐怖も感じる……。
 ――パシャン……!
 唐突に小さな水音がした。
 ――パシャン……パシャン……!
 より大きな音となる。
 美人はその音に驚いて零治を見遣る。
 だが、零治は美人の視線の先を追って不思議そうに小首を傾げただけだった。特別、驚いた様子も動揺の気配も感じられない。
 どうやら、零治には音が聞こえるどころか、昏い海さえも視えていないようだ。
 ――パシャン! …………パシャン……!
 水音が次第に大きくなる。
 美人は、水音の正体を確かめようと目を凝らす。
 しかし、水銀の塊のような水面からは何も窺えなかった。
 更に音の発信源を見極めようと、意識を集中させる。常人とは異なる能力をもって、それを探り出そうというのだ。普段は、その特殊な能力を行使することは極力避けているが、今は妙に水音が気になり、使わずにはいられなかった。
「――ビジン? オイ、ビジン! 《力》は使うなっ!」
 零治は、目を見開いたまま動かなくなってしまった美人を目の当たりにして声を荒げた。
 長年の付き合いから、美人が特殊能力を使おうとしていることくらいすぐに見抜くことができる。
「ビジンッ!」
 零治は美人の顔を覗き込む。
 返事はない。
 美人はとっくに意識を集中させ、黒光りする不気味な海を食い入るように見つめていた。既に泥海しか視界に入れていない。零治の存在すらも忘れるほど、揺れる水面を凝視していた。
 ――パシャン……パシャン!
 美人の耳には、しっかりと得体の知れない水音が届いている。
 ――パシャン!
 水面が大きく揺れる。
 ――バシャンッ! 
 激しい水音とともに海面から黒く大きな影が飛び出し、水飛沫を弾かせながら綺麗な弧を描く。
 ――人魚? 
 咄嗟にそんな単語が頭の中をよぎった。
 上半身は、確かに自分と同じ人間。だが、下半身は青緑色の鱗で覆われ、足は無く、魚類の尾を持ち合わせていた。
 半人半魚。
 それを世間一般では《人魚》と言い表す。
 だから、美人は初めて目にするそれを《人魚》だと定義付けることができた。
 黒目のない大きな金色の眼球が、じっとりと美人を値踏みするように見つめていた。
 ――ミツケタ……。
 美人の脳に直接言葉が響く。一種の超音波だったのかもしれない。それを美人独自の能力が、そう解読したのだろう。
「……な……ぜ……」
 ――何故、僕を?
 美人はそう問いかけようとしたが、舌をうまく動かせず、失敗に終わった。
 人魚が艶冶な笑みを浮かべる。意味ありげに唇の両端を吊り上げて。
 ――ミツケタ。
 もう一度、人魚は美人に向けて思念を飛ばし、水中に身を隠した。
 ――パシャン……パシャン……。
 水音が徐々に遠のいていく。
 人魚の跳ねる水音が消えたかと思うと、今度は視界が金色の輝きを帯び始めた。
 鈍く光る海の遥か遠く――水平線から金色の光の波が押し寄せてきたのだ。
 ――ミツケタ……。
 誰かの思念が届けられる。
 ――ミツケタ……ミツケタ!
 先ほどの人魚とは異なる強い声。
 美人は眩暈を感じた。
 金色の光が全身を包み込む。
 美人は糸を切られた操り人形のようにプツリと力を失い、そのまま重力に従って脆く崩れ去った。



「――ビジンッ!」
 のけ反るように倒れかけた美人の身体を、零治は慌てて両手に受け止めた。
《泥海》の視えていなかった零治には何が何だかさっぱり解らなかった。それでも、美人を受け止めようと反射的に腕が彼を支えていた。
「オイ、ビジン? ――ビジン! ……ヨシヒト!」
 零治は美人の細い肢体を腕に抱きながら、その蒼白な顔を覗き込んだ。
 揺さぶっても、軽く頬を叩いても効果はない。
 零治の顔は真剣そのものだ。
 美人の呼び名が無意識に《ビジン》から《美人》へと変化していた。
 ひどく真摯な時にだけ、零治は美人のことを本名で呼ぶのである。
「美……人……?」
 目覚めない美人の頬に、零治はそっと手を添える。ヒヤリと冷たい。
 ――息をしてない?
 瞬く間に、不安が全身を駆け抜けた。
 頬に添えた手をずらして唇に触れようとした途端、零治は眉間にきつく皺を寄せた。
「――誰だっ!?」
 鋭く誰何する。
 だが、応えはなく、静寂だけが部屋に漂った。
 零治は首だけで後ろを振り返る――やはり、誰もいない。
 おかしい……。
 今、誰か――生身の人間ではない《何者か》が、美人の頬を愛撫し、不躾にも唇を奪っていった。
 霊感など持ち合わせていない零治に視えるはずはない。
 しかし、零治には《それ》が手に取るように解ってしまったのだ。
「ちくしょう……!」
 零治は罵言を吐き出し、意識のない美人をそっとベッドに横たえた。
 胸が微かに上下している。
 呼吸を行っていないように見えたのは、錯覚だったようだ。
「ふざけやがって……!」
 忌々しげに呟く。
 美人の薄紅色の唇を親指で丁寧に拭いながら、零治は苛立たしげに歯で下唇を噛み締めた――


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