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ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です
Sat
2009.07.18[10:04]

 解放されると同時に、美人は激しく咳き込んだ。
 視界の端で境王――零治の手が遠ざかる。
 額の紋章は消え失せ、瞳の色彩も焦げ茶色に落ち着いていた。
 意識を取り戻した零治の方は、しばらく茫然と自分の両手を見つめていた。
 美人の首を絞めていた自分の手を……。
 こんなことは、あってはならない。
 絶対に起こってはいけないことなのに!
 それなのに手は覚えている。
 美人の首の感触。
 唇には、美人の柔らかい唇の感触までもが残留していた。
 脳は覚えていなくても、皮膚がしっかりと記憶を保持している。
「――うっ……! ゴホッ……ゴホッ、ゴホッ!」
 美人が苦しげにむせる。
 零治は、そっと美人の上から身体を退けた。
「ゴホッ、ゴホッ……! ……れ……じ……」
 涙で潤んだ眼差しで、美人が零治を見上げる。その瞳が『良かった』と、安堵を伝えていた。
 零治は相変わらず呆けたまま、血が流れている美人の唇に手を伸ばした。
 恐る恐る指で血を拭う。
「オレが……やったのか?」
 信じれない。
 美人を傷つけるなんて。
 信じたくない。
 そんな零治の胸中を察するように、美人は無言でかぶりを振った。
「オレがやったんだろ? オレが、おまえにこんな酷いことをしたんだな?」
 己に問いかけるように、零治は質問を繰り返す。
 美人は、唇に当てられた零治の手を優しく手で包み込んだ。
「違うよ……零治じゃない」
「オレじゃなければ、誰がやったんだよ?」
 痛い部分を突かれて、美人は押し黙った。
 零治には境王のことは言えない。
 零治を巻き添えにはしたくなかった。
「誰が……おまえを傷つけたんだよ」
 零治の全身が怒りと後悔に包まれる。彼は、自分に対してひどく憎悪を感じていた。美人を殺めようとしていた己を赦せないのだ。
「……悪かった、ビジン」
 零治は、美人から目を逸らしてポツリと謝罪する。
 短い沈黙の末、彼はゆっくりとした動作で美人を振り返った。
 手を伸ばして、美人のサラサラの髪を撫でる。
「悪かった、美人」
 ヨシヒト――零治が、美人を本名で呼ぶことは滅多にない。稀有なことだ。
 他人からは想像もできないほど真剣な時にだけ、零治は美人の本名を口にする。
 二人にとって、それはルール。幼い頃から定められた暗黙の了解だ。その一言だけで、どれだけ零治が本気なのか窺い知ることができるのだから。
「もう二度と、こんな真似はしない」
 今度は美人の目をしっかり見つめながら、苦々しく宣言する。
 美人は、胸が痛みを発するのを感じた。
 零治は何も悪くないのに……。
 原因は境王なのだ。
 眠っている零治の身体を乗っ取り、更に零治を苦悩させるなんて酷だ。
「零治は悪くない」
 美人は気怠い上体を床から引き起こす。
「誰かが零治の身体を利用したんだ」
 敢えて境王の名は伏せておいた。
 瞬時、零治の顔が強張る。
 美人の言うことが正しいのならば、決してその人物を赦しはしない。正体を突き止めて、復讐してやりたいくらいだ。そいつを一生赦せないだろう。大切な《宝物》を傷つけたのだから。
「誰だよ?」
「解らない」
 美人は弱々しく首を横に振った。
 何があっても、零治を魔物や化け物騒動に巻き込みたくない。
 零治の追求を拒むように美人は立ち上がると、乱れた衣服を整えた。これから、西野に逢わなければならないのだ。
「――僕、ちょっと出かけてくるよ」
「ああ……」
 零治は『何処へ?』とは訊ねなかった。
 気まずいことがあった後だから、美人が自分を避けたいと思うのも当然だ、と推測したのだ。
 もしかしたら、出て行ったきり今日は戻らないかもしれない。それも、自分が美人にしてしまった行為を考えれば致し方ない。
 その時は、日を改めて謝りに行くまでだ。


 美人は、零治がついてこないのを確認すると玄関へ出た。
 靴を履き、マンションの外へ出る。
 腕時計に視線を落とすと、早くも午後十一時四十五分を過ぎていた。
「急がないと――」
 独り言ちて、美人は足を踏み出した。
 だが、その足はすぐに停止を余儀なくされる。
 背後で気配がしたのだ。
『何処へ行く?』
 また、あの声だ。
 零治ではなく、境王の冷然とした声だ。
 美人は慌てて振り返った。
 額に三角形の青い紋章を浮かべ、双眼を黄金に輝かせた境王が悠然と佇んでいた。
「――境王! 零治は!?」
『余の裡で眠っている。それより、何処へ行くのだ、ソウコ? まさか、あの忌々しい学舎ではなかろうな』
 探るように、境王は美人の全身を上から下まで見回した。
 美人の頬が微かに引きつる。平静を保とうとしたのだが上手くいかなかった。零治の肉体を利用されている、という許し難い事実が心を掻き乱す。
『そうか。あそこへ行くのか。――扉を封じるつもりだな』
 境王は鋭い眼差しで美人を睨む。
『どれだけ余と鏡月魔境を苦しめれば気が済むのだ、ソウコ? おまえは、いつもいつも余を裏切る。余の邪魔をする。だが、今回はそうはさせない。我らは、何としてでもこの地上へ這い出てきてやる。光溢れる地上に、新たな鏡月魔境を創らねばならない。我が愛しい魔物たちのために――』
 それだけ述べると、境王は不意に通路の手摺を乗り越えたのだ。
 フワリ、と金の髪が宙を舞う。
「境王! ――零治っ!」
 美人は手摺に駆け寄り、そこから身を乗り出した。
 ここはマンションの五階だ。飛び降りて、無事なはずがない。
 だが、美人の意に反して、境王は金色の美しい姿のまま地上へ降り立っていた。
 上から見下ろすと神々しい。
 天使か神か、と信じ込んでしまいそうだ。
 しかし、彼はそのどれでもない。
 数多の魔物を束ねる王――境王なのだ。
『鏡月魔境は余のもの。誰にも渡さぬ』
 境王は美人を見上げる。
 端麗な顔に艶冶とした冷笑が浮かんでいた。
「零治!」
 今にも手摺から落ちてしまいそうな態勢のまま、美人は叫ぶ。
 転瞬、フッと境王の姿が暗闇に消えた。
 ――空間移動!
 美人は悔しさが込み上げるのを無理矢理抑えつけながら、近くの階段を駆け降りる。
 境王にとっては、空間をねじ曲げて好きな場所へ移動することなど容易いのだろう。
 残念ながら、美人はその稀な能力を行使することができない。自分の足で追いかけなくてはならないのだ。
 境王が立っていた辺りを隈無く見回したが、何も手がかりは得られない。
 自分にも境王と同等の能力があれば、すぐにでも追って行けるのに。
 美人は、自分の無力さに舌打ちすると走り出した。
 境王の行き先は解っている。
 聖華学園だ。
 境王は、鏡月魔境とこの世を繋ぐ唯一の接点――扉を封印されないように先回りしたに相違ない。
 境王に計画を阻止させるわけにはいかないのだ。
 美人は駆ける足を速めた。
 一刻も早く辿り着かなければならない。
 西野の待つ聖華学園に――


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Category * 鏡月魔境
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