ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です

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 序



 緑の輝きが四方を取り囲んでいる。
 少女は、美しい夏の森をゆっくりと散策していた。
 立ち並ぶ杉や檜の合間を縫うようにして奥へと進む。
 時折、森を吹き抜けてゆく夏風が、少女の豊かな黒髪と白いワンピースの裾を翻してゆく。だが、少女は乱れた髪や衣服に頓着することなく歩き続けた。
 やがて、フッと樹林が途切れる。
 拓けた場所に出た途端、少女の顔に自然と笑みが浮かんだ。
 目の前に池が出現したのだ。
 鮮烈な夏の陽射しを受けて水面はキラキラと輝いている。
 池の対岸には四阿があり、散歩の途中で休憩がとれるように配慮されていた。
 首を巡らせれば、力強く聳える幾つもの山々が視界に飛び込んでくる。
 この絶妙な風景を少女は好いていた。
 その中でも殊に心を惹きつけられるのは、眼前に広がる池だ。水は驚くほど透き通っており、水面は陽を弾いて明澄な煌めきを放っている。
 人里離れた山奥に存在しているせいか、澄んだ水面は神秘的だった。
 誰かが『この池には水の神様が棲んでいるんだよ』と言えば、少女は素直にそれを信じるだろう。
 少女は池の淵に屈み込み、片手を伸ばした。
 水中に指を浸す――冷たい感触が心地よかった。
 小さな波紋が指を中心に広がり、静かに消えてゆく。
 穏やかになった水面には、鏡に相対した時のように自分の顔がはっきりと映し出されていた。
「ねえ、聞いて。あの人が好きなの」
 少女は水に映るもう一人の自分に呼びかけた。
 脳裏には、ある少年の姿が描かれている。
「あの人のことが大好きなの」
 少年のことを想うだけで胸が高鳴り、切なさが込み上げてくる。
 僅か数ヶ月前に出逢ったばかりの少年。
 入学した高校で、たまたま同じクラスになっただけの少年だ。
 初めて視線が合った時、『あんた美人だな。オレとつき合わない?』と彼はからかうように言った。値踏みするような眼差しでこちらを眺めながら。
 第一印象は最悪だった。
 表向きは愛想笑いで受け流し、胸中では『女好きで軽薄で嫌な男だ』と彼を侮蔑した。
 だが、一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、徐々に彼に対する見方が変わってきた。
 彼は女好きなのではなく、女嫌いなのだ。
 だから、彼の外見を目当てに言い寄ってくる女たちを軽蔑の眼差しで見つめ、遊んでは捨てる。
 けれど彼は、それ以外の女性に対しては驚くほど優しかった。
 そう、優しい上に親身なのだ。
《友人》や《クラスメイト》という枠を超えない限り、彼は少女を一個人として認め、真摯な優しさをもって接してくれる。
「でも、駄目なの。それはもう嫌なの――耐えられない」
 少女は胸に去来した苦痛に眉をひそめた。
 水の中で、もう一人の自分も顔を歪めている。
「物分かりのいい友達の振りをするのは、もう嫌なの。でも、彼に群がる愚かな女の一人にはなりたくない。……なりたくないわ、群れの中の一人なんて。どうしたらいいのかしらね?」
 少女は途方に暮れたように水面に映る己に問いかけた。
「あの人が好き。大好きなの。だから、誰にも渡したくない。そう、誰にも……。誰にも、誰にも、誰にも――」
 他人から『綺麗だね』と褒められる容貌が、今は醜く歪んでいた。
 少年への恋慕と、他の女性に対する嫉妬が心を醜悪にさせている。
 鬼のような己の形相に気づき、少女は慌ててかぶりを振った。
「大好きなあの人を振り向かせるには、一体どうしたらいいのかしらね……」
 心を落ち着かせるように片手を胸に当て、少女は掠れた声で呟いた。
 鬼気漲る表情が消えた代わりに、気弱な笑みが口元に閃く。
 水面に映り込む少女の顔は実物よりも歪で、浮かべた笑みは自嘲めいていた。
「ねえ、お願い。あの人が欲しいの。彼の心を手に入れさせて下さい、水神様。彼の心を射止められるなら何でもします。あの人が振り向いてくれるのなら、鬼にも夜叉にもなります。だから水神様――どうか彼の心を下さい」
 少女は熱っぽい口調で言葉を紡いだ。
 当然のことながら、少女の声に応えるものはない。
 泉も森林もひどく静穏だった。
 少女は大きく息を吐き出すと肩を竦めた。
「――なんてね。ここに水の神様がいたとしても、恋の成就を願うのはお門違いよね」
 馬鹿げたことをした、と己の行為を笑い飛ばし、少女は池から手を引き抜いた。
 そのまま立ち上がろうとして、不意に動きを止める。
 誰かが自分の名を呼んだ気がしたのだ。
 少女は不審に思い、首を傾げた。
 耳を澄ますが、虫の音以外は何も聞こえない。
 今のは空耳だったのだろう。
 少女は気を取り直すように微笑し、改めて池に視線を投げた。
 手を引き抜いた反動で水面は波立ち、幾重もの波紋がゆっくりと広がっている。
 何とはなしに波紋の動きを目で追いながら今度こそ立ち上がる。
 直後、背中に大きな衝撃を感じた。
 驚く間もなく身体が前につんのめる。
 バランスを崩した身体は、呆気なく池へと投げ出された。
 全身が容赦なく水面に叩きつけられる。
 冷たい水の感触が肌を包み込んだ。
 何が起こったのか理解できない――頭が一気に混乱を来す。
 少女は無意識に藻掻いていた。
 しかし、浮上しようとする意志に反して身体はどんどん沈んでゆく。
 四肢を蠢かしているうちに身体が仰向けになった。
 刹那、視線が凍りつく。
 水面が遠い。
 身体は確実に池底へと沈み続けているのだ。
 ようやく、少女は自分が溺れている事実を認識した。
 恐怖に身体が竦む。
 ――どうして……。
 少女は遠ざかる水面を愕然と見上げた。
 透明だった水は、激しく藻掻いたせいで濁りを帯び始めている。
 視界は次第に不鮮明になり、ついには何も見えなくなった。
 ――どうして?
 息苦しさに意識が遠くなる。
 自分の口と鼻から吐き出される気泡の音だけが、やけに大きく響いていた。
 水が全身に絡みついて重い。
 長い黒髪が藻のように水中を漂い、視界を奪ってゆく。
 少女は渾身の力を込めて足で水を掻き、片手を思い切り水面へと向けて伸ばした。掴む物を求めて自然と拳が握り締められる。
 だが、掴めるような物など何一つありはしなかった。
 握った拳の隙間から水が虚しく逃げてゆく。
 ――どうして……?
 心と身体が水に呑まれてゆく。
 生まれて初めて『絶望』という言葉が脳裏をよぎった。
 ――何故なの? どうして、どうして、どうして……どう……して……!?
 水に絡め取られて沈みゆく中、少女は絶叫した。


     「一章」へ続く



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2009.07.28 / Top↑
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