ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です

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 冷たい水が肌を刺す。
 真夏だというのに、水神池の水は異様に冷たかった。冬の冷水の中を泳いでいるような錯覚さえ感じる。
 零治は冷たい水を掻き分けて前へ進んだ。
 ユキが沈んだ池の中央までクロールで急ぐ。そこで一度、大量の空気を肺に送り込み、潜水に切り換えた。
 池の中は、眩い光に包まれている。
 アワナギの神力のおかけで視界は素晴らしく開けていた。
 ユキの姿を求めて、水中に視線を彷徨わせる。
 すぐに彼女の姿を発見した。彼女は目に見えない何かに絡め取られるようにして、池底へと沈んでゆく。
 ユキの周囲には何もない。しかし、彼女の身体は確実に深みへと引っ張られていた。黎子の強い意志と怨念が働いているのだろう。
 零治は逡巡せずにユキを追った。池の深さは、五、六メートルだと隆生が言っていた。ありったけの勇気と忍耐力を振り絞れば、何とかユキに追いつけるだろう。
 零治は冷たい水の中を潜り続けた。
 零治に気づいてユキが激しく藻掻く。片手が助けを求めるように突き出された。
 必死に水を掻き、零治も手を伸ばす。その手がユキに届いた、と喜んだのも束の間、急激に彼女の身体は方向を転じた。
 物凄い勢いでユキが遠ざかってゆく。ユキの身体は池の淵へと引っ張られているようだった。
 それを見て、零治の忍耐力は呆気なく霧散した。
 あれについていくには、一度水面に顔出して体内に酸素を取り入れるしかない。
 素早く決断し、浮上する。
「零治くん、ユキはっ!?」
 水面から顔を出した途端、翠の叫びが飛んできた。今頃になって、ようやく起こった事態を把握したらしい。
 零治は翠の声に応えることなく再度クロールを開始した。とても叫び返す余裕はない。
 ユキが引っ張られたと思しき池の淵へと辿り着く。
 新鮮な空気を吸い込んでから、改めて水中に潜った。
 ユキは、さほど離れてはいない場所に沈んでいた。
 彼女はまだ意識を保っているらしく、必死に四肢をバタつかせている。だが、池底から脱出するのは不可能なようだった。どれほど藻掻こうと、ユキの身体が浮上してくる気配はない。
 零治は急いで水底へと潜水した。
 片手でユキの手を握る。彼女は恐ろしいほどの力強さで零治の手を握り返してきた。懸命に縋りついてくる。
 零治はユキを安堵させるように、もう一方の手をユキの背に添えた。しかし、彼女はパニックを引き起こしているらしく、激しく手足を蠢かせている。
 暴れられては、助けられるものも助けられない。
 仕方なく零治が一旦ユキから離れようとした時、突如として彼女は激しく身体を震わせ、その後ピタリと藻掻くのを止めた。
 ユキの首がゆるりと動き、己の足元を見遣る。
 釣られて零治も彼女の視線の先を追った。
 刹那、
「――――!?」
 零治は我が目を疑った。
 驚愕と恐怖に心臓が縮み上がる。
 その拍子に、口からゴボゴボと空気が洩れた。恐怖に負けじと、慌てて口を閉ざす。
 ――アレは……なんだ?
 ユキの足首に白いモノが絡みついていた。
 白い、白い、陶磁器のような――手。
 ユキの顔がおぞましさに歪み、口が声にならない悲鳴をあげた。
『レ・イ・コ』
 不意に、ユキの頭がガクリと前に垂れる。
 零治は咄嗟にユキを抱え直した。あまりの恐ろしさに失神してしまったのだろう。
 ――佐渡なのか?
 零治は戦慄を覚えながらも、ユキの足首を掴む白い手を見つめた。
 白い腕は、池の淵に幾つもあいている横穴の一つから伸びていた。隆生が言っていた横穴とは、これらのことなのだろう。
 土とも岩とも判別のつかないゴツゴツとした池の淵。そこに穿たれた無数の横穴。
 小柄な人間が一人入れるほどの細い穴から、不気味な白い手は突き出ていた。
 直径一メートル弱の昏い横穴に、何者かが横たわっているとしか思えなかった。
 ――とにかく古市を引き上げよう。
 零治は恐怖を押し隠し、浮上を開始した。
 当然、ユキの足を握ってる手とその本体もついてくる。
 ズルッ、と横穴から白い物体が滑るようにして水中へ姿を現した。
 それを目の当たりにした瞬間、零治の全身に衝撃が走った。
 背筋がゾクリと粟立つ。
 佐渡黎子がいた。
 白いワンピースを纏った黎子が、一年前と変わらぬ姿で現れたのだ。
 その不可解さと気味の悪さに、零治は目を剥いた。
 これは黎子の怨霊などではない。
 彼女の本体――肉体だ。
 霊魂ではないことを示すように、長い黒髪が水中を舞う。零治の足を掠めたそれは、紛れもなく本物の髪の毛だった。
 警察の捜査でも発見されなかったという黎子の遺体。
 彼女の肉体は腐蝕することなく、この池の中に眠っていた。
 その肌は、まるで蝋人形のように艶々と光り輝いている。
 生前の美貌を完璧に留めている遺体を見て、零治は驚倒した。
 一年も前に死んだ黎子の肉体が、綺麗に残っているのが不思議でならなかった。
 黎子が原型を留めているのも、警察の捜査で見つからなかったのも――彼女が得た怨霊としての力ゆえなのだろうか……。
『零治くん、ユキを離して』
 唐突に、頭の中に黎子の声が響いた。
 零治はギョッとして、黎子の遺体に視線を落とした。
 黎子は零治を見つめていた。双眸をカッと見開き、瞬きもせずに零治を見上げている。怨霊と化した黎子の魂は、己の遺体に戻っていたらしい。
 ――佐渡こそ、古市を離してくれよ。
 零治は心の中で嘆願した。
 ユキは気を失ってしまっている。早く地上へ連れ戻されなければ、危険な状態だ。
『零治くんを死なせたくはないの。だから、ユキを離して。ユキだけを置いていって』
 ガラス玉のような双眸が零治をじっと見つめている。
 ――駄目だ。それはできない。
『零治くんまでユキの味方なの?』
 ――そうじゃないけど、古市が死ぬと……隆生が悲しむ。
『私がいなくなった時、隆生は少しでも哀しんでくれたかしら?』
 ――当たり前だろ。今回、別荘に来たのだって、佐渡が亡くなってるなら供養してやりたい、って隆生から言い出したんだ。
『……隆生は相変わらず、友達としての女には優しいのね。あの人は、いつもそう。何とも想っていない女には、とても……とても優しいの』
 黎子が哀しげに微笑む。
『でも……それでも嬉しいと感じてしまうから仕方ないわね。死んでまで、こんなにも隆生のことが好きだなんて、隆生にとっては迷惑よね』
 ――なあ佐渡、もう充分だろ。古市はきっと自分の罪を認め、これから必死でそれを償いながら生きていくだろう。
『ユキに、そんな殊勝な心があるかしら?』
 ――今度のことで身に染みただろ。おまえが古市を裁くのは容易いだろうけど、それじゃ意味がないんじゃないか? 古市は自分の罪を認識することなく死ぬだけだ。古市は生きて罰を受け、罪を償うべきだとは思わないか?
 零治が真摯に語りかけると、黎子は思案するように瞼を閉じた。
 ――上へ行かせてくれよ。俺も隆生と同じで、佐渡に人殺しなんかさせたくない。
『……行きたかったら、行けばいいじゃない』
 一拍の沈黙の後、黎子は再び瞳を開けた。
 何かを達観したような、もしくは諦観したような囁きが零治の脳に響いていくる。
『その代わり、私も連れて行って。ここは、昏くて冷たくて嫌なの……。そろそろ家族にも私が死んだことを現実として受け止めてもらいたいし――この亡骸を地上へ運んでよ』
 意外なほど素直に黎子は告げた。
 零治が頷いた途端、驚くべきことに抱えているユキの身体が軽くなった。浮上する速度も増す。黎子が未曾有の力を貸してくれているのだろう。
『ユキを生かしておいてあげるわ。だから、必ず罪を償わせて。それから、あの人に――私よりも凄い力を秘めた神様に伝えて。私の進むべき道を教えて下さい、って』
 思念のような黎子の声は、徐々に穏やかなものへと変化してゆく。
 その声を聞きながら、零治は水面を目指して急いだ。
 ようやく水面に到着する。
 顔を出し、思う存分空気を吸った時、黎子が告げた。
『ねえ、零治くん。私はただ、もっと隆生に恋していたかっただけなのよ』
 優しく静穏で、それでいて儚げな声。
 それは彼女の――若くして生を断たれた哀しみと愛しい者への想いが溢れる、たった一つの本音だった。



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2009.08.08 / Top↑
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