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ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です
Thu
2009.08.20[22:59]
 若い男の声は室内から聞こえてきた。
 アーサーに違いない。
 初めて耳にする吸血鬼の声は、想像よりも美しく静穏だった。
 流暢な日本語は、彼が百五十年近くもこの地に住み着いていることの証だ。
「いきなり襲ったりはしないから、入ってきなさい」
 再び玲瓏たる声が要を誘う。
 確かに、いつまでもここに佇んでいるわけにはいかない。アーサーと対面しなければ、彼を殺すことも叶わないのだから。
 要は意を決し、入口を潜った。
 広間は、入口から見るよりも遙かに大きかった。三十畳ほどの広さがある。
 石棺と書架以外は何もないような殺風景な部屋。
 その中に、安楽椅子が一つだけポツンと置かれていた。
 蒼い天鵞絨張りの椅子には、異国の青年が優雅に腰かけている。
 要は部屋の中ほどで立ち止まり、椅子に座する金髪の異邦人を眺めた。
 彼が殺人鬼アーサーであることは疑う余地もない。
 アーサーは椅子に深く腰かけ、組んだ足の上に分厚い書物を乗せていた。片手を肘掛けに預け、残るもう一方の手で書物を捲っている。
 顔を俯けているために長い金髪が垂れ、その容顔をはっきりと見て取ることはできない。だが、鼻梁や唇の美しさから、彼が整った顔立ちをしていることは容易に想像できた。
「君が新しい《要》なのかな?」
 アーサーが書物に目を落としたまま訊ねてくる。
 吸血鬼を目の当たりにして萎縮してしまった要には、辛うじて頷くことしかできなかった。
「そう。じゃあ、適当に時間を潰してくれ」
 アーサーはこちらを一瞥すらしないのに、要に応えるように頷き返してくる。彼は要には全く興味がない様子で、読書に没頭していた。
 そんな彼の態度に要は困惑した。
「どうして……血を吸わない?」
「今は欲しくない」
 アーサーが要を見もせずに淡然と告げる。
 ――あいつを殺す絶好の機会かもしれない。
 要は恐怖心を押し殺し、鋭い眼差しでアーサーを睨めつけた。
 アーサーは読書に夢中だ。
 ――こちらに意識が向く前に、何とか仕留められないだろうか?
 まともに闘って勝てる相手ではない。
 書物に心を奪われている最中なら、隙を衝いて襲いかかることも可能だろう。
 要はアーサーに視線を据えたまま、そっとジーンズのポケットに手を忍ばせた。
 ――瑞穂を襲ったあいつを許すわけにはいかない。
 ナイフを掴み、音を立てないように注意しながらポケットから抜き取る。
 柄に折り込まれている刃を静かに引き出した。
 ――何より、あいつの存在が玲に苦痛と苦悩を与えていることが許せない!
 要はナイフの柄を強く握り締めた。
 刹那、
「そんな玩具では殺せないよ」
 アーサーが書物から目を離し、ゆっくりと顔を上げた。
 宝石のような蒼い瞳が要を射る。
 視線がぶつかった瞬間、要の全身に震えが走った。
 凄まじい衝撃が訪れ、思考と動作を停止させる。
「あ、ああっ……ああああっ……」
 自分の口から奇怪な呻きが洩れるのを、要は他人事のように聞いていた。
 ――ああ、どうして……。
 アーサーの蒼い双眸が要を呪縛する。
 自分に向けられた端整な顔から目を逸らせないまま、要は胸中で嘆いた。
 絶望と悲嘆が一気に胸に押し寄せてくる。
「れ……い……」
 不意に目頭が熱くなり、両眼から涙が溢れ出した。
 アーサーの顔を直視した途端、戦意が萎えた。
 震える手からナイフが零れ、石の床に落下して小気味よい音を響かせる。
「それほど似ているかな? 村の誰にも指摘されたことはないけれどね」
 アーサーが唇に冷笑を刻み、書物を閉じる。
 彼は流れるような動作で立ち上がると、無造作に書物を床に投げ捨てた。
「ああ、君は玲の幼なじみだったね。だから、私の顔に過剰に反応する。この顔に玲の影が見えるから、そんなに動揺しているんだね。――可哀相に」
 砂粒ほども『可哀相』だとは思っていない淡泊な声。
 アーサーは微動だにしなくなった要に向かって微笑を閃かせる。
 冷たい微笑みだった。
 他人を苦しませることに愉悦を感じているような、残忍な笑顔だ。
「可哀相に。私がその苦痛から君を解き放ってあげるよ。この顔も玲の顔も、もう二度と見なくて済むようにね」
 含みのある物言いをし、アーサーはまた笑った。
 双眸に弑虐と欲望の色が浮かぶ。
 吸血欲求に駆られたのだ。
 要がそうと察した時には、アーサーの姿は椅子の前から消えていた。
 瞬き一つする間に、長身の黒い影が眼前に出現する。
 アーサーの白い手が要の喉元に伸ばされる。
 首を掴まれたと思った瞬間、要は背に強い衝撃を感じていた。
 凄まじい力で身体を持ち上げられ、背後の書架に叩きつけられたのだ。
 書架に押しつけられた背中が疼くような痛みを発する。
 要は眉をひそめ、目と鼻の先に迫ったアーサーを見つめた。
 アーサーの手はしっかりと要の首を掴んでいる。
 端整な顔には薄笑みが張りつき、口の端からは二本の鋭い犬歯が覗いていた。
 美しい顔に似つかわしくない牙。
 邪悪で禍々しい牙を目にした途端、要は恐怖に硬直した。
 ――これは玲じゃない。玲とは似ても似つかぬ怪物だ。
 間近にアーサーの吐息を感じながら、要はおぞましさに顔を引きつらせた。
 玲の顔立ちは、母親である蘭の特徴を多く受け継いでいる。アーサーには似ていない。なのにアーサーの蒼い双眸だけは、限りなく玲に似ていた。
 冴え冴えとした目の輝きが、どうしようもなく玲を彷彿とさせるのだ。
「はな……せ……」
 唯一の武器であるナイフを手放してしまったことを後悔しながら、要は喉の奥から声を振り絞った。
 アーサーに掴まれているせいで、喋ることさえ困難だ。だが、何とかして彼の気を引かなければ、このまま血を吸われて呆気なく死んでしまう。
 焦燥に駆られながらも、要は打開策を見つけるための時間を捻り出そうと必死に言葉を紡いだ。
「どうして、瑞穂の血を吸った?」
「瑞穂? ああ……坂の娘か」
 アーサーは思案するように目を眇め、短い空白の後に嘲笑を浮かべた。
「村の者にしては珍しく私に歯向かってきたから、少し遊んであげただけだよ」
「殺したのか……!」
「さあ? あの娘が死のうが生きようが、私には関係のないことだ。そう、どうでもいいような瑣事だよ。君も今更、あの娘の心配をしても仕方がないだろう。もうすぐ君は死ぬのだから。私のための生贄。私に血を吸われるためだけの存在――それが須玖里の要だ」
 アーサーの身体がよりいっそう要に迫ってくる。
 首にかかっていた手が離れ、肩に移動した。
 残る一方の手が、要の首筋をなぞる。
 冷たい指の感触に、要は背筋がゾクリと粟立つのを感じた。
 首を離してくれたおかげで地に足が着いたが、アーサーの身体と書架に挟まれ、依然として身動きがとれなかった。
 要は上目遣いにアーサーを見つめ、大きく唾を呑み込んだ。
 吸血鬼の冷ややかな眼差しは、要の喉元を食い入るように眺めている。
「あの娘の血も中々美味だったけれど、やはり須玖里には敵わないね。君の裡からは、芳しい血の匂いがする。村人たちが長年須玖里を生贄として差し出すから、私の舌はすっかり須玖里の血に慣れてしまったんだよ。今では、須玖里の血が最も口に合うようになってしまった。これまで味わってきた様々な血の中でも、須玖里のものは最高に甘美だ。私に至上の悦びと快楽を与えてくれる」
 アーサーが囁くように告げ、要のシャツを乱暴に剥いだ。
 ボタンが強引にむしり取られ、首から肩にかけて肌が露わにされる。
「須玖里の血は、私にとって極上の美酒――麻薬のようものなんだよ。きっと、玲にとってもそうなんだろうね。玲は君の血を吸ったのかな?」
「玲は、おまえとは違う」
「同じだよ。彼は、君の血を吸いたくてたまらなかったはずだ」
「違う……玲は人間だ。おまえとは違う。おまえだって、最初からそうだったわけじゃないだろ? 血を吸わなければ、玲はずっと変わらず――人間のままでいられる」
「無理だね。あれは私と同じ血を啜る者だ。血を呑まずには生きられない、呪われた存在なんだよ。いずれ私のようになる」
「黙れっ! そんなに簡単に言うな。呪われた存在だと理解してるなら、なぜ……玲を創ったりしたんだよっ?」
「どうしてだろうね? 強いて言えば、ただの気紛れ――そう、好奇心かな」
 要の狼狽振りを楽しむようにアーサーは軽い口調で応える。
 要は怒りに眦を吊り上げ、彼を睨んだ。アーサーから逃れようと四肢に力を込めて激しく抵抗する。
 しかし、アーサーの細い身体は意外なほどに強靱だった。
 軽く触れられているとしか思えないのに、肩に置かれた手はピクリとも動かない。片腕一本で要の動きは完璧に封じ込まれていた。
「どうして玲を創ったんだよ……。おまえのせいで玲は村人たちから忌避され、ずっと辛い想いをしてきたんだっ! おまえさえいなければ――」
「私がいなければ、君が玲と出逢うこともなかった。それに、五年前に玲を見捨てた君に詰られる所以はないね。今になって玲の味方をしても遅いんじゃないのかな? 虫が良すぎるよ。狡いね、君は」
 アーサーがせせら笑う。
 胸中を見透かされたような気がして、要は息を呑んだ。
 図星だから、彼の一言一言が鋭利に胸に突き刺さる。
「確かに……僕は狡いのかもしれない。それでも僕は、玲に人間として生きてほしい」
「無理だよ」
「玲を救う方法はあるはずだ。知ってるんだろ?」
「生憎だけれど、知らないね」
「嘘だ。何かあるはずだ。おまえを鬼に変貌させた奴は、呪われた運命から解き放たれる術を教えてはくれなかったのか?」
「そんな大昔のことは忘れてしまったね。仮に何か覚えていたとしても、忌まわしい過去なんて口にしたくもない。――ああ、そうだ。血の呪縛から逃れられる術なら一つだけあるよ。完璧な肉体の消滅だ」
 明らかにからかっている口振りでアーサーは告げる。
 その言葉を聞いた瞬間、要は絶望に襲われた。
 完璧な消滅――それは緋月村の住人が、アーサーの魔手から逃れるために百年以上も考え続けてきた事柄だ。
 だが、未だに誰もそれを成し遂げてはいない。
 答が見つかっていないのだから、実行するのは到底不可能だ。
「玲……」
 要は悄然と幼なじみの名を口ずさんだ。
 玲を救うことなど、端から自分には無理だったのだ。
 玲がアーサーのような悪鬼に変じるのは耐え難いが、この手で抹殺することは更なる苦痛だ。もっとも、完璧な死を与える術など持ち合わせてはいないのだが……。
「さあ、お喋りはもうお終いだよ」
 限りなく優しい声音でアーサーが囁く。
 彼の牙が喉に触れた。
 全身に震えが走る。
 恐怖ではない。
 得体の知れない昂揚感のせいだ。
 アーサーの牙が触れた瞬間、性的快感に似た衝撃が体内を走り抜けたのだ。
「怖がることはない。君は、玲の幼なじみだから特別だよ。ゆっくり、丁寧に、時間をかけて血を吸い尽くしてあげるよ。その間、君には何の苦しみも与えない」
 アーサーの指が要の肩を滑る。
 ナイフのように研ぎ澄まされた爪が皮膚を裂いた。
 痛みはなかった。
 ただ、肩から滲み出す血を見た途端、『もうどうでもいい』という投げ遣りな感情が心の奥底から迫り上がってきた。
 全身から力が抜けてゆく。
 崩れ落ちそうになる要の身体を、アーサーが素早く抱え直した。
 血の溢れる傷口にアーサーの唇が寄せられる。
 彼の舌が血の雫を掬い、次に鋭い犬歯が傷口に押し当てられた。
「つっ……」
 再び、要の全身を甘美な衝撃が襲う。
「れ……い……」
 要は喘ぐように玲の名を呼んだ。
 アーサーの双眸は蒼から真紅へと変色している。
 村を照らす月と同じ紅――石榴石のような輝きは、魅惑的だが同時に邪悪でもあった。
 喜悦に輝く双眸は、理性や知性とは縁遠い。獰猛な肉食獣の眼光に似ている。
「れい……玲――」
 要はおぞましい行為に眉根を寄せて耐えながら、ひたすら玲の名を連呼した。
 意識が薄れかけてゆく。
 徐々に不明瞭になってゆく視界の中、アーサーが肩から唇を離して微笑んだ。
 口の端から垂れている血の糸がひどく禍々しい。
 もう一度艶然とした微笑を湛え、アーサーは唇を肩へと戻した。
 二本の牙が深々と肌に突き刺さり、傷を抉る。
 牙の先端が血管に達したのを感じた瞬間、要はあまりの恐ろしさに自ら意識を手放した。


     「十一.地下牢」へ続く



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