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ファンタジー&ジュヴナイルを中心とした自作小説です
Tue
2009.06.02[20:38]
     *

『――さん……。直杉さん、いつまで寝ているのですか? 早く起きていらっしゃい。お祖父様が稽古場でお待ちしていますよ』
 徳川直杉は、母の声で目を醒ました。
 毅然と――いや、どこか険のある母の声。
 それに、神経細胞がピクリと反応したのだ。
「……母上?」
 直杉は瞼を押し上げた。
 目を開けても暗闇が広がっている。
 闇の中に、自分は一人ポツンと佇んでいるらしい。
 足が地に着いていないような、奇妙な浮遊感があった。
 ふと、闇に白い染みのようなものが滲む。
 直杉は、浮かび上がる白い物体の正体を見極めようと目を凝らした。
 乳白色の染みは、人の姿を象っていた。
 黒髪をきっちりと結い上げた和服姿の女性が、直杉を拒むように背を向けて立っている。
 冷厳さを漂わせる後ろ姿に、直杉は息を呑んだ。
 冷たい背中――忘れるはずもない。
 それは十七年間、自分に対して背を向け続けてきた母の姿なのだから。
 ――これは……夢か?
 母・徳川美弥子(みやこ)が、いつものように背を向けている。
 直杉は訝しさを覚えて、暗闇に視線を巡らせた。
 母と自分以外は何も存在していない昏い空間。
 しかも、母の姿は半ば透けている。
 明らかに現実の世界ではなかった。
 ――夢の世界に引きずり込まれたか。
 何者の仕業かはすぐに解った――水妖だ。
 水妖の霊力が、この不可思議な世界を生み出しているのだろう。
 妖しげな空間と母の姿を目の当たりにしても、直杉の胸に怯えや恐怖は去来しなかった。
 ただ、ほんの少しだけ後ろめたさを感じた……。
『直杉さん』
 美弥子が我が子を呼ぶ。
 自分に向けられた言葉ではないことを、直杉は瞬時に察した。
 美弥子の向こう側に、十歳前後の少女が出現したからだ。
 紺色の袴に身を包み、右手に竹刀を握っているのは――昔の自分だった。
『母上!』
 幼い直杉は頬を紅潮させ、嬉しげに母に駆け寄ろうとした。
『傍に寄ってはなりません』
 それを、美弥子の厳しい声が阻止する。
 少女が驚いたように足を止めた。
『わたくしは、貴女を我が子だと思ったことは一度もありません。貴女は、この世に生を受けてはならなかったのです。わたくしの腹から産まれてはいけなかったのです。わたくしにとって貴女は鬼門――呪われた子でしかないのですから』
 娘に向けるものとは思えぬ冷淡な声音で、美弥子は直杉を突き放す。
『直杉さん。どうして貴女は、男御子に生まれてはくれなかったのですか』
 血を吐くような声が美弥子の口から放たれる。
 彼女の背中が憤りに激しく震えた。
 ――ああ……思い出した。
 その光景を眺めながら、直杉は己の過去を反芻していた。
 母の痛烈な一言が、記憶の底に沈めておいた現実を全て掘り起こした。
 ――私には母の記憶がない。優しく微笑み、私を抱き締める、母の記憶が一つもない。




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